羊とメトニミー

過不足なし

虚無にはセブンイレブンコーヒー、地頭はぜんぶファック

 

今日は昼過ぎから体調とメンタルが完全に終わっていた。悪い。悪すぎる。ひとえにこの連日の雨と寒さ、吹きつけるビルの谷間からの風。悪天候は健康を大きく損なう。頭がどんどん重くなり、何かを考えようとしてもまともに言葉が出てこない。だんだん自分がどこに立っているかわからなくなり、呼吸が自然と浅くなっていくのがわかる。

 

しかし体の不調より、心の不調のほうが何倍もしんどい。悪天候は体と心の両方をダメにする。脱力感。湧き上がって一面覆い尽くす憂鬱。ひどい離人感。自分の見ている世界が現実のものではないような、カメラ越しに時間が進んでいく感覚。かぶせるようにして「またこれか」という無念さ。一度メンタルを壊すと、回復しても少しのことで立ち上がれなくなるほどのダメージを負いやすくなる。体調を万全に整えても、ダメなときはダメ。「なんで?」と言いたくなるくらい、脆い。脱力感、憂鬱、離人感、無念さで気持ちはめちゃくちゃにされ、もう、虚無。めちゃくちゃに虚無。嫌な時間。嫌だけど、仕方ない、けど、本当に本当に、嫌。

 

コーヒーだ。一刻も早くセブンイレブンのコーヒーを飲む必要がある。仕事をしながら、わたしの頭はそのことでいっぱいだった。経験則上、悪天候で具合が悪くなったときはカフェインの強いコーヒーが効く。知る限り最もお手軽に強カフェインを摂取できるのはセブンイレブンのホットコーヒー。近くのカフェに寄ることも一瞬考えたが、もはや寒いとか雨が顔に当たるとか、そういう一切の刺激を受けたくなかった。

 

取材を終えて駅近くのセブンイレブンに飛び込み、コーヒーを買う。100円。すばらしい時代。寒いなか、火傷しそうに熱いコーヒーを飲むのは最高に気持ちよくて楽しい。家までの道を歩くうちに、諸々のひどい症状や感覚がすーっと楽になった。セブンイレブンのコーヒーは本当に一発で効く。スゴイ。

 

頭がクリアになって、やっとまともにものが考えられるようになった。虚無にさらわれてしまうのは、わたしの心が弱いからではない。単純に、脳内の化学物質が足りなくなるからだ。一度精神を病んでしまうと作られる化学物質の量が狂いやすくなる、みたいなことを病院の先生から聞いた。この虚無は100円のコーヒーを一発キメれば去っていく、なんのことはない神経作用の不具合。正しい表現であるかはわからないが、脳内の化学物質がときおり少なくなってしまう、それだけのことなのだ。化学物質の過多なんぞによってわたしのアイデンティティや性格や能力や心のあり方はまったく規定されない。何かが弱いとか劣っているとか、そういうことじゃない。ただそれだけ。それだけのこと。何も心配する必要はない。



地頭、という言葉が大嫌い。正確に言うと、地頭という言葉が使われる文脈の99%が嫌い。仕事上どうしても使う場面で何気なく発してしまうこともあるが、発した直後は心の中のレイチェルが「ファック」と呟く。レイチェルはずっと前からわたしの心に住んでいるアメリカ人のオカマで、不誠実なおこないをすると、わたしにファックとつぶやいてくれる。そう、ファックだ。地頭なんてファックなのだ。大抵の場合「地頭が良ければ成功する」「地頭が良い人は社会に出てからも強い」「地頭は生まれながらの才能であり、これが弱い人にはできないこともある」みたいな、ゴミのような文脈でこの言葉は使われる。めちゃくちゃにファックだ。

あと、「センス」という言葉も時と場合によってはあまり好きじゃない。「服のセンスがすごく素敵」とかはよく言うが、何かを成す上で、生まれ持ったセンスが成功のカギを握る、という文脈での「センス」は、なるべく使いたくない。

 

だって、それ言ったら終わりじゃん。「生まれながらに授かったもの=地」という意味なのでしょうけど、結局地頭が良い人がシャカイにおいて「強い」のだとしたら、努力する意味って何? そもそも、地頭って一体、何? 一を聞いて十を察せる理解力とか、論理的思考力とか、多くの人はそれらの力を「地頭」と呼ぶ。けれど、そんなものは人が持つ力のほんのわずかなひとつに過ぎない。人にはこれら以外にもたくさんの能力が備わっているし、「地頭」と呼ばれる能力群は、ある程度の訓練により真ん中以上になれることがほとんどだ。その訓練を10代のうちに受けられるかどうか、あるいは、それらの能力値がもともと高いということを早くから知れるかどうかは、教育環境や家庭環境の質に左右されるところも大きい。つまり、一定の年齢において発露されているように見える「地頭の良さ」なるものは、環境や努力の仕方など、もろもろ後天的な要素に依る部分が大いにあるのだ。

 

これら能力群が生まれつき高いことが、その人の人間としての価値の高さに結びつくわけない。ましてや、地頭の良さが人生における成功の鍵を握っているなんて絶対に嘘。物理法則と同様に確かですとでも言わんばかりの顔で「地頭の良さが人生の成功に大きく関わる説」を説く人がときどきいるが、そういう人はみんなばか。レイチェルに言わせればマザーファッカー。人はそのものが価値なのに、ほんの限られた能力が価値の高さを云々などと言う時点でお話にならない。

 

すべての人がさまざまな側面とさまざまな凹凸を持つ。当たり前です。雑に定義された虚像を特権めいたもののようにありがたがって、なにかの理由や言い訳にするその不誠実さが嫌いだ。地頭は一部の選ばれた人だけが生まれつき与えられた成功へのチケットであるという論法も大嫌いだ。この言葉は、どうも勝ち負けのイメージをはらんでいる気がする。頭脳勝負のうまさ、とでも言おうか。実にくだらない。頭脳勝負がうまければ、高い学歴を得たり栄誉ある地位を得たりするのかもしれませんが、そんなことよりもわたしには大切なものがたくさんある。人と痛みを分け合えるかとか、一緒に喜んだり楽しんだりできるかとか、日々の何気ない瞬間に愛情や感謝を伝えられるかとか、時間をかけた話し合いによって問題を解決しようとできるかとか。

 

苦手なことがあって当たり前だし、どんなに努力したってもともと得意な人にはどうしても遠く及ばないことだってたくさんある。でもあなたには、理解力や論理的思考力なんかよりもずっと秀でたところやうつくしいものがたくさんある。もう一度言う。地頭なんてぜんぶファック。憂鬱になったり虚無に襲われたりしたら、セブンイレブンの熱いコーヒーを一発キメよう。体質に合えばきっとすぐ楽になれる、はず。頭が悪いわけじゃない。心が弱いわけじゃない。大丈夫。

 

諦めが生む飾らなさ/相澤義和『愛情観察』レビュー

相澤義和さんの写真集『愛情観察』を買った。ものすごく良かったので、感想を書く。

 

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撮影スタッフとして参加したブックフェア「ポトラ」に、この本の出版元である百万年書房も出店していた。ブースで『愛情観察』を手にとって、数ページめくる。よくある女性のスナップ写真集かと思ったが、一枚一枚が強烈に目に焼き付いて、像がくっきりと立ち上がってくる。なんだこれは、と思った。ちょっと怖くなって、すぐに閉じた。

 

「仕事が一段落したらまた来ます」と言って持ち場に戻ったものの、レンズを覗いても、会場を歩きまわっても、あの写真集で見た人々の表情の一つひとつが頭から離れない。居ても立ってもいられなくなり、結局1時間そこそこでブースに戻ってその場で買った。

 

帰ってきて、スープを作って食べて、『愛情観察』をひらく。すごい。ほんとうに、すごかった。ページをめくればめくるほど、満ちと渇きが同じスピードでせり上がってくる。矛盾しているようだけど、そうとしか表現できない。見たい、もっと見たい。満たされたいからなのか、渇いてしまうからなのか、わからないけれど。途中から涙が止まらなくなる。

  

写真集を見ながらこんなにもボロボロ泣いたのは初めての経験だった。初め、どうして自分が泣いているのかわけがわからなかった。被写体たちが美しかったから?写真が良かったから? どっちも違う気がした。被写体となっているのは、ほとんどが街によくいるような女の子たちばかりで、表情や体型や身長、ポージングなども、文字通り「モデルらしくはない」写真が多い。フィルムカメラで撮られたような味のものや、ぶれているもの、光りすぎたり、あるいは暗かったり。何よりも彼女たちの裸の胸や下着が丸見えになっているものも多く、そうした表現が苦手な人が見たら「うっ」となるようなものが目立っている。

 

もう一度、辿ったページを見返す。しばらく写真たちを眺めて、また泣く。涙がこみ上げる瞬間、そこにあったのは「わたしだって、過去の恋人たちの前でこんな顔してみたかった」「こんなふうに残されてみたかった」という思いだった。

 

女の子たちは、自由だった。パンツ一枚でベッドから転げ落ちてお尻が丸見えになっていたり、歯をむき出しにして笑ったり、だらしない格好で毛布にくるまったり、変な顔をしてみたり、夜の住宅街で塀によじ登ってスカートを捲りあげたり。どれもが、その人自身を余すところなくその人自身だった。彼女たちは誇張せず、てらいなく、もちろん恐れもなく、ただただ単純に楽しそう。アンニュイな表情や扇情的な構図の写真がときおり混ざっているけれど、それらもまたモデルとして用意された表情ではなく、その人の中身そのものが無防備にさらけ出されていた。

 

自分のナマの顔を真正面から見ることは絶対にできない。鏡の前では自然と口元に力が入り、目を心持ち大きめに開いてしまう。カメラを向けられれば尚更そう。だから、自分が普段どんな表情をしているのかを知るのは非常に難しい。スマホで撮られたふとした瞬間の写真を見て「わたしってなんて無愛想な顔なんだろ」と凹んだ経験のある人も多いのではないか。カメラを向けられるとき、あるいは恋人の前では、表情のどこかしらに少し力が入って「見られる用の自分」が自然と出来上がってしまう。

 

『愛情観察』でこちらを向いてさまざまな顔をする女の子たちは、誰もが飾らない。家族や本当に気の許せる人の前でだけ見せるような、気の抜けた、だからこそうつくしい、その人だけのかんばせ。ただただ楽しそうで、何も意図せず、どこへも志向しない。それは、自分がかつての恋愛の中で、口では言えなかったけれども強く求め続けたものだった。飾らない、そのままの自分自身でいいと心から思えること。その裏にあるのは傲慢さではなく、「こう見せたい」「こうありたい」という無駄な執着を離れた、「どう見えてもいいや」という気持ちの良い諦めと自信。自分が自分のままであっていい。よそ行きの顔や、見せたい顔を意識しなくていい。何の気兼ねもなくそうありたかったし、そんな姿を好きな人には見せたかった。

けれど、自分にはそれがどうしてもむずかしかった。自然なままでありたいと強く願いながら、そうあるための甘え方がまったくわからなかったから。いつも素敵でありたかった。その結果、ねじれが溝になりうまくいかなくなってしまった関係がいくつあったことか。

 

『愛情観察』に写る女の子たちには、「わたしはわたしのままでじゅうぶんだ」という気持ちの良い諦めと、過不足やねじれのないまっすぐで謙虚な自信にあふれている。だから素敵だ。どこを見ても生ものだらけ。本物だ。生ものに触れてみたい人は、ぜひ手にとってひらいてみてほしい。

地球の反対側にいるきみ、あるいは春が来ないと嘆くあなたへ

いま、仲のいい友だちが4人、日本じゃない場所にいる。ある2人は研究者、ある人は起業家、ある人は派遣隊として、それぞれみんな別の場所で別のことをがんばっている。

遠くにいる友人に、ここに吹く風の音や、季節の訪れを伝えたくて、手紙を書きました。該当する4人へ、それぞれ自分のことだと思って読んでね。

それから、自分の人生に希望などない、いつ報われるかわからない、もう生きているのがめんどうだと思っている人がいたら、そういう人も自分宛の手紙だと思って読んでね。

 

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異国、どうですか? ひとりで異国の地にいるのは、さみしくないですか。ときどききみのことを、生活の中で思い出すよ。東京には春がきたので、手紙を書きます。

 

そっちの季節や天気はどうかな。東京は、ほんとうに春がきた。いつもの年よりも梅や早咲きの桜の開花がかなり早くて、ちょっとびっくり。おまけにここ1週間くらいはなかなか天気のコンディションが良くなくて、せっかく花が咲いているのになかなか写真を撮りに行けなくてむずむずしてた。

 

今日も昼過ぎまで曇っていたんだけど、運良く16時くらいから青空になったから、家の近くを自転車でぐるぐる回って撮ってきたよ。撮りながら、地球の反対側にいるきみの土地の風はどんな匂いがするのか、空はどんな色をしているのか、花はどんな香りなのか、気になった。どんな匂いがする?どんな色に染まる?どんな香りがする?

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花を見ていて思ったんだけど、実は春って、いま花というかたちで目に見えるようになっただけで、ほんとうはずっと前から始まっているんじゃないかな。最近暮らし始めた家の近くには桜並木があるんだけど、2月の頭くらいからなんとなく並木の空気全体が桃色で、あー春だなあって思った。でも、花が咲かないとなかなか春だって感じられない。花が咲くから春がくるんじゃなくて、春が来るから花が咲くのに、どっちがどっちだか、ときどきわからなくなっちゃうね。

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西の太陽がきらきらしてたよ〜。

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いのち大爆発って感じ

わたし仕事しててときどき、というか、けっこう焦ることがある。こんな、誰のお腹も満たさない、誰の命を救うわけでもない仕事に命を削っていること。虚業だ、と思うことすらあるよ。どこに向かって進んでいるのかわからなくなることもあって、というかそもそも進みたい方向なんて全然見つからなくて。でも、なにより生活していかなきゃだし、一緒に働いてくれる仲間がいるから、ときどきひっくり返りながらなんとかかんとか息継ぎして毎日仕事してる。 

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白梅は気高いねえ

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前にきみも、同じようなことを話してくれたね。自分のしていることが一体どれほどの意味を持つのか、毎日にどれほどの価値があるのか、そんな事を考えて不安になったり憂鬱になったり、とかね。人生をかけて解き明かしたい何かがあることとか、寝食を忘れるほどに夢中になる何かがあることは、傍目から見ていると「うらやましい」と思ったりもするけれど、きっと実際そんな単純じゃないよね。好きっちゃ好きですが……って感じかもね。いくら夢中になっているとは言え、これから自分どうなっちゃうんだろうとか、ほんとうにこのさき生きていけるのかなとか、身を立てていけるかなとか、不安になることいっぱいあるよね。と言っても、どこかで「まあ、死なないし」って、思ってるだろうね。そのとおりだよ。

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うまくいっているかどうかなんて、ぜんぜんわかんないよねえ。めちゃくちゃ頑張ったはずなのに、誰にも見向きされなかったり、あるいは「これをやっても無駄ということがわかった」「このやりかたはあまりよくないっぽい」くらいしかわからなかったり。このさきどれくらい生きられるかわからないけれど、仮に100歳くらいまで生きられるのだとしたら、あと何十年もこれを繰り返してこんな思いにさいなまれるのかと思うと、ときどきぜんぶ放り投げたくなること、ない? わたしはしょっちゅうある。そういうときはまあ、あつあつコーンスープ飲んだり、でかいパフェ食べたりして忘れようとするんだけど。サイダーの泡みたいに消えたいなあと思うこともある。いまこの瞬間が残りの人生の中で一番若くて、これまでの人生の中で一番歳をとっているんだって考えると、なんだかおそろしいような気分にもなる。情緒が不安定なのかな、そうかもな。パフェ食べちゃお。

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春はきっと、始まってるよね。わたしたちが知らないだけで、わたしたちの春はきっと始まっているよ。花が咲いていないから見えていないだけで、ほんとうは時間の中に、溢れんばかりのひかりと、やさしい香りと、あざやかな色を、これでもかというほどたくわえている。固くて茶色い冬芽も、緑の葉っぱも、やわらかな若い枝も、全部が樹そのもので、わたしたちは生きて樹であり続ける限り、いつだって体の中に春が隠れている。始まっていないわけない。生まれた瞬間からきっと始まっているよ。

 

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暗さのなかにひかる花もいいよね

だから、あんまり気に病みすぎず時間を過ごしていこうね。ときどきものすごく苦しくなったり、かなしくなったりしたら、電話ちょうだい。もちろん、うれしいこととか、楽しいことととか、そういうのがあってハッピーなときも電話ちょうだい。帰国したらいつだって会いにおいでよ。また遊びに行こう。公園とか、山の方とか。旅行もちょっと行きたいね。楽しいこと、なんでもしよう。

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地球の反対側にいるきみへ。いつもありがとう。東京は春がきたよ。きみのなかに隠れている春に祝福を。さわやかな目覚めが、明日も訪れますように。

 

東京一人暮らし物件探し、結局どこでもオタクは強い


24歳、初の一人暮らし。自立がだいぶ遅れてやってきましたね。実は半年以上前から物件自体は探していて、去年のうちから内見もしていたのですが、年始にちょっと本気を出した結果ほぼ数日で決まりました。めでた〜い。

内見した物件数、28。まわった不動産屋の数、およそ10。物件探し、めちゃくちゃ楽しかった。やれるところまでやった感がある。

以下、東京で初めて物件を探すにあたって、やって良かったことやわかったことなどを備忘録的にレポートします。これから物件探しをする人のお役に立てればうれしいです。

 

 

◆ 事前準備編 ◆

かなめは「条件の絞り込み」と「リストアップ」。この2つをやるだけで、物件探しの効率がまるで違ってくる。

条件はなるべく細かく絞り込んでおこう

希望物件が探しやすくなるのはもちろんのこと、どうしても見つからないときは条件をどれかひとつ変えるだけで、当初の希望になるべく近いまま新たな物件を探すことができる。無限物件探し。初回から「ここまで縛って本当に物件見つかる?」というレベルにまで縛っていい。縛りプレイはお嫌いですか?

今回は

・最寄り駅指定
・南向き
・2階以上
・角部屋
・バストイレ別
・コンロ二口以上
・家賃9.5万以下
・25m^2以上
・駅徒歩10分圏内

で探し、このすべてをクリアする物件を見つけ出した。変えると見つかりやすい条件は「最寄り駅」「家賃」「バストイレ」「広さ」。東京は所狭しと家が建っているので、「25m^2」で探すと「24.98m^2」の物件が取りこぼされたりしている。同じ広さでも間取りによってかなり印象は変わるので、広さの指定はゆるめで探しても良いかもしれない。
そして条件の優先順位づけも非常に大事。今回は挙げた条件を以下のように順位づけた。

 

日当たり・風通しの良さ>キッチンの使いやすさ>綺麗さ≧広さ>家賃>駅からの近さ

 

1. 日当たり・風通しの良さ
自宅で仕事をすることも多いため、必然的に家にいる時間が長い。早起きなこともあり、午前中は陽の光を浴びないとやる気が出ないし、風通しがないと気持ちがしょんぼりする。個人事業主が一番守らなくてはならない心身の健康のためにも、この条件だけはどうしても譲れなかった。

2. キッチンの使いやすさ
料理は趣味というよりも作業療法に近い。どうしてもつらくなってしまったときは、よく延々と煮込みスープを作る。野菜を刻み、肉を焼き、魚を切り、鍋をひたすらかき回しながら何十分もキッチンでぼんやりと過ごす時間なしでは生きていけない体になってしまった。ので、調理スペースの使いやすさはクオリティ・オブ・ライフに直結する。二口コンロ、欲を言えば三口コンロとまな板を横向きに置けるスペースこそが、我がオアシス。

3. 綺麗さ
家をパッと見たときに気分が上がるかどうかはめちゃくちゃ大事だと思う。だって帰ってきたくない家なんかに帰ってきたくない。家は帰る場所だ。いくら家の中を掃除して片付けても、建物そのものがボロボロで改修をされていなかったり、部屋のドアに辿り着くまでが暗くて汚かったりしたら、まあ帰ってきたくないよね。あとボロくて手入れのされていない家は絶対寒いので電気代がやばそう。

4. 広さ
「家の狭さはストレスに直結する」と建築をしている仲の良い人が言っていた。大量の資料や本、山道具、服、タップシューズ、カメラなどがあるため、収納別で最低7.5畳ないと物理的に厳しかった。とは言え年末に大断捨離大会を決行した結果、譲歩の兆しが見えたので、最終的には25m^2が最下限に落ち着いた。先程も書いたとおり、探すときは20で探したほうが楽。

5. 家賃、駅からの近さ
最寄り駅から徒歩10分圏内であれば9.5万までは出すつもりだった。複数ある業務委託先へのアクセスの良さや趣味の場への通いやすさなどをかんがみて「ここしかない」という駅を最初に決めていたので、そこがけっこう楽だった。特に希望がないけれど便利な立地に住みたい人にオススメの最寄り駅は、秋葉原飯田橋、池袋あたりかしら(諸説あり)

希望条件と詳細を物件ごとにリストアップせよ

物件名と物件URL、管理会社、望む条件など物件ごとに表にしてエクセルやスプレッドシートでまとめておくとものすごく役立つ。物件紹介サイトにアクセスして、写真と掲載情報からわかる情報の中で特にチェックしたいものをピックアップして表にしておこう。

今はサイト上で同じ物件を複数の会社が紹介していることもあるので、問い合わせを入れるときにダブりを事前に弾けるし、一度Webでチェックした物件は何が気に入ってチェックをしたのかがすぐに見返せる。

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こんな感じ。「ステータス」は内見可とか、X月中旬空き予定とか。

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条件だけでなく、気に入った点や気になる点も事前に簡単に残しておき、内見時にそこを注意してチェックする。「写真や図面ではここがいいと思ったけど実際行ったらこんな感じだった」「ここがちょっとマイナスポイントかなと思っていたけれど、行ってみたら案外悪くなかった」ということが何度か起こると、新しい物件を見つけ出したときに

「あ、これ前に見たこの物件と間取りが近い。ということは、広そうに見えるけど使い勝手があまり良くないかもしれない」

「駅から家まで踏切と車通りの多い道路をまたいでいるから、駅徒歩10分って書いてあるけど実際は15分はかかりそうだな」

「この間取りだったらこのスペースをうまく活用すればイケるっぽい」

というのがすぐに見抜けるようになる。後になるにつれて「これは進研ゼミでやった問題……!」に近い感覚が生まれて楽しかった。

あと、この表を不動産屋に直接見せると、物件好きな人であれば大抵歓迎してくれるし、より良い物件情報を紹介してもらいやすくなる。逆に引かれたり真面目に見てくれない不動産屋なら、そこはやめたほうが良いと思う。客に真面目に付き合ってくれる不動産屋のほうが良いです。これについてはもう少し詳しく後述します。

 

◆ 内見の心構え ◆

とにかく行け

図面上同じ広さでも、間取りが違うとだいぶ使い勝手が違う。先ほどの建築の人曰く、特別に部屋を区切りたい理由がなければ、壁はなるべく少ない物件のほうがいいとのこと。その分のスペースが使えるから。彼はわたしが持ってきた何枚もの間取り図を見ながら「俺だったらこの壁ぶっ壊しちゃうかな」と物騒なことを言いながら間取りと広さの体感値の関係について教えてくれたので、後半は「これはぶっ壊したほうが良い壁かどうか」という基準で物件を見ることで(良いのかそれは)、同じ広さの物件でも比較がしやすくなった。

慣れていくと、数字上は許容ギリギリと感じる広さでも、間取り図を見て「これなら妥協できそう」というのが感覚的にかなりわかるようになる。

帰ってきたくなる家かどうかを確かめる

条件の「綺麗さ」で言ったことにもつながるが、家は毎日いる場所なので、間違いなく居心地がいいほうが良い。駅から歩いてみて、「毎日この場所にこの道を通って帰ってくるのは嫌じゃないか」とか、けっこう重要な気がする。特に女性は暗い夜道は危ないので、希望度が高い物件はできれば日中と夜間の2回歩いてみるのがオススメ。

内見に行ってみて一番よくあったのが「住民の生活スタイルに引いたパターン」だった。内見を始めてみてからじゃないと気づけなかったけれど、こればかりは本当に出たとこ勝負というか、運。いくら良い条件だったとしても、エントランスに生ゴミの袋が放置されていたり、自転車の止め方がめちゃくちゃだったり、変なお札が大量にドアに貼ってあったりしたら、中を見ずともその場で「ここはないな」と早々に心が決まった。住環境が悪いと本当につらいと思うので、特に早く帰れる仕事に就いている人は、近隣住民や環境が嫌じゃないかはしっかり確認したほうが良い。

ほかにも、窓からの眺望や水回りの掃除のしやすさ、階段の傾斜など、微妙だけどじわじわとHPに影響しそうなところはよく見ておくこと。騒音が気になる人は、建物の音の響きやすさだけでなく、近くに公園や保育園、小学校などがないかも確かめよう。

物件を見に行くときは「超わがままモード」で良いと思う。図面や事前情報上完璧な物件は、何か一つでも不満点を見つけに行くつもりで行け。住む前から「ちょっと…」と思うところは、住み始めたら絶対めちゃくちゃ気になるから。内見に行ってみて「これはやだな」と思った気持ちをメモに残しておくと、言語化されていなかったけれど譲れないものがハッキリ見えてきておもしろい。

 

◆ わかったこと ◆

条件はマジでトレードオフ

駅徒歩分数、日当たり、広さ、家賃。パラメーターはたくさんありますが、やはりトレードオフ。安いけど北向き。広いけど古くて寒い。便利だけどうるさい。もうこればかりは本当に行ってみるしかない。「トレードオフでもこの条件ならまだ許せそうかな」のギリギリを探っていくゲームだった。

直感はほんとうに超大事。街の歩き心地を確かめよ

条件上良くても、行ってみてウーンという物件は多々あった。建物だけでなく、住環境と街の空気が個人的にすごく大事だったのは、内見をしてみての大きな発見。エントランスが汚くて暗いマンションなんかに絶対帰りたくない。車通りが激しい大通りの狭い歩道を5分も歩かされたらめちゃくちゃに消耗する。他の住民の洗濯物がこれでもかと詰め込んで干してあるベランダなんて見たくない。多少家賃が上がっても、ここにいたいと思える自分の城を探す必要があるんだなと実感した。

そのためには、その街をよく歩いて、街の歩き心地を確かめること。道路一本挟んだ反対側は驚くほど静かだったり、イケると思った距離が案外遠くて疲れたりもする。住みたい候補の街は、時間の許す限り歩き尽くしてみよう。帰り道に寄りたくなるお店があるとか、小さいながらも手入れの行き届いたガーデニングをしている家が多いとか、そういうとるに足らないようなことが街の印象を決める。

信頼できる不動産屋を探そう

これが今回の記事のタイトルの所以なのですが、不動産屋は絶対に絶対に物件オタクもしくは土地オタクの方が良い。

昨年から述べ10件近い不動産屋をめぐり、なかには2社から同じ物件の紹介を受けて2回別の不動産屋経由で内見に行ったりもした。無口な人、よく喋る人、営業モード全開の人、素朴な人。いろいろな人がいたけれど、良い不動産屋というのは、不動産や土地の話をするのが好きでたまらない人だ。

結局、オタクは強い。物件や土地が純粋に好きな人はそれだけ引き出しを多く持っているだけでなく、オタクの磨かれた審美眼から物件を勧めてくれる。今回お願いすることにした担当者さんも、わたしが提示するものすごい量の条件を熱心に読み込んだあと、

「あ〜この物件は日当たりの観点から言うとちょっと……オススメできなくはないけど、この値段なら探せばもう少しある……気がします……」

「本棚を最低2基置くのであれば、この物件は図面の広さ的に微妙っぽく見えますけど、置き方次第で問題なく過ごせると思います」

「こっちの物件ってオシャレで立地も便利だし、パッと見良いんですけど、長く住むとなると収納がこの狭さなのはちょっとストレスかもしれないですね……」

など、ときには自社にとって不利ともなりかねないような情報も遠慮なく開示してくれた。オタクのなせる技、すなわち愛である。のみならず、わたしが内見で気に入らなかった物件については

「どこがもっとどうなったら良かったのか」

「この条件はこっちの条件と比較してなぜ大切なのか」

ということをたくさん質問してくれたので、本当に信頼できた。最終的に第一候補となった物件の仮押さえに進むかどうか悩んでいたとき、後押しになったのはこの人の「この物件はオーナーが大手企業なのでトラブルが起こってもすぐに対応してくれますし、入居者審査もしっかりしているので、ここであれば藤坂さんを安心して預けられると思います」という言葉だった。親かよ。最高だ。

自分探しをしたければ家を探すと良い

今回の家探しを通して、あらゆる場面において自分という人間の色々な側面を改めて知った気がする。候補地は最寄り駅を中心として半径2キロ以内を何度も徹底的に歩きまくって、良さそうなスーパーや住みたい・住みたくない地区を徹底的に洗い出したし、条件もかなり厳し目に絞って、たとえ見つからなくても見つかるまで待ったり探したりした。待った結果、数ヶ月前までは譲れなかった条件が譲れるようになったり、逆に新しい希望条件ができたりもしたので、なんというか、成長の軌跡が如実に感じられた。

家探しにかかわる色々な活動をした結果、わたしは超絶わがままで、生活に密着するものに関しては石橋を叩きに叩いて渡らないこともあり、絶対に良いと思ったものだけを選ぶ胆力と、それを探し出すまで諦めないしたたかさがあることがわかった。つよい。これから先、人生の何かにおいて道を見失ったとき、きっとわたしは初めて自分の家を探したときのことを思い出すと思う。住みたい家を自力で探し出せて選ぶことができたという経験は、どこかで効いてくるんじゃないだろうか。

 

◆ その他感想など ◆

 

・「壁はなるべく少ない物件のほうがいい」は間違いなかった。少ないほうがいいです。開放感LOVE人間なので。あと室内の動線を邪魔しないという意味でも。広い部屋だとエアコンがかかりにくいのかもしれないけれど、10畳以内なら問題ないはず。

・高層階はとにかく人目が気にならないことと日当たりと風通しが抜群なので個人的にはオススメ。夏めっちゃ暑かったりするのかな……そこはこれから暮らしてみてですね。
・東京の賃貸に住まうならばロフトベッドが最適解っぽいので買ってみます。

 

 

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きみを手放したから、もうどこへでも行ける

 出ます出ます詐欺をおよそ1年続け、ほんとうのほんとうに出ます。実家を。1月に。これはマジです。2018年最後につく嘘にしないよう、12月の1ヶ月間をかけて、家中にある所持品の量を半分にしました。


実は15歳か16歳くらいまで、かなり重度のぬいぐるみ依存だった。集めるタイプのではなく、ひとつのぬいぐるみにとことん依存するタイプのほう。

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これはポーちゃん。6歳の頃に動物園で買ってもらって以来、中学を卒業するくらいまで、彼はわたしのすべてだった。いとおしくて仕方なかった。手触り、フォルム、やわらかさがまるでじぶんの心臓のようで、比喩抜きで片時も手放せず、学校にもこっそり連れていき、なんとかかんとか肌身離さずそばに置いておいた。

ポーちゃんと過ごしていた10年間は、家族のことを心配したり、人とうまくコミュニケーションがとれないことで癇癪を起こしたり、常に心のどこかが不安だった気がする。その頃は明確に不安を感じてはいなかったけれど、いま思い返せば、いつもぜったいにそばにいてくれて安心感を与えてくれる、じぶんの激しい感情や行動を否定せずに見守ってくれる存在を心の底から求めていた。それがわたしにとってはポーちゃんだった。ときどきどこかへ置き忘れて見つからなくなると、過呼吸を起こしかねない勢いでパニックになり、泣き叫んで狂ったように探し回った。ポーちゃんがいれば何も怖くなかったし、ポーちゃんがいなくなってしまうことが何より怖かった。ポーちゃんのことはぜんぶから守ってあげたかったし、最上級の愛情表現で包みたかった。だからこんなにもボロボロになってしまって。なってしまって。

 

家を出よう、と決めてから、徹底的にモノを捨てた。断捨離の本を読み、ほんとうのほんとうに断捨離をやった。喜んで使えるもの、気分を上げてくれるもの、付き合いたいもの、じぶんをレベルアップさせてくれるものだけを残し、それ以外はすべて捨てた。いまのわたしが居場所を与えられないものはみんな手放した。手紙も写真もプリクラも服も本も贈りものもたくさん捨てた。これからのことだけを考えるために、もう戻ってこない時間のなかに生きないために、捨てて捨ててとにかく捨てて、廃棄物の量はおそらく80キロを超えたと思う。

 

今日は年内最後の可燃ゴミの日だった。

 

集めるタイプの依存症ではないと言いつつ、家にはそれなりにぬいぐるみが溢れている。そのうちの95%は処分した。ひとつひとつを手に取り、御礼を言ってゴミ袋に詰めて口を縛る。捨てて捨てて、手元に残ったのは、ボロボロになったポーちゃんと、カヤネズミと、ペンギン。カヤネズミとペンギンには、居場所があった。カヤネズミはペーパーウェイトに、ペンギンは本棚に。けれどポーちゃんの居場所は、どうしても思いつくことができなかった。

 

今朝、目が覚めて真っ先に、机の上に置いておいたポーちゃんを手にとった。まだ口を縛っていないゴミ袋が一つ。捨てよう、という決意は特に必要なかった。いくんだね、という気持ちで、あの頃と同じように両手で彼を包んだ。

 

わたしは手が小さい。小学生女児とほとんど同じくらいの大きさしかない。だからポーちゃんの包み心地も、あの頃と全く変わっていなかった。やわらかい綿の心臓。わたしの心臓。毛足はかたまり、灰色が濃くなり、フェルトの足は半分ちぎれ、黒目のビーズは表面が薄く欠けて。いとおしさが寄せては返す。あの頃の不安な気持ちはもうほとんど思い出せなかったけれど、彼を包んだときの「これ」という感覚は鮮明に手のなかでよみがえり、何度も何度もありがとうを言った。

棚にポーちゃんを置いてみる。どう見ても、彼は居心地が悪そうだった。10年前にこの家に越してきたとき、彼はおもちゃ箱のなかにいた。おもちゃ箱を処分するとき、ポーちゃんは鏡台に置かれ、そのまま少しずつ「いてもいなくても変わらないもの」になっていった。いまのわたしの生活のなかに、彼の居場所はもうない。忘れられたまま置いていかれるのは、かなしくてさみしい。人は死ねる。犬も死ねる。花は枯れられる。けれどぬいぐるみは終われない。愛していたから、わたしが終わらせなくてはならない、と思った。

ほんとうにありがとう。と口に出して、ポーちゃんをビニール袋に入れた。犬を火葬へとおくったときとまったく同じ気持ちになった。ほんとうに好きだった。たくさん助けてくれてありがとう。だから、さようなら。口を縛った。手放した途端、比喩ではなく、ほんとうにどこへでも行ける気がした。なんでも捨てられる気がした。2018年最後の、可燃ゴミ収集の日。

 

朝目が覚めて、いくんだね、と思ったとき、わたしはいったい誰と別れたんだろう。じぶんの手で終わりにしたのだから、「さようなら」のほうが正しいのに、どうして「いくんだね」と思ったんだろう。あのとき、透明な誰かと確かに別れた。互いの名前や素性、行き先も知らないままに。

 

年が変わろうと変わるまいと、日々が途切れることはない。毎日が地続きであるように、12月31日と1月1日ももちろん地続きで、そのさきもすべてがずっと地続きだ。1ヶ月後や1年後、3年後、100年後のじぶんは、ぜんぶがいまとつながっている。蛹が蝶に羽化するのは、突然の出来事ではない。硬い殻が割れた瞬間よりもずっと前、この世に生まれ落ちた瞬間から、彼のなかの蝶は始まっている。

2018年12月30日、ポーちゃんを手放し、見えない誰かと別れたのは、殻の割れる最初の音、あるいはかすかなヒビのようなものだったのかもしれない。とても大切な朝だったような気がする。でもきっと、これも忘れていく。それでいいと思う。ありがとう。さようなら。

南青山に児童相談所を建てさせたくない成功者たちは、失う不幸に怯えている

南青山に児童相談所施設などが入る予定の施設が建設されるらしいが、周辺住民の一部がそれに猛反発をしているというニュース。

www.businessinsider.jp

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動画は、けっこうキツい。気持ちが弱っている人はあまり長く見ないほうがいいかも。児童相談所にかかわりを持つような子ども=事情を抱えた厄介者、と一括りにしているようなひとも目立つ。土地の資産価値が下がる、イメージが壊れる、南青山という土地に児童相談所はふさわしくない……そのどれもが、「成功を収めこの優雅な土地で誰もが羨む幸福な生活をおくる自分たちに、全く格の違う悪い因子を近づけないでくれ」と言っているかのように聞こえる。

当然、この反対運動に対する批判や非難は各所で起こっている。

ニュースで大声を出して怒る大人たちを見たときに、ほんとうに胸が痛くなった。最初この痛みは、こんなひどいことを言われる子どもたちや関係者の気持ちを想像しての痛みだと思っていた。

けれども、すこし時間と距離を置いてあらためて考え直したとき、わたしが本当に胸を痛めたのは、この怒鳴り声をあげている人たちのことを考えたからだ、ということに気がついた。


ニュースに映る大人たちは、何かをひどく恐れている。児童相談所に来る、名前も顔も知らない人々や、保護される子どもたちを。恐れる成功者にとって、児童相談所とは何か不吉な不幸の輪郭のようなもので、彼らの描く幸福な生活のイメージを曇らせる。自分たちの生活のすぐそばに不幸(だと思いこんでいる何か得体の知れないもの)が影を落とすことが耐え難いのだ。だから、排除しようとする。その根底にあるのは恐れだ。

 

「他人を傷つけるひとが、実は一番深く傷ついている」

 

という言葉を、何かの本で読んだことがある。ほんとうにそのとおりだと思う。恐れる人々は大声をあげて職員に詰め寄り、拳を振り上げんばかりの勢いで「不幸の輪郭のようなもの」と戦おうとする。しかし既に多くの人が知っている通り、児童相談所に来る人々は、不幸でも不憫でもなんでもない。児童相談所にお世話になる人生を不幸とするかどうかを決めるのは、そこに関わっている人自身であって、彼らの人生を誰かが評価することは不可能だ。 

一体何に怯えているのか、恐れる成功者たちよ。児童相談所ができるできないにかかわらず、ほんとうはあなた自身、いまの自分の生活が、いつか何かや誰かに奪われるかもしれない、いつかもろく崩れ去ってしまうかもしれない、そんな思いをどこかに抱えていたのではないか。そんなはずはない、自分はこんなにも大金を稼ぎ、東京の一等地に家を買い、ネギ1本すら紀伊国屋で買い、1600円のランチを毎日当たり前のように食べている。だから自分は幸せなはずだ、成功しているはずだ、だってほら、誰もが自分を羨んでいるじゃないか。でも、どうしてだろう。なぜときどき、ふと不安になるのだろう――そんな思いを心のどこかで抱えながら、抱えていることすら忘れておくる南青山の生活は、あなたにとって本物の幸福か?

ほんとうの意味で成功しているひと、ほんとうの意味で幸福な生活をおくるひとは、恐れる必要がない。なぜなら、自分の幸いは決して失くしたり奪われたりしないところにあることを、心の底からよく理解しているから。目に見える華やかさや高い値段のついているものにほんものの幸せが宿ってはいないことを、幸せなひとは知っている。

恐れる成功者よ、あなたが人生でいつかほんものの幸いを見つけられますよう。肩書の強さや土地の値段、身につける宝飾品や服の価値、資産の大きさなんかよりもずっと確かで失くすことのない幸福を知ることができますよう。

 

椎名林檎ありあまる富

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僕らが手にしている 富は見えないよ
彼らは奪えないし 壊すこともない
世界はただ妬むばっかり

もしも彼らが君の 何かを盗んだとして
それはくだらないものだよ
返して貰うまでもない筈
何故なら価値は 生命に従って付いてる

彼らが手にしている 富は買えるんだ
僕らは数えないし 失くすこともない
世界はまだ不幸だってさ

もしも君が彼らの 言葉に頷いたとして
それはつまらないことだよ
なみだ流すまでもない筈
何故ならいつも 言葉は嘘を孕んでいる

君の影が揺れている 今日限り逢える日時計
何時もの夏がすぐそこにある証
君の喜ぶものは ありあまるほどにある
すべて君のもの 笑顔を見せて

もしも彼らが君の 何かを盗んだとして
それはくだらないものだよ
返して貰うまでもない筈
何故なら価値は 生命に従って付いている
ほらね君には富が溢れている

 

みやかわくんとぼくりりが歌うaNYmOREは生々しさの種類がぜんぜん違うという話

ぼくのりりっくのぼうよみ、引退しちゃいますね。あと一ヶ月半。

引退発表をツイッターで知り、エエエエ〜〜〜〜〜〜!!!!!!と叫びながらその場でチケットぴあのサイトに音速でアクセスし、直近のライブチケットを光速で取って名古屋まで追いかけていったのが10月のこと。sub/objective時代からのファンだったので心底残念だけど、名義変えてまだ音楽を続ける気配がバリバリあるのであまり寂しくはない。もっとダサくて長い名前になっても変わらず応援している。死ぬまで応援してる。ちょう応援してる。

 

ラストアルバム「没落」が12月12日リリース。今も聴きながらこれを書いてます。曲は全体的に「ぼくはもう……」のライブで見たぼくりりみが強い。墓場でミラーボールが黒くビカビカ光ってて、ときどき土の下から腐りかけの腕が生えてきてうめいてる、みたいな。とりあえずみなさんも聴いてみてください。

没落での初出で個人的に気に入ったナンバーはもちろんいくつかあるんだけど、印象的だったのが「aNYmORE」。下記動画の2:40あたりから始まる曲です。

 

www.youtube.com

 

iTunesからはこちら

aNYmORE

aNYmORE

  • provided courtesy of iTunes

 

作詞作曲はぼくりりが担当、歌っているのはみやかわくん。ぼくりりの動画時代からの友だちだったとかそういうわけではないみたいで、今年の6月末にリリースされたaNYmOREの提供が初コラボっぽい。

 

この曲は、女の人が浮気した自分の恋人を刺し殺す歌なんだけど、みやかわくんのaNYmOREは、女の人が拘置所で刺しちゃったときのことを思い出してる感じ。若干ノスタルジーがかかっていて、記憶の靄をまとっている。その曖昧さがなんとも色っぽい。刺したときの手の感触ははっきり覚えているけれど、そのときの自分が何を考えて感じていたかはぼんやりと思い出せない。歌声とミュージックの調和から「生々しさが消えたあとの生々しさ」が完璧に再現されていて、初めて聴いたとき、みやかわくんほんとに人刺したことあるのでは?と思った。

 

で、没落に収録されているaNYmOREはぼくりり自身が歌っている。

aNYmORE

aNYmORE

  • provided courtesy of iTunes

 

ぼくりりの歌うaNYmOREは、なんというか、刺したてほやほや。目の前に男の死体、転がってる。手、血でべとべと。汗、頭からびっしょびしょ。息、めっちゃあがってる。刺し殺した恋人を目の前にして、これまで心の奥に埋めていた感情や見たくなかった光景を一気にバーストしてる感じ。

みやかわくんのは「刺し殺しちゃったけど、ほんとうに好きだった」という思いが混じっているのに対して、ぼくりりは「絶対殺す。もう、絶対殺す」という気持ちに満ち満ちている。なんという殺意……。

 

みやかわくんの歌声は確かに色っぽくて、ハイトーンが女性らしさを感じさせるんだけど、男性のなかにある女性らしさの、特につややかで湿った部分が全面に押し出されてこのかたちになっている感じがする。対してぼくりりは、男性とか女性とかではなく、歌によって彼の性別そのものが自在に変わる。これはaNYmOREに限らずなんだけど、ぼくりりはほんとうにそう。この曲は紛れもなく女性のぼくりりが女性としての心象を歌っていて、だからこそこの臨場感、という感じがした。

 

原曲とカバーを聴き比べて楽しむ、ということはよくやるけれど、音楽からビジュアライズされる情景にここまで両方生々しさが詰まっているのはあまり聴いたことがなかったのでめちゃくちゃ印象的でした、というお話。アレンジや歌い方が出来上がる情景の違いを生むのだろうけれど、歌う人の記憶とか、経験とか、人格とか、そういうのって歌声にどれくらい、どう影響するんだろう。こればかりは生身の人間で計測のしようがないのでわからないけれど……。

 

1月28日のラストライブ「葬式」、参列予定です。楽しみ。