羊とメトニミー

丸くて茶色いホットケーキ

深堀隆介氏の「平成しんちう屋」行ってきました

  

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平塚市美術館で展示している「平成しんちう屋」に行ってきました。

透明樹脂にアクリル絵の具で金魚を描くスタイルで一躍有名になった深堀隆介氏。ネットで前々から知ってはいたけれど、なかなか作品を見る機会がなかったので行けてうれしかったです。

 

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市立美術館なこともあり、展示スペースはそこまで広くないけれど、見ごたえは十分。むしろ普段美術館に行くたびに「広すぎて疲れる……」と感じていたので、個人的にはちょうどよかったです。金魚というテーマのミニマルさにもぴったりだった気がする。

  

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 展示室に入る前のスペースに飾ってあったこちらは、先日行われたイベントで深堀自身がその場で描いたライブペインティングだそうな…これをライブペインティングってものすごいな…。

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既に何枚か貼った通り、透明樹脂とアクリル絵の具で生きているかのような立体的な金魚を創る作風がとてもユニーク。金魚酒に代表される枡に入った金魚だけじゃなくて、どんぶりやお弁当箱、筆洗などなど、いろいろなものに金魚が入っているのがおもしろい。2011年を境目に作品の質がガラッと変わっていて、12年以降は立体感がさらに増している。そのあたりの作風の変化を見比べたりしながら行きつ戻りつするのも楽しい。

 

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樹脂の立体作品ももちろん素晴らしいけれど、個人的には平面の絵画がものすごいヒットした。「生きている」というよりも「金魚のかたちで命を与えられたなにかがそこにいる」という生の感触にゾワゾワする。


会場には縦横数メートルにおよぶ絵から数十センチサイズの絵まであったけれど、どれもこれも観察力が常人のそれではない。ヒレや尻尾の透明感とか、目玉のやわらかさとか、鱗のヌメッとした感じとか。

立体作品の中にいる金魚は「華やか」という言葉がしっくりきて、平面の絵画として描かれている金魚は「生きもの」という言葉がしっくり来る。金魚への強い愛を感じたし、その愛を餌にした金魚が優雅に泳ぐ様子がはっきりわかる。

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なんというか、この人は金魚という生きものをじぶんの手で「作り直した」のだと思う。金魚というかたちを保っているし、実際これらは紛れもなく金魚なのだけど、ここにいた金魚たちは深堀氏の手によってしか存在し得ないんだろうな。 

 

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平面の絵画はほとんど撮影できなくて残念。今アップしている写真は、最後の展示スペースにある最新のインスタレーション「平成しんちう展」のもの。ここは自由に撮影OKなので、ぜひカメラを持って行ってみてください。

 

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展示スペースに一歩入ったところはこんな感じ。くわしいコンセプトなどは行ってからのお楽しみ。

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立体も樹脂以外にユニークなものが多くておもしろい。ものすごくおおきな金魚の骨格とか、瓦礫にスプレーで金魚を描いたような作品とか。思うに、この人は興味の方向性が少し違ったらめちゃくちゃイケてる生物学者になったんじゃないかと思う。芸術として表現し直すといういとなみと同じくらい「生きものを捉える」というのがうまい。いのちに対する敬意や畏怖が作品の所々から感じられました。

 

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平日のせいか人はかなりすくなく、館内は静か。教会みたいな雰囲気の美術館だった。東京の商業的な美術館のスタイルを見慣れていたので、こういう雰囲気の美術館に久しぶりに入ってものすごくワクワクする。

 

平塚市美術館は駅からけっこう歩くので、バスで行ったほうが良いです。特にこんな炎天下の日々は……。しかし東京から往復3時間、交通費3000円をかけて行く価値はじゅうぶんにあります。おすすめです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

20180711 慢性的な疲れ

 

慢性的な疲れがずっととれていない気がする。いつからなのかは、正確には思い出せないけれど。

 

疲れると、たいてい寝るとか食べるとか、あるいは体を動かすとか、整体に行くとか、そういうことをしてきた。だけど最近やっと気づいたのは、そういうやつじゃいい加減誤魔化せないってこと。地面の上に「日々の疲れ」がドスンドスンとブロックのように乗っていて、食べる寝る運動整体などをするとそのブロックは消えるんだけど、そもそも地盤がグラグラなのだ。病院に通っても何をしても、ずっとグラグラ。それがおそらく人生をすこし暗いものにしてしまっているのかもしれない、と思う。

 

地盤の歪み。いつからだろう。いつからわたしは「疲れた」と感じるようになったのか。

 

小学生の頃はたぶん、ほとんど感じていなかったと思う。初めて「疲れた」と意識して口にしたのは、中学生の頃だった気がする。そのときはけっこう切実に「生きているの、疲れた」と思っていた。たぶん、あのときからなのかな。ずっと疲れているのは。

 

小学生から高校生が終わるくらいまでにかけて家庭環境がかなり荒れていたなかで育って、そのなかにいることに「疲れてしまったんだ」と気づいたのが14歳くらいの頃のこと。いらい、ずっと居場所がない気がしている。心の休まる場所がどこにもない。誰かと一緒にいるのもすごく疲れる。誰かと付き合っていてもそのひとの隣が自分の居場所だと思えることはほとんどなかった。自室にひとり引きこもっているのがいちばんいい。結婚は同じマンションの中に二部屋とかで、軽い別居婚くらいがいい。

居場所がない、というのは、安心できる場所がないということに等しい。安心できる場所がないと、地盤の歪みはきっと解消されない。ここがわたしの安心できる場所、という場所を見つけられるまで、きっとずっとなんとなくいつも疲れていて暗いままだ。

 

かつて欲しくて欲しくてしかたなかったけれど、結局手に入らなかったもの。このさきどうがんばったってそれは手に入らないし、べつのかたちを見つけて満たしていくしかない。それが「癒やす」ということなのかな。どうしたらこの疲れは、癒やされていくのかな。

 

 

 

unreasonableを忘れてはならない―『聖なる鹿殺し』感想メモ

 

unreasonable―不合理な、無分別な、気まぐれな、非現実的な、筋の立たない、理性に従わない

わたしなら、この単語に「わけのわからない」という訳をあてる。

 

わたしたちは、想像力と言語なしにunreasonableの恐ろしさと向き合うことはできない。unreasonableの恐ろしさとは?理解ができない、法則を見いだせない、予測ができない。だから昔の人々は、神を作り上げることでunreasonableと自分たちとのあいだに線引きをし、ギリギリの防衛をした。言語で名前を与えて線を引き、想像力でunreasonableの存在をさまざまに仮定しなくてはならなかった。なぜ天から滝のような雨が降り、激しい稲妻が走り、河が怒り狂うのか。なぜ子どもの身体が急に熱を持ち、呼吸が乱れ、やがては生命まで奪われてしまうのか。サイエンスが発展していなかった頃の人間にとって、それらはすべてunreasonableだ。理由は誰もわからないし、それらはランダムに起こっては人々にたくさんの痛みを与える。ゆえに、それらに"unreasonable"とラベルを貼り箱に放り込んでしまうしかなかったのだ。

 

サイエンスが昔よりは発達したいまも、わからないことや解決できないことは相も変わらず山積みになっている。世界中の人々と一瞬で通信して、鳥の目から都市を見渡せるようになったわたしたちは万能感に騙されて、実は昔と変わらない態度でunreasonableを自然と遠ざけている、ということを忘れている。

 

引用:http://www.finefilms.co.jp/deer/

 

聖なる鹿殺し』はまさに、人間がunreasonableに正面から直面する映画だった。なぜスティーヴン(主人公)の家族の健康や、平穏な暮らしが刻々と奪われていくのか。なぜたった一人の少年が、恐ろしい呪いをスティーヴンの家族にかけることができたのか。そうしたことに関する説明はこの映画では一切なされない。スティーヴンは、数年前の自身の医療ミスがこの呪いの理由であることを自覚している。自分の過失で他人の家族を奪ったのだから、自分の家族を一人差し出さなければならない。「殺してしまったから誰かを殺さなくてはならない」というunreasonableを、否応なしに主人公も観客も呑み込まざるを得ない。生贄。生死という神の領域に人間である自分が立ち入ってしまったことへの償いなのか、それとも単純に人を死なせてしまったことに対する償いなのか。冷静になってみれば何もかもがunreasonableで、ふつうに話を聞けば「えっ、何それありえなくない?」と受け流してしまうような事態を、当たり前のように観客にすら呑み込ませる。この映画は、unreasonableの見せ方がものすごくうまかったのだと思う。

 

劇中、スティーヴンは気が触れているような行動を繰り返す。入院して食欲のない息子の口に無理やりドーナツを詰め込んで窒息寸前に追いやったり、少年を誘拐して自宅の地下に監禁しひどい暴行を繰り返したり、果てには「生贄」を決めるために家族全員を拘束し、自分も目隠しをして誰かを殺すまで発砲を続けた。

わたしたちは普段、 reasonableな世界のなかで、秩序、ルール、習慣、規則、法則に守られて暮らしているのだ。それらを守っているようでいて、実はこちらが守られている。しかし、ほんのすこしのunreasonableがその影をわたしたちの生活に落としたとき、わたしたちはあっという間にあちら側に飲み込まれていく。

もともとわたしたちは、混沌の中から生まれたのだった。地球上に人間という生命体が誕生したのは、水をいっぱいに張った25メートルのプールに、時計の部品をすべて分解して投げ入れてかき混ぜて、その部品のすべてが時計として完璧に組み上がり、秒針が0から1へと動くのと同じ確率だった、と何かで読んだことがある。つまり、わたしたちはもともとunreasonable側から生まれている。カオスに落ちるのまでに長い時間は必要ない。人が秩序や規則を作ったのは、その上にreasonableという城を築くことで、集団で暮らす知的な生命体として平穏な日常を手に入れるためだ。実はunreasonableのほうがはるかに「自然」であって、reasonableのほうが本来的には不自然なのかもしれない。一瞬でunreasonable側に落ちていく彼らを見て、そう感じた。

 

ゾクッとするのは、unreasonableは意識していないだけでいまも当たり前のようにわたしたちの生活に潜んでいる、というよりも、どの瞬間にもわたしたちはunreasonableと隣合わせであるという事実。そしてそれを忘れてしまっているということ。事件や事故が起こるたびに「なぜあの人が」という声を聞くし、わたしも家族を亡くしたときに、「なぜ」と何度も思った。reasonableな世界の端がめくれ、unreasonableが一瞬顔を覗かせとき、わたしたちは勝手にいろいろな理由をつけてそれらしく納得している。けれどいまだに、人をはじめとした生きものがなぜ死ぬのか、なぜ自分自身が生まれたのか、誰もわかっていない。そして「わかっていない」という事実を忘れている。

 

ほんとうは、毎日のどの瞬間もわたしたちはunreasonableに包まれている。『聖なる鹿殺し』はそれをまざまざと思い知らせてくれた。

なにかになりきる、ということ

 

毎日短くてもいいからインターネットに文章を残していく期間、再開。書かなかった理由はシンプルで、インターネット上におもしろいと感じられる文章をここ数ヶ月全然見つけられなくて、嫌になって、でもじゃあお前はおもしろい文章が書けるのか?と自問自答したら怖くなってしまったから。考えに考え抜いて地べたを這いずり回ったり、最近知り合った編集者のひとにいろいろと相談に乗ってもらったりした結果、「おもしろいかどうかは読み手に委ねればいい」という割り切りと「ウェブメディア界隈が盛り上げようとがんばっているものはのきなみおもしろくない」という結論のふたつを腹落ちして導けた。なので、気負うことなく書きます。ここはわたしの庭でいい。都会の谷にある、誰も訪れないちいさな庭。

 

今日たまたま、ギターをやっている友だちがライブでのソロの映像をツイッターにあげていて、それがすごくよかった。

 

 

わたしは音楽の素養をまったく持っていないので、技術がどうとか、使っている楽器がどうとか、音楽そのものがどうとか、そういうのはぜんぜんわからない(5回くらい見たけど、手元がすごくいそがしそうでギュンギュンした音が出てるな、とだけ思う)。

だけどこの動画をすごくすきなのは、ツイートにある言葉通り、この時間と空間のなかで彼は100%ギターヒーローだったんだろうな、ということが、もう、見ている側にもありあまるくらい伝わってきたから。勝手に笑顔になっちゃうくらいに。髪を振り乱して全身をグラグラ揺らして、沸騰しそうなギターヒーロー

 

10歳くらいまで、わたしは毎日いろいろなものに変身していた。プラスチック製のモンスターボールピカチュウのぬいぐるみがあればポケモンマスターだったし、道路に落ちている透明なBB弾は神さまから選ばれた秘密の証だったし、家庭科の時間にデタラメに縫った布はいつか飼う犬のためのバンダナだった。その後まさかほんとうに犬を拾うとは思わなかったけれど。なりたいものそのものになりきるのはとても簡単で、たのしくて、ワクワクした。それだけで毎日がおもしろかった。どうせなれないとか、いつかなれるのかなとか、そんなことすら考えず、ただただ「今日のわたしはこれ!」と何かになりきって遊ぶのが、とてもたのしかったのだ。

 

熊谷くんの動画を見て、ああ、あの頃のわたしもきっとこんな気持ちだったのかなあとなつかしくなった。いまはもうずいぶん、なにかになりきる気持ちを忘れてしまっている気がする。思い出したい、と素直に思った。熊谷くん、きみはもう120%ギターヒーローで、ロックスターだよ。かっこいい。ありがとう。

万引き家族 感想メモ

万引き家族、観てきた。映画を観ること自体ひさしぶりで、何を観ようか迷ったんだけど、とりあえず手近なところで、という気持ちで観たので、特に事前情報などは仕入れず、期待も持たず。

 

久しぶりに映画を観たせいなのか、それともこの映画であるからそう感じたのかはわからないけれど、「これを人に伝えたい」という思いで差し出されたものを素直に受け取るのってむずかしいなあと思った。なんというか、論評されたり批判される要素がこれでもかというほど詰め込まれていて、胸焼けした、というのが個人的な感想。途中から中身についていくのに疲れてしまい、樹木希林安藤サクラ、子役の佐々木みゆの一挙手一投足にばかり注目していた。この映画は女性俳優たちの演技がものすごくよかった。過剰すぎない、自然すぎない、不自然すぎない、語りすぎない。うるさくないのが一番だ。松岡茉優はかわいかったけれど、役がハマりすぎて知育玩具のおもちゃみたいな感じ。

 

おそらくこの映画は、いろいろな文脈からいろいろな論評や批判をされるのだろうし、監督もそれを望んでいるのだと思う。じゃなきゃこんなにも描く生活にリアルさを追求しなかっただろうし、論点もたくさん詰め込まなかったはず。頭のいい人たちが、この映画のなかで描かれた社会問題とか、共同体の構造とか、そういうものについてここぞとばかりにインターネットで持論を書き綴るのが目に見える。だけどわたしはすごくひねくれているので、そういった批判の機会みたいなのを与えられてしまうと、すごく戸惑う。作品から何を受け取るかはわたしの自由であって、そこに作り手の「ここを見てください!」が入ると、すごく萎えてしまう。ツアーバスと一緒。右手にかの有名な観覧車がございまーす!というやつだ。ツアーバスと違うのは、差し出されたコンテンツは消費されるだけでなく、そのさきもどんどん人の手によってさまざまなかたちをとって積み重なっていくこと。誰かのブログとか、日記とか、レビューとか、そういうかたちで。それを読んだ人が作品を見て、なにかを残して、それを読んだ誰かがまた…というふうにつながっていくところ。誰かが残してくれなければそのコンテンツはすぐにみんなの視界から消え去って忘れられてしまう。だから、ストックされるレビューを残す作品っていうのはそれだけですごい、のかもしれない。

 

豊かさとお金をどう引き換えるかって話

 

豊かさとは、という話。

これまでお金に関する自己啓発本や投資のテクニック本などを数十冊ほど読んだり眺めたりしてみたけれど、だいたいの本に共通して書いてあったのは「消費ではなく投資をしろ」とか、「のちのちまで負債を背負い込むものに手を出すな」とか、「お金を稼ぐことではなく殖やすことを考えろ」とか、そんなかんじのことだった。では実際に何に投資をすべきで何にお金を使うべきではないかなどの具体例を挙げている書籍も多く、言いたいことはまあわかる。

 

そしてほとんどの本に共通して書かれているのは「〜をすると得(損)だ」という言葉。


わたしがこの言葉を見るたびに不思議に思ったのは、いったいこの本を書いた人たちにとって「得」とか「損」とかいうのが何を指しているのか、そしてわたしたち自身の「得」とか「損」はどう決まるのか、ということ。

たとえば、「ローンを数十年払い続ける持ち家を買うよりも死ぬまで賃貸で過ごした方が得だ」という話は、確か7〜8冊の本には書いてあった。言いたいことはわかるし、その原理も納得できる。電卓はあれば50年で持ち家と賃貸にかかるコスト差がどれだけになるかもすぐに計算できる。

けれども。

たとえば、「家族がいつまでも”ここが我が家”と帰ってこられる家がほしい」と願う人や、「自分や家族のライフステージに合わせて家を作り変えながら永く住むことを愉しみたい」と思う人にとっては、たとえ賃貸のほうが50年で数百万円の得(=コストカット)になろうとも、持ち家を買うことのほうがずっと価値がある。それは値段のつけられない価値であり、豊かさそのものだ。数字で測れない豊かさに対して、得とか損とかそういう話を持ちこむことはできない。

 

じぶんにとっての豊かさとは何なのか、豊かさを手に入れるためにお金と時間をどう使うか―そうしたことを考える機会は、少なくとも自分で稼ぐようになるまでほとんどなかった。
社会で出会う人たちのなかに、お金のさまざまな使い途を知っている人はたくさんいるけれども、お金と豊かさの引き換え方を知っている人は多くないように感じる。じぶんにとってほんとうに価値のある豊かさとは一体何なのか、それさえ真摯に見つめることができれば、お金って案外ついてくるもんなんじゃないか、と思ったり。

 

椎名林檎が歌っている「価値は生命に従って付いている」ってことば、すごく良いからみんな聴いてね。

 

 

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みずみずしい一瞬のいのち

困ったら助けるから困ったら助けてください

 

間違えないように、困らないように、困ったらいつでも自分の力で解決できるように。
これまでそうやってがんばってきたけど、そろそろこのスタイル、変えたほうがいいかもなあ、と思った。雨の日の、駅のホームで。

 

外出はサバイバルゲーム。特に雨の日などは体調が悪くなりやすい上に、電車を利用する人が増えるから、外に出るだけで非常に緊張する。取材や仕事の打ち合わせなら集合時間より30分早く現地に着くよう電車に乗るけれど、初めて降りる駅で大きな発車音やアナウンスが鳴っていたり、集合場所に似たような高いビルがドシドシ建っていたりすると、途端に全身の皮膚がゾワゾワ粟立つ。焦ってしまう。さらに雨の日でたくさんの人が駅のホームにいたりなどすると、それはもう、心臓が早鐘のように鳴る。ゴンゴンゴン。どうしよう、だいじょうぶ、またいつものパニックを起こしてしまうのでは?辿り着けなかったらどうしよう、時間に間に合わなかったらどうしよう?そんなとめどない不安が湧いて、口では「落ち着かなきゃ」と言いながら、どうしても挙動不審になってしまう。頭ではわかっているのに、どうにもこうにも体の震えが止まらない。

そんなとき、ときどき親切なひとが声をかけてくれる。気付いたらボロボロ泣いていることもあるわたしにやさしく声をかけ、駅員室まで連れて行ってくれる。少し落ち着いてから事情を説明して、そこで呼吸が整うまで休ませてもらう。駅員さんも皆やさしい。ありがたい。

予期せずしてある意味での弱者となってから、ひとに助けてもらうことのありがたさが身にしみてわかるようになった。声をかけてくれる人や休ませてくれる駅員さんは、みんな名前も顔も知らない赤の他人。名前も顔も知らないままに誰かに手を差し伸べてもらうたびに、「人間ってありがたい」とつくづく思う。思いやりとか、協力とか、そんな名前をつけられるずっとずっと前から、人間には本能として他者にすっと手を差し伸べるちからがそなわっているのだと感じる。それはおそらく、sympathyと呼ばれる。

 

雨の日の駅のホームで各駅停車を待ちながら、ふと、「誰かが困っていたらできるかぎり助けよう」と思った。そして「だから、わたしが困っていたら誰かまた助けてください」とも。それは「〜するなら〜する」という条件付きの人助けへの意志ではない。ヒトといういきものとして在るべき姿を思い出したようなすがすがしさがあった。ずうずうしい、と言われるかもしれない。けれど、それでいいんじゃないか、と思う。

自分の周りに起こるトラブルには、たくさんの種類がある。デキる人というのは、いくつかのトラブルが起こったとしても、すみやかにそれらすべてに対処し、他人に迷惑をかけず解決できる。「まあこういうこともあるよね」とちょっと困ったような顔で、でもニコニコと笑いながら。そういうスマートな人になりたい!と心から思うけれど、現実問題、雨の日に電車に乗るだけで精一杯のわたしには到底無理そうだな、と思う。でもせめて、問題のスムーズな解決は無理だとしても、困った顔でニコニコくらいはできるようになっていたい。なんというか、あの余裕っぽい感じがあれば、このさきもなんとかやっていけるんじゃないか。

ではどうするか?

みんな得手と不得手がかならずある。たとえば雨の日に電車に乗ることが何でもない人でも、地図を読むのがとても苦手なことがあるかもしれない。大きな音を聞かされるのが平気な人でも、気持ちを口にすることがとても苦手なことがあるかもしれない。そういう「困った」になっている人を見たら、わたしはその人を助けようと思う。「苦手なことってすごく困りますよね」って、笑いながら。それで、わたしが駅や街で困ってしまったときは、困っていますと知らない誰かに言うことをおそれないようにしようと思う。自分ひとりでたくさんの自分の「困った」を抱えるより、手を差し伸べられそうな他人の「困った」を手伝いながら、自分の「困った」も他人に助けてもらったほうが、なんか、ニコニコと笑っていられるような気がする。

困っていそうな人はとりあえず助ける、自分が困ったら潔く助けてもらう、というふたつの行動指針は、案外悪くないんじゃないかと思う。なんでもひとりで頑張ろうというつよい意志よりも、太古よりヒトとしてそなわっているsympathyを思い出して大切にしていきたい。

 

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たまたま公園にいた知らない人の知らない犬。レンズを向けたら突進してきた