羊とメトニミー

過不足なし

「一言もの申し上げたい欲」のためにセンシティブな話題を燃やす人間が多すぎる

 

3年前の広告が燃える。最近ツイッターで火を見ない日はないんじゃないかと思われるほど毎日そこら中で火事が起こっている。常時スプリンクラーを全開にしてもきっと追いつかない。その多くはマイノリティやフェミニズムに関する炎上で、これらのムーブメントに食傷気味の人も多く見られる。

ツイッター上では、これまで声を上げられなかった不条理や理不尽に対する怒りの爆発が大流行している。今までおかしい、嫌だ、と思いながらも我慢してきたけど、でもぶっちゃけこれってやっぱりヘンだよね?という不条理に対して怒りを燃やす人が後を絶たない。実際、「人々が過剰にセンシティブになっているのではないか」という声も多く上がっている。しかし、専門知識を持つ一部の層を除き、「また炎上? もう疲れちゃったよ」「ちょっと過剰すぎない?」「みんながみんなに優しい世界ができるといいね」以上の議論が進んでいる様子は今のところほんどなく、これでは結局「つらかったのは分かるけどそんなに怒りすぎないで」「みんなで努力して良い世界に変えていこうよ」という小学校並みのオチしかつかない。

 

わたしは昔、殺人事件のニュースに強い興味を覚える子どもだった。幼稚園生の頃から、朝の登園前にニュースで殺人事件がやっていると画面に釘付けになっていた。いつどこで死んだのか、どんな凶器で殺されたのか、何歳か、性別は、名前は。しかしそれ以上に気になったのは「どうして殺したのか」だった。加害者はなぜ被害者を殺したくなったのか。幼稚園のばら組さんだった頃は難しい言葉や道理など一切わからなかったが「金が欲しかった」「人間関係のトラブルがあった」のように、殺す側には何かしらの理由があるのだということはなんとなくわかった。そしてそれはすべての場合において、加害する側の弱さが最悪の形へと変わって表れた結果であることも。

 

さて、燃えているツイッター。燃やしている側には、どんな理由があるのか。一連のさまざまな着火や炎上や延焼を見て、わたしが最も気になったのはそこだった。

はっきり言って、今ツイッター上でセンシティブな話題を燃やしている人のほとんどは、正義と大義名分を振りかざして「人に何かを言ってやりたい欲」を満たしたいようにしか見えない。加害は加害者の弱さそのものだ。加害する人は、同じように誰かに加害された経験を少なからず持つ。良い形の解決を本当に目指しているならば、他人の弱さを煽ったり晒したりする問題提起の仕方はすべきではないことくらいわかるはずだ。意図していなくとも「燃えそうな」書き方をする人は、心のどこかに「燃えたら良いな」という思いを持っているのだと思う。意地悪でそう言っているのではなく、人間誰しも、自分を加害したやつに仕返しをしたい気持ちを持っているのは当たり前のことだから。そして問題が道徳的な正義を背負える性質のものであるほど、「言ってやったぞ」という物申したい欲はなみなみに満たされていく。間の悪いことに、セックスとジェンダーを包括する「性」のトピックは、この性質と相性が抜群だ。

 

たとえばこれ。発端となったツイートはこの記事の本旨は関係ないため文脈は省略するけれど、ある誤った指摘をした人に対して、まったく関係のない外野が列をなして嬉々としてお説教を垂れている。誤った指摘をした当人の肩を持つ気は微塵もないが、「外野がそこまで寄ってたかって叩くようなことか?」という感想しか出てこない。

 

 

こんな現象は毎日何百何千と観測される。これだけでなく、「悪行をしたやつにこんな仕打ちをしてやってスカッとしたぜ」系のコンテンツは、古くからメディアに溢れかえっている。センシティブ炎上芸が流行るより、ずっとずっと前から。

正論で人を殴るのは気持ちがいい。大義名分を背負って野次を飛ばすなんて最高だ。わたしたちの多くは、程度の差こそあれ、「一言もの申し上げたい欲」「大義名分を掲げて何かを思う存分に殴りつけたい欲」を心のうちに秘めている。非常に、非常にダサいけれど。なぜそんなことがわかるかというと、わたし自身、そうやって他人のことを撲殺してきたからだ。圧倒的に正しくて強大な道徳を味方につけ、正義のために悪い奴らをやっつけたい。そうやって気持ちよくなりたい。でも一体、どうしてそんなことをする必要があるんだろう。

 センシティブ炎上芸は、いじめの構造と非常によく似ている。いじめっ子といじめられっ子は、客観的に見れば問答無用でいじめっ子が悪いのは間違いない。しかしいじめっ子たちの主観から見れば、彼らの行いは正当なのだ。自分のしていることを「(自分にとって)100%悪いことだ」と認識しながらそれをやる人間はいない。「(客観的に見たら)悪いことだよなあ」ということはわかりつつ、それでもそれをやることが自分にとって何らかの善であることしかやらないように人はできている。先生にいたずらの告げ口をしたから。弱っちいから。なんかムカつくから。だから、あいつをいじめる。彼らには彼らなりの正当な理由があり、彼らの正義に従って人をいじめる。その理由が客観的に見て不当であるかなんて、いじめる側には関係ない。これと全く同じ構造の炎上が、今まさにそこかしこで起こっている。

 

今後もやまないであろう炎上において意識すべきは、弱さと正義を盾にした炎上芸と本当に必要な問題提起を見誤らないことだ。その線引きはシンプルで「関係する全員にとってより良い形へと収束するような問題提起ができているかどうか」だと思う。傷つきました!嫌な思いをしてきました!許せない!という感情の発露は、ネガティブな感情を増幅させども、本質的に壁を壊す力にはなりえない。本当の解決とは、誰もの傷が癒え、同じ事態を二度と引き起こさない土壌を育てるところにある。綺麗事ではなく、本気でそう思う。加害された側が被害を受けた側に懲らしめられ一時は大人しくなったとしても、必ずいつか復讐が始まる。ならば、全員が傷を癒やすしか道はない。そのためには、まず問い方に慎重になるべきだと思う。どう世に問うか、どうあなたに問うか、どう自分に問うか。そこからすべては始まっている。

190601_眠りの瞬間

6月になった。気づけば一人暮らし生活がとっくに5ヶ月以上経っていてびっくりする。そろそろ2回目の四半期を迎えるらしい。まじか。でもたしかに、この部屋で色々な室温を味わったような気がする。

生活は、楽しい。4月末から5月半ばにかけて仕事がだいぶ大きく動き、付き合う人びとの半分がまるっと変わったりもしたが、それはそれでよかったのだと思う。何が大切であるかは手放してみないとわからない。そうそう、エッセイの連載も無事終了。「大切とはなにか」というテーマで4月頭から書き始めたときは、まさかこのテーマにダイレクトにつながるような出来事が立て続けに起こるなんて予想もしていなかったので、おもしろい。手放してみたあとで振り返ると、あのときはこんなもんだと思っていたが、実はそれってそうじゃなかったんじゃないの?みたいなこともあるので、やはり意味なんてあとからしかわからないものだなと思う。

短歌の歌集が増えた。引っ越しをして一番増えたのは歌集かもしれない。良い歌集と悪い歌集というのはよくわからないが、手放したくない歌集に出会えるのは稀だ。ご贔屓の出版社のものは版元から取り寄せるが、ちょっと名前が気になるくらいならAmazonの古本屋から買っちゃう。この前、某古本屋から届いたある一冊を湯船に浸かって読んでいたら、表紙の隙間から「謹呈」と書かれた細長い紙がはらりと落ちた。これを手にしたのが著者じゃなくてわたしでよかったな、と思った。

5ヶ月住んでわかったが、この家は睡眠に向かない。諸々の位置の関係上、いまの季節など朝5時を過ぎると朝日が強引に枕元へと飛び込んでくる。遮光カーテンを引いても洗濯物を干しても、隙間をつらぬいてくる。 朝の光というのはこんなにもつよいものだったかとびっくりした。端的に、寝不足。けれども二度寝の仕方を覚えた。眠る瞬間というのは、広く青暗い湖に、白い魂を泳がせにいくような感覚がある。その瞬間、身体も前のめりに倒れて、水の底へと落ちていく。何時間か経つと、魂が底に沈んでいる身体に戻ってきて入り込み、その瞬間、水面に向かって浮かんでいく。これが覚醒の感覚。そんな光景が、毎朝目が覚めた瞬間にいつも瞼の裏に浮かんでくる。なんでこんな景色を見るようになったのかは、よくわからない。

しかしあと一ヶ月足らずで夏至とは。夏至を過ぎれば、また昼間の時間がどんどん短くなる。朝も遅くなっていく。ことごとく信じがたい。つい最近まで「日が短くなったね」などと言っていたばかりで、「日が長くなった」と感じるようになったのがつい昨日のような気がする。19時で空が青いことの不思議さを、まだしばらくは新鮮に感じていたい。舗装路の脇に木槿の花が堂々と咲いている。あじさいも始まった。この土地は、道に花が多くてうれしい。

暮らせている、と思う。貯金もちょっとずつ右肩上がりに増えながら、都内に居場所を確保して生活をできていること。それを25歳の誇りとして、それ以外は何も誇りなど持たない。善く生きることを考えるより、まずは生きることを引き受けることについて考えるべきだと思った。この土地の鳩は図々しい。30センチの距離でも逃げない。ああいう余裕が必要なのだと思う。

190423diary_生きていたいのに透明になりたい

 

生きているのが好きだ。生きていると、けっこういろいろ幸せを感じられる瞬間がある。春の空の淡さ。信号待ちをしている犬のお尻。野菜のトマト煮込み。木漏れ日。炊飯釜の手触り。フラミンゴの膝。季節の花々。風の味。炭酸水。夜道の街灯。花瓶。大きな建物。温泉の香り。電車の車輪。川の流れる音。はじけそうな苺。はためくタオルケット。崩れそうなアボカド。友人。家族。恋人。待ち人。死んだ人。まだ生まれてきていない人。そういうものがぜんぶ好きだ。すべてがおどろくべき瑞々しさをもって、全身に迫ってくる。生活から与えられるありとあらゆる幸福を、心の底から愛している。

けれど同時にわたしは、消えてしまいたい。淡い青い空に溶けてしまいたい。気持ちよく。日差しが空を真っ平らにしている午後、青空へ落ちていく想像をする。気持ちはとっくに吸い込まれてしまって、身体だけが地上に残されている。そう、消えてしまいたい。この空に飲み込まれて、透明になって、すべてのひとの人生やさまざまな出来事からいなくなってしまいたい。そう思うことが、ときどきある。それは、つらくて死にたいという感情や感覚とはまったく別で、透明になりゆくことへの憧れのようなもの。かげろうのように。泡沫のように。凍る湖の水面のように。見えなくなること。存在しなくなること。誰からも惜しまれなくなること。誰の手元からも離れること。窒素の入った風船のように、空へ飛んでいきたい。

どうしてなんだろう? 生活はだいたい楽しく、仕事にも人間関係にも恵まれ、不満はない。不幸でもない。未来に対する漠然とした「見えない感じ」はあれど、不安にはならない。つまり、なにかか逃れたいから消えたいわけではないのだ。むしろ、一瞬一瞬が流れていってしまうのが惜しいほど、わたしは生活を愛している。人間のことも、生きもののことも、大好き。なのに、どうして?

ふたつの気持ちが同居している。生きていることのすべてを愛せる気持ちと、生の世界から消えてしまいたいという気持ちとが。そのふたつは時としてどちらかが大きくなったり小さくなったりしながら、しかしどちらかが完全なくなることは決してなく、いつも同時にわたしのなかに静かに息づいている。普段は均衡を保っているけれど、何かの拍子に消えたい側の気持ちが大きくなったとき、運悪くその気持ちが魔に捕まると、逃れられない。内側に棲む得体の知れない化けものが大きな影となって、肉体ごとわたしを飲み込んでしまう。

こんなふうに書くと、妄想全開の中二病っぽいだろうか。でも、誰もが感じているのではないか。じぶんの内側に、得体の知れない化けものを飼っている感覚。ときとして彼は魔に捕まり、暴走する。思考を自分でコントロールできなくなり、透明になりたかっただけの気持ちがいつのまにか真っ黒に塗りつぶされ、海底に押しつぶされたい気持ちへと変わっている。

青空が、見たい。

190421diary_散らばる鳩の残骸を見て

鳩サブレーを数年ぶりに食べた。びっくりした。鳩サブレーってこんなにおいしいの?砂糖と小麦粉と卵だけで?うそお?

鳩サブレーめちゃくちゃおいしい。おいしいが、めちゃくちゃボロボロこぼれる。もう、こぼれる。せんべいどころの話じゃない。週5で飲み会する大学生の単位並みにこぼれ落ちる。むしろこんなこぼれるような食感だから鳩サブレーはおいしいのかもしれない。しかしシャレにならない。床、鳩まみれ。

食べながらふと思う。いつからか、「なるべくこぼさずに食べよう」という発想がなくなった。ぼりぼり食べる。ボロボロこぼれる。床に鳩の残骸が散らばる。でも気にせずぼりぼり食べる。そして食べ終わったら机の上の残骸もまとめて床に払って、ソッコーで掃除機をかける。

実家に住んでいた頃、母によく怒られていたことを思い出す。「もうちょっと丁寧にやりなさい」「ちょっと気をつければ汚さずに済むのに」 いまでこそ昔ほど言われなくなったけれど、それでもやはり、床にこぼれた鳩の残骸を見たら、母は眉をひそめるだろう。床の板目のあいだにくずが入ったら掃除できないでしょ、とか言いそう。たぶん、言う。わたしはたぶん、聞いていない。

ミスしないこと、を目指していた。ただでさえおっちょこちょいだし、注意が散漫になりやすいから(なぜなら、驚くべきことにわたしの頭のなかは常に10個くらいの考え事や思いつきが同時並行でいろいろな音をたててまわっている)、なるべく手元に気をつけて、ミスをしないように慎重になろうなろうと。

けれど最近ようやく気づいた。慣れないことや向いていないことはしないほうがいい。どんなに気をつけたって毎月請求書の額はめちゃくちゃに間違えまくるし、洗濯物の干し方は下手だし、鳩は床に散らばる。間違えないように、と考えるだけで神経がすり減ってまいってしまうので、じゃあリカバリーの神になるしかないじゃん、と思う。リカバリーの神。たとえば、サブレーまみれの床にすぐ掃除機をかけること。請求書の額の間違いを教えてもらったらその場で1分以内に訂正して送り直すこと。洗濯ばさみの位置を間違えてもそのまま干し続けないこと。

やってしまいがちマンに大切なのは、そのままにしておかずすぐになおす力なのかもしれない。「どうせやらかすけど、リカバリーの神だから大丈夫」くらいの気持ちでいるほうが健全だし、実際、リカバリーの術を身につけていくことはけっこう楽しい。できないことの穴がひとつずつ埋まっていく。そうやって生活していけばいい。へんなとこ完璧主義はまだ直せないので、リカバリーによって最終形をなるべく完璧に持っていこうとするのは緩められないんだけど。あと5年後とかには、またなにか変わってるのかなあ。

20歳の頃許せなかったけれど今は許せるようになったこと、すごくたくさんあるような気もするけど、どうなんだろう。今だからそう思うだけで、その当時は「これが許せない!」ってそこまで明確に思っていなかったような気がする。なんだろうね。気づかないうちに少しずつ許せることが増えて、振り返ると「あれはあの当時許せてなかったな」って思うもの、なのかな。生活は見えない変化の積み重ねだね。目に見える変化なんてほんの少ししかない気がする。鳩サブレー、明治時代は鳩三郎って呼ばれてたらしいよ。かわいいね。

虚無にはセブンイレブンコーヒー、地頭はぜんぶファック

 

今日は昼過ぎから体調とメンタルが完全に終わっていた。悪い。悪すぎる。ひとえにこの連日の雨と寒さ、吹きつけるビルの谷間からの風。悪天候は健康を大きく損なう。頭がどんどん重くなり、何かを考えようとしてもまともに言葉が出てこない。だんだん自分がどこに立っているかわからなくなり、呼吸が自然と浅くなっていくのがわかる。

 

しかし体の不調より、心の不調のほうが何倍もしんどい。悪天候は体と心の両方をダメにする。脱力感。湧き上がって一面覆い尽くす憂鬱。ひどい離人感。自分の見ている世界が現実のものではないような、カメラ越しに時間が進んでいく感覚。かぶせるようにして「またこれか」という無念さ。一度メンタルを壊すと、回復しても少しのことで立ち上がれなくなるほどのダメージを負いやすくなる。体調を万全に整えても、ダメなときはダメ。「なんで?」と言いたくなるくらい、脆い。脱力感、憂鬱、離人感、無念さで気持ちはめちゃくちゃにされ、もう、虚無。めちゃくちゃに虚無。嫌な時間。嫌だけど、仕方ない、けど、本当に本当に、嫌。

 

コーヒーだ。一刻も早くセブンイレブンのコーヒーを飲む必要がある。仕事をしながら、わたしの頭はそのことでいっぱいだった。経験則上、悪天候で具合が悪くなったときはカフェインの強いコーヒーが効く。知る限り最もお手軽に強カフェインを摂取できるのはセブンイレブンのホットコーヒー。近くのカフェに寄ることも一瞬考えたが、もはや寒いとか雨が顔に当たるとか、そういう一切の刺激を受けたくなかった。

 

取材を終えて駅近くのセブンイレブンに飛び込み、コーヒーを買う。100円。すばらしい時代。寒いなか、火傷しそうに熱いコーヒーを飲むのは最高に気持ちよくて楽しい。家までの道を歩くうちに、諸々のひどい症状や感覚がすーっと楽になった。セブンイレブンのコーヒーは本当に一発で効く。スゴイ。

 

頭がクリアになって、やっとまともにものが考えられるようになった。虚無にさらわれてしまうのは、わたしの心が弱いからではない。単純に、脳内の化学物質が足りなくなるからだ。一度精神を病んでしまうと作られる化学物質の量が狂いやすくなる、みたいなことを病院の先生から聞いた。この虚無は100円のコーヒーを一発キメれば去っていく、なんのことはない神経作用の不具合。正しい表現であるかはわからないが、脳内の化学物質がときおり少なくなってしまう、それだけのことなのだ。化学物質の過多なんぞによってわたしのアイデンティティや性格や能力や心のあり方はまったく規定されない。何かが弱いとか劣っているとか、そういうことじゃない。ただそれだけ。それだけのこと。何も心配する必要はない。



地頭、という言葉が大嫌い。正確に言うと、地頭という言葉が使われる文脈の99%が嫌い。仕事上どうしても使う場面で何気なく発してしまうこともあるが、発した直後は心の中のレイチェルが「ファック」と呟く。レイチェルはずっと前からわたしの心に住んでいるアメリカ人のオカマで、不誠実なおこないをすると、わたしにファックとつぶやいてくれる。そう、ファックだ。地頭なんてファックなのだ。大抵の場合「地頭が良ければ成功する」「地頭が良い人は社会に出てからも強い」「地頭は生まれながらの才能であり、これが弱い人にはできないこともある」みたいな、ゴミのような文脈でこの言葉は使われる。めちゃくちゃにファックだ。

あと、「センス」という言葉も時と場合によってはあまり好きじゃない。「服のセンスがすごく素敵」とかはよく言うが、何かを成す上で、生まれ持ったセンスが成功のカギを握る、という文脈での「センス」は、なるべく使いたくない。

 

だって、それ言ったら終わりじゃん。「生まれながらに授かったもの=地」という意味なのでしょうけど、結局地頭が良い人がシャカイにおいて「強い」のだとしたら、努力する意味って何? そもそも、地頭って一体、何? 一を聞いて十を察せる理解力とか、論理的思考力とか、多くの人はそれらの力を「地頭」と呼ぶ。けれど、そんなものは人が持つ力のほんのわずかなひとつに過ぎない。人にはこれら以外にもたくさんの能力が備わっているし、「地頭」と呼ばれる能力群は、ある程度の訓練により真ん中以上になれることがほとんどだ。その訓練を10代のうちに受けられるかどうか、あるいは、それらの能力値がもともと高いということを早くから知れるかどうかは、教育環境や家庭環境の質に左右されるところも大きい。つまり、一定の年齢において発露されているように見える「地頭の良さ」なるものは、環境や努力の仕方など、もろもろ後天的な要素に依る部分が大いにあるのだ。

 

これら能力群が生まれつき高いことが、その人の人間としての価値の高さに結びつくわけない。ましてや、地頭の良さが人生における成功の鍵を握っているなんて絶対に嘘。物理法則と同様に確かですとでも言わんばかりの顔で「地頭の良さが人生の成功に大きく関わる説」を説く人がときどきいるが、そういう人はみんなばか。レイチェルに言わせればマザーファッカー。人はそのものが価値なのに、ほんの限られた能力が価値の高さを云々などと言う時点でお話にならない。

 

すべての人がさまざまな側面とさまざまな凹凸を持つ。当たり前です。雑に定義された虚像を特権めいたもののようにありがたがって、なにかの理由や言い訳にするその不誠実さが嫌いだ。地頭は一部の選ばれた人だけが生まれつき与えられた成功へのチケットであるという論法も大嫌いだ。この言葉は、どうも勝ち負けのイメージをはらんでいる気がする。頭脳勝負のうまさ、とでも言おうか。実にくだらない。頭脳勝負がうまければ、高い学歴を得たり栄誉ある地位を得たりするのかもしれませんが、そんなことよりもわたしには大切なものがたくさんある。人と痛みを分け合えるかとか、一緒に喜んだり楽しんだりできるかとか、日々の何気ない瞬間に愛情や感謝を伝えられるかとか、時間をかけた話し合いによって問題を解決しようとできるかとか。

 

苦手なことがあって当たり前だし、どんなに努力したってもともと得意な人にはどうしても遠く及ばないことだってたくさんある。でもあなたには、理解力や論理的思考力なんかよりもずっと秀でたところやうつくしいものがたくさんある。もう一度言う。地頭なんてぜんぶファック。憂鬱になったり虚無に襲われたりしたら、セブンイレブンの熱いコーヒーを一発キメよう。体質に合えばきっとすぐ楽になれる、はず。頭が悪いわけじゃない。心が弱いわけじゃない。大丈夫。

 

諦めが生む飾らなさ/相澤義和『愛情観察』レビュー

相澤義和さんの写真集『愛情観察』を買った。ものすごく良かったので、感想を書く。

 

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撮影スタッフとして参加したブックフェア「ポトラ」に、この本の出版元である百万年書房も出店していた。ブースで『愛情観察』を手にとって、数ページめくる。よくある女性のスナップ写真集かと思ったが、一枚一枚が強烈に目に焼き付いて、像がくっきりと立ち上がってくる。なんだこれは、と思った。ちょっと怖くなって、すぐに閉じた。

 

「仕事が一段落したらまた来ます」と言って持ち場に戻ったものの、レンズを覗いても、会場を歩きまわっても、あの写真集で見た人々の表情の一つひとつが頭から離れない。居ても立ってもいられなくなり、結局1時間そこそこでブースに戻ってその場で買った。

 

帰ってきて、スープを作って食べて、『愛情観察』をひらく。すごい。ほんとうに、すごかった。ページをめくればめくるほど、満ちと渇きが同じスピードでせり上がってくる。矛盾しているようだけど、そうとしか表現できない。見たい、もっと見たい。満たされたいからなのか、渇いてしまうからなのか、わからないけれど。途中から涙が止まらなくなる。

  

写真集を見ながらこんなにもボロボロ泣いたのは初めての経験だった。初め、どうして自分が泣いているのかわけがわからなかった。被写体たちが美しかったから?写真が良かったから? どっちも違う気がした。被写体となっているのは、ほとんどが街によくいるような女の子たちばかりで、表情や体型や身長、ポージングなども、文字通り「モデルらしくはない」写真が多い。フィルムカメラで撮られたような味のものや、ぶれているもの、光りすぎたり、あるいは暗かったり。何よりも彼女たちの裸の胸や下着が丸見えになっているものも多く、そうした表現が苦手な人が見たら「うっ」となるようなものが目立っている。

 

もう一度、辿ったページを見返す。しばらく写真たちを眺めて、また泣く。涙がこみ上げる瞬間、そこにあったのは「わたしだって、過去の恋人たちの前でこんな顔してみたかった」「こんなふうに残されてみたかった」という思いだった。

 

女の子たちは、自由だった。パンツ一枚でベッドから転げ落ちてお尻が丸見えになっていたり、歯をむき出しにして笑ったり、だらしない格好で毛布にくるまったり、変な顔をしてみたり、夜の住宅街で塀によじ登ってスカートを捲りあげたり。どれもが、その人自身を余すところなくその人自身だった。彼女たちは誇張せず、てらいなく、もちろん恐れもなく、ただただ単純に楽しそう。アンニュイな表情や扇情的な構図の写真がときおり混ざっているけれど、それらもまたモデルとして用意された表情ではなく、その人の中身そのものが無防備にさらけ出されていた。

 

自分のナマの顔を真正面から見ることは絶対にできない。鏡の前では自然と口元に力が入り、目を心持ち大きめに開いてしまう。カメラを向けられれば尚更そう。だから、自分が普段どんな表情をしているのかを知るのは非常に難しい。スマホで撮られたふとした瞬間の写真を見て「わたしってなんて無愛想な顔なんだろ」と凹んだ経験のある人も多いのではないか。カメラを向けられるとき、あるいは恋人の前では、表情のどこかしらに少し力が入って「見られる用の自分」が自然と出来上がってしまう。

 

『愛情観察』でこちらを向いてさまざまな顔をする女の子たちは、誰もが飾らない。家族や本当に気の許せる人の前でだけ見せるような、気の抜けた、だからこそうつくしい、その人だけのかんばせ。ただただ楽しそうで、何も意図せず、どこへも志向しない。それは、自分がかつての恋愛の中で、口では言えなかったけれども強く求め続けたものだった。飾らない、そのままの自分自身でいいと心から思えること。その裏にあるのは傲慢さではなく、「こう見せたい」「こうありたい」という無駄な執着を離れた、「どう見えてもいいや」という気持ちの良い諦めと自信。自分が自分のままであっていい。よそ行きの顔や、見せたい顔を意識しなくていい。何の気兼ねもなくそうありたかったし、そんな姿を好きな人には見せたかった。

けれど、自分にはそれがどうしてもむずかしかった。自然なままでありたいと強く願いながら、そうあるための甘え方がまったくわからなかったから。いつも素敵でありたかった。その結果、ねじれが溝になりうまくいかなくなってしまった関係がいくつあったことか。

 

『愛情観察』に写る女の子たちには、「わたしはわたしのままでじゅうぶんだ」という気持ちの良い諦めと、過不足やねじれのないまっすぐで謙虚な自信にあふれている。だから素敵だ。どこを見ても生ものだらけ。本物だ。生ものに触れてみたい人は、ぜひ手にとってひらいてみてほしい。

地球の反対側にいるきみ、あるいは春が来ないと嘆くあなたへ

いま、仲のいい友だちが4人、日本じゃない場所にいる。ある2人は研究者、ある人は起業家、ある人は派遣隊として、それぞれみんな別の場所で別のことをがんばっている。

遠くにいる友人に、ここに吹く風の音や、季節の訪れを伝えたくて、手紙を書きました。該当する4人へ、それぞれ自分のことだと思って読んでね。

それから、自分の人生に希望などない、いつ報われるかわからない、もう生きているのがめんどうだと思っている人がいたら、そういう人も自分宛の手紙だと思って読んでね。

 

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異国、どうですか? ひとりで異国の地にいるのは、さみしくないですか。ときどききみのことを、生活の中で思い出すよ。東京には春がきたので、手紙を書きます。

 

そっちの季節や天気はどうかな。東京は、ほんとうに春がきた。いつもの年よりも梅や早咲きの桜の開花がかなり早くて、ちょっとびっくり。おまけにここ1週間くらいはなかなか天気のコンディションが良くなくて、せっかく花が咲いているのになかなか写真を撮りに行けなくてむずむずしてた。

 

今日も昼過ぎまで曇っていたんだけど、運良く16時くらいから青空になったから、家の近くを自転車でぐるぐる回って撮ってきたよ。撮りながら、地球の反対側にいるきみの土地の風はどんな匂いがするのか、空はどんな色をしているのか、花はどんな香りなのか、気になった。どんな匂いがする?どんな色に染まる?どんな香りがする?

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花を見ていて思ったんだけど、実は春って、いま花というかたちで目に見えるようになっただけで、ほんとうはずっと前から始まっているんじゃないかな。最近暮らし始めた家の近くには桜並木があるんだけど、2月の頭くらいからなんとなく並木の空気全体が桃色で、あー春だなあって思った。でも、花が咲かないとなかなか春だって感じられない。花が咲くから春がくるんじゃなくて、春が来るから花が咲くのに、どっちがどっちだか、ときどきわからなくなっちゃうね。

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西の太陽がきらきらしてたよ〜。

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いのち大爆発って感じ

わたし仕事しててときどき、というか、けっこう焦ることがある。こんな、誰のお腹も満たさない、誰の命を救うわけでもない仕事に命を削っていること。虚業だ、と思うことすらあるよ。どこに向かって進んでいるのかわからなくなることもあって、というかそもそも進みたい方向なんて全然見つからなくて。でも、なにより生活していかなきゃだし、一緒に働いてくれる仲間がいるから、ときどきひっくり返りながらなんとかかんとか息継ぎして毎日仕事してる。 

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白梅は気高いねえ

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前にきみも、同じようなことを話してくれたね。自分のしていることが一体どれほどの意味を持つのか、毎日にどれほどの価値があるのか、そんな事を考えて不安になったり憂鬱になったり、とかね。人生をかけて解き明かしたい何かがあることとか、寝食を忘れるほどに夢中になる何かがあることは、傍目から見ていると「うらやましい」と思ったりもするけれど、きっと実際そんな単純じゃないよね。好きっちゃ好きですが……って感じかもね。いくら夢中になっているとは言え、これから自分どうなっちゃうんだろうとか、ほんとうにこのさき生きていけるのかなとか、身を立てていけるかなとか、不安になることいっぱいあるよね。と言っても、どこかで「まあ、死なないし」って、思ってるだろうね。そのとおりだよ。

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うまくいっているかどうかなんて、ぜんぜんわかんないよねえ。めちゃくちゃ頑張ったはずなのに、誰にも見向きされなかったり、あるいは「これをやっても無駄ということがわかった」「このやりかたはあまりよくないっぽい」くらいしかわからなかったり。このさきどれくらい生きられるかわからないけれど、仮に100歳くらいまで生きられるのだとしたら、あと何十年もこれを繰り返してこんな思いにさいなまれるのかと思うと、ときどきぜんぶ放り投げたくなること、ない? わたしはしょっちゅうある。そういうときはまあ、あつあつコーンスープ飲んだり、でかいパフェ食べたりして忘れようとするんだけど。サイダーの泡みたいに消えたいなあと思うこともある。いまこの瞬間が残りの人生の中で一番若くて、これまでの人生の中で一番歳をとっているんだって考えると、なんだかおそろしいような気分にもなる。情緒が不安定なのかな、そうかもな。パフェ食べちゃお。

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春はきっと、始まってるよね。わたしたちが知らないだけで、わたしたちの春はきっと始まっているよ。花が咲いていないから見えていないだけで、ほんとうは時間の中に、溢れんばかりのひかりと、やさしい香りと、あざやかな色を、これでもかというほどたくわえている。固くて茶色い冬芽も、緑の葉っぱも、やわらかな若い枝も、全部が樹そのもので、わたしたちは生きて樹であり続ける限り、いつだって体の中に春が隠れている。始まっていないわけない。生まれた瞬間からきっと始まっているよ。

 

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暗さのなかにひかる花もいいよね

だから、あんまり気に病みすぎず時間を過ごしていこうね。ときどきものすごく苦しくなったり、かなしくなったりしたら、電話ちょうだい。もちろん、うれしいこととか、楽しいことととか、そういうのがあってハッピーなときも電話ちょうだい。帰国したらいつだって会いにおいでよ。また遊びに行こう。公園とか、山の方とか。旅行もちょっと行きたいね。楽しいこと、なんでもしよう。

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地球の反対側にいるきみへ。いつもありがとう。東京は春がきたよ。きみのなかに隠れている春に祝福を。さわやかな目覚めが、明日も訪れますように。