羊とメトニミー

伏流水のなかに棲んでいる

diary_20171107

 

年に数回、食べ物を一切食べたくなくなる日が唐突にくる。体のなかに水以外の不純物をいれたくない気持ちが。それが今日です。しかし気持ちだけで体は律儀に栄養を欲しがるので、ここのバランスのとり方が非常にむずかしい。なるべくハイファット・ハイカロリーのものを避け、タンパク質と野菜だけで過ごしたりする。しかし食べないので元気があまり出ない、しかし気持ちとしては全然食べたくないので無理に食べようとすると余計元気がなくなる。こういうわけのわからないバグが不定期で起こるけれど、バグありきで身体ができていると思うとなんだか不思議な気持ちになる。ありがたいような、疎ましいような。

 

自分が個と公の両方において大切だと感じていることを、その公のなかで「大切だと思います」と言うのは楽しくもあり、頭を使うことでもある。人を傷つけるような伝え方は論外だし、かといって主張しなさすぎると大切じゃないと思われてあっという間に潰されたりする。だから、そういう話を集団の中の他人にするとき、京都の芸妓になったような気持ちで話す。やさしくたおやかに、けれど押されても譲らないところはやわらかく譲らない。やわらかく譲らない、というスキルはここ最近やっと少しずつ身についてきた。癖になる。今ならどっかの会社の社長に愛人になってくれと言われても、このスキルでなんとかなる気がしている。

 

 

diary_20171031

 

ハロウィン渋谷が心底怖くて退勤時ビクビクしていたけれど、職場は繁華街とは違う方面だったので、あまり波に飲まれずに済んでよかった。とは言え職場のドアから山手線のドアに辿り着くまでに、たくさんの魍魎に出会う。同じ背格好をした10数人の男女、ビッグサイズな体にビックサイズな星条旗をはためかせるアメリカンファミリー、下着が見えているとかそういうレベルじゃないお姉さん、幼稚園児、全身とうもろこしの気ぐるみを着たカップル、何かの概念、マーライオンなど。

 

明日でもいい考え事は明日やる。今日にしかできない考え事しかしない。明日でいい考えごとと今日じゃなきゃいけない考え事の境目は、それを考えると心臓の裏側あたりがソワソワしてしまうかどうか。ソワソワは別のソワソワを呼んで、ほうっておくとソワソワ・ソワソワになってしまうので、そういうことは今日のうちに片付けておく。手を動かしてあらゆるメモや付箋に残したり、「今から5分間喋るので、終わったらなにか反応をください」と言って他人にワーッと喋ったりする。昨日、今日はかなり多弁だった気がする。黙るべき時期には自然と口が閉じてくれるはずなので、いい。

 

「焦らなくていいよ」と言われてハッとして、そう言われないと焦っていることに気がつけないもんなんだなと思った。おかあさんという人はなんやかんやときどきすごい。

 

中秋の名月みたいな月夜だった。月が綺麗ですね、と言える人がいるのはよい。聴いてくれるひとがいない言葉も大切だけれど、聴いてくれるひとがいて光る言葉もある。

しかし「月が綺麗ですね」でI love youの意だなどと突然言われたら、おそらく気が動転する。知らんがなと思うかもしれない。月を指して「あなただ」と目を見て言われれば、気付けるかもしれない。分からない。いま、てきとうなことを言いました。フリー素材ですので、勇気があるひとは使ってみてください。

 

diary_20171027

 

2日連続で晴れるなんて珍しい。毎日これくらい晴れてくれると本当にうれしい。

 

いまやっている仕事のひとつに、とてもチャレンジャブルなものがある。「書く」のではなく「書き続ける」ことだ。1回あたりの文字数自体はそこまで多くないけれど、取材で調べてきた事実をもとに調査と考察を重ねて、それをまったくべつのかたちに変換し続ける必要がある。土壌レベルからいいオレンジジュースを作っているようなものだ。わたしが本当に作りたいのはいいオレンジジュースで、ひとが飲むのもオレンジジュースなんだけど、オレンジを絞る背景に何倍もの時間をかけて土からオレンジを育てるようなことをしている。そして良いオレンジが獲れても、絞り方が下手だったらおいしいジュースにはならない。育ての技術、絞りの技術の両方が必要になる。それがおもしろいところだな。

 

いまは土を耕しては木を植えるのにちょうどいい場所を探しているような感じで、まだ特につらいことなどはない。ただオレンジジュースづくりの大変そうなところは、天候や思わぬ災害なんかによって、一回は絶対に心が折れそうになる気がするところだ。天気や災害はわたしのせいというより、本当に予期せずやってくるので、そこでどれだけ雨風に耐えられる頑丈な木を育てられるか、そして枝が折れそうになったら身を挺して畑を守るために、用水路を見に行っても死なないフィジカルなどが重要だと思う。畑を耕しながら鋤を振りかざすワンモーションに気持ちを込めて筋トレをする必要があるのだ。

 

来週末は待ちに待った6時間耐久マラソンリレーです。最近ランの距離が去年の倍以上伸びていてうれしい。どうか晴れてくれますように。

 

 

 

diary_20171025

 

こんな日の、こんな気温の帰り道に、Virtual Insanityがシャッフルで流れてくるなんて、粋な計らいすぎてしびれるじゃないっすか

 

 

diary_20171024

 

時間って溶けるものなんだな、と最近よく感じる。本当に、あっという間に溶けていく。すべき仕事は多い。ぜんぶたのしいので問題ない。そしてたのしい時間は、溶ける。

 

バズるという指標を死なせたいと言いつつ、書いた記事がなんかのランキングの1位になってたりするとオオという気持ちになる。くだらないね、なんて全然思わないし言えない。素直に嬉しいです。読んでくださった皆さま、ありがとうございます。「120%の成長を…」とか「絶対に成功する採用の…」みたいなチャレンジングなタイトルの面々に「ハワイのシロクマ」というかわいい文字列を並べられただけで、そのアンバランスさに大満足しました。

 

寒いね。台風、行っちゃったね。空が明るくて空気が透明で、うれしいね。秋の風ってこんな味だった。

板チョコレートが食べたい気持ちがここ数日続いている。明日はおやすみだし、楽しみな予定があるので、今日退勤したらこっそり食べちゃおうかな。楽しみな予定であればあるほど他人にはそれを話さないの、なんだか秘密めいていて、いい。秘密です。

 

今日も良い一日を。

diary_20171019

 

 

雨には恵みの雨と奪いの雨の2種類がある、と思う。今日の土砂降りと低気圧はわたしにとって完全に後者だった。午前中は家から出ずに仕事を一本仕上げ筋トレも捗ったので全然悪くなかった。傾き始めたのは、出勤前にタップダンスの練習をスタジオで終えたあたりからだった。

まず、怒りのような雨。スタジオ入りする前はそんなに強くなかったのに、1時間半後、天がひっくり返らんばかりの雨。傘が役に立たない。全身ずぶ濡れになり、出社即ユニクロを余儀なくされた。そして寒い。濡れた上に強く風が吹きつけてくる。渋谷の街は雨が降ろうと槍が降ろうとかしましい。109のネオンは停電にも絶対負なさそうなくらいやらしいし、ロクシタンは永遠にあのアンニュイカラフルな店内であり続けるような気がしてくる。ユニクロを往復した段階で体力と体温をほとんど奪われた。

 

そしてうちの職場にはストーブがない。暖房しかない。おまけに今日来た生徒ちゃんはかなりひどい風邪で、わたしは体温の低下および空腹が効きかなり息も絶え絶えだった。しかし救いだったのは、約数と比についてかなり奥深いところまで一緒に考えられたこと。当たり前だけど、整数は本当に奥が深い。カメラのレンズは沼だけど、整数の深さは森みたいだなといつも思う。整数はすごい。永遠不滅だ。でもわたしの身体は11ヶ月で総取っ替えされるタンパク質でできている。寒いし、空腹で体力がかつおぶしみたいに削られていく。すべての仕事を終えてルンバのスイッチを入れたとき、おまえはゴミを食べて満腹になって眠れるんだからいいよなあと思った。わたしだってその辺にふわふわとしている森羅万象を口に放り込んで、適当に満腹になって今すぐ眠りたい。

 

しかし、さて、本当のことを白状しよう。土砂降りの本日、わたしを正面からバールのようなもので殴ってきたのは帰りの電車で読んだ中島らものアル中日記体験談だった。昨日飲んだ友人がおもしろいと言うので手にとってみたのだけど、なんというか、つらい。つらい気持ちが溢れてきてとめどない。初めて中島らもを読んだが、佳い文体だなあと感じる。感じるが、客観的な感想よりも主観的なつらいが一歩前に出る。アル中になったことはない、けれど、いいや、もうこれ以上はここには書かない。ただ、中島らもってどんな人なんだろうと思いウィキペディアで調べてみたら、彼に関わる登場人物全員が想像の斜め上をこえてきていて、全体的に喜劇みたいでちょっと笑ってしまった。笑ったら少しだけ元気になった。楽しくて元気だから笑うのではなく笑うから楽しくなれるんだなと妙な再確認をした。つらがらせるのか笑わせるのかどっちかにしろ中島らも

 

 

Nくんのはなし

 

Nくんという友だちがいる。いまは名古屋に勤めていて、文房具を売り、ときどき東京に帰ってくる。

今日、1年半ぶりにNくんと会った。上野の高架下、アメ横の国籍が分からない屋台で、二人はガタガタした椅子に座り、小籠包をつまみにハイボールを引っかけ、1時間半のバカンスをした。

 

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見よ、この完璧なうつくしさ

Nくんは高校の同級生だ。しかし、彼と在学中に喋ったことは一度もなかった。友だちの友だち、くらいの遠さで、お互いに名字だけを知っている関係だった。

卒業して数ヶ月したある日、わたしが書いたとあるブログのエントリーを読んでくれたNくんが、突然メールをしてきた。「はじめまして。といっても、高校で何度かすれ違っているので、あまりはじめまして感はないのですが…」というような書き出しではじまるメールには、「20歳になるまでに、自分をどこまで昇華させられるか、自分のたましいをどれだけ磨けるか、挑戦してみたくなりました」という短い感想が添えられていた。

こうしてわたしとNくんは友だちになった。

 

彼との付き合いはもう6年目になるのだろうか。けれども直接会って話したのは、たぶん両手で数え切れるくらいしかない。過ごした時間に思い出と名前をつけられるほどの濃密な何かがわたしたちのあいだに横たわっているわけでもない。けれど、Nくんが初めて読んでくれたわたしの文章と、Nくんから初めてもらったメールの短い一文だけで、わたしたちは十分だった。ソウルメイトやベストフレンドと呼べるほどの近しさはなくとも、いつどこで何をしているのか普段はまったく知らなくとも、なんとなく救われている感がある。彼にとってのわたしがどういう友だちなのかは知らないが、わたしにとってのNくんとはそういう人だ。

Nくんは来月24歳になる。初めて彼と会った日から、わたしたちはお互いの誕生日のすこし前になると「この一年、どうだった?」というLINEをする。タイミングが合えば会って話をしたりもする。それだけの仲だけど、わたしはなぜかNくんに一年の報告をしないとちゃんと次の年齢を迎えられない気がして、誕生日の前になるといつもラインを送る。Nくんも毎年LINEを送ってくる。会うのは年に一度あるかないか、だけど。なんとなく、救われている感があるのだ。

 

 

普段こうして日記以外の文章を書くとき、なにかとても大きくて、大きくて大きくて大きすぎて見えないものに祈りを捧げるような気持ちになることがある。つらい人を見るのはかなしいし、ボロボロになってしまったり立ち直れなくなってしまったりした人には、あたたかいスープとやわらかい布団を差し出したい。その差し出したい思いだけで、ただただ文章を書いている。書き始めた頃はどんな人にどのように届いているのかは分からないまましばらく書いていたけれど、自分の祈りのような気持ちに対して「言葉で応えてくれるひとがいる」という経験をさせてくれたのはNくんだった。わたしが初めて「伝わった」という感覚を得られたのは、彼からの一通のメールだった。どこかの、誰かの、どこかに届いている、伝わっている、読まれている、という事実が、いまのわたしの「書く」原体験だったような気がする。

 

 

いよいよ寒さが加速してきた。しかし街には秋らしさの影がまだまだやってこない。早く色っぽい銀杏を見たい。咲き乱れる花を見たい。翅がボロボロになった蝶を見たい。保温しながらやっていきましょう。明日のおやつは名古屋のおみやげ、うなぎパイです。一週間お疲れさまでした。