羊とメトニミー

伏流水のなかに棲んでいる

Nくんのはなし

 

Nくんという友だちがいる。いまは名古屋に勤めていて、文房具を売り、ときどき東京に帰ってくる。

今日、1年半ぶりにNくんと会った。上野の高架下、アメ横の国籍が分からない屋台で、二人はガタガタした椅子に座り、小籠包をつまみにハイボールを引っかけ、1時間半のバカンスをした。

 

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見よ、この完璧なうつくしさ

Nくんは高校の同級生だ。しかし、彼と在学中に喋ったことは一度もなかった。友だちの友だち、くらいの遠さで、お互いに名字だけを知っている関係だった。

卒業して数ヶ月したある日、わたしが書いたとあるブログのエントリーを読んでくれたNくんが、突然メールをしてきた。「はじめまして。といっても、高校で何度かすれ違っているので、あまりはじめまして感はないのですが…」というような書き出しではじまるメールには、「20歳になるまでに、自分をどこまで昇華させられるか、自分のたましいをどれだけ磨けるか、挑戦してみたくなりました」という短い感想が添えられていた。

こうしてわたしとNくんは友だちになった。

 

彼との付き合いはもう6年目になるのだろうか。けれども直接会って話したのは、たぶん両手で数え切れるくらいしかない。過ごした時間に思い出と名前をつけられるほどの濃密な何かがわたしたちのあいだに横たわっているわけでもない。けれど、Nくんが初めて読んでくれたわたしの文章と、Nくんから初めてもらったメールの短い一文だけで、わたしたちは十分だった。ソウルメイトやベストフレンドと呼べるほどの近しさはなくとも、いつどこで何をしているのか普段はまったく知らなくとも、なんとなく救われている感がある。彼にとってのわたしがどういう友だちなのかは知らないが、わたしにとってのNくんとはそういう人だ。

Nくんは来月24歳になる。初めて彼と会った日から、わたしたちはお互いの誕生日のすこし前になると「この一年、どうだった?」というLINEをする。タイミングが合えば会って話をしたりもする。それだけの仲だけど、わたしはなぜかNくんに一年の報告をしないとちゃんと次の年齢を迎えられない気がして、誕生日の前になるといつもラインを送る。Nくんも毎年LINEを送ってくる。会うのは年に一度あるかないか、だけど。なんとなく、救われている感があるのだ。

 

 

普段こうして日記以外の文章を書くとき、なにかとても大きくて、大きくて大きくて大きすぎて見えないものに祈りを捧げるような気持ちになることがある。つらい人を見るのはかなしいし、ボロボロになってしまったり立ち直れなくなってしまったりした人には、あたたかいスープとやわらかい布団を差し出したい。その差し出したい思いだけで、ただただ文章を書いている。書き始めた頃はどんな人にどのように届いているのかは分からないまましばらく書いていたけれど、自分の祈りのような気持ちに対して「言葉で応えてくれるひとがいる」という経験をさせてくれたのはNくんだった。わたしが初めて「伝わった」という感覚を得られたのは、彼からの一通のメールだった。どこかの、誰かの、どこかに届いている、伝わっている、読まれている、という事実が、いまのわたしの「書く」原体験だったような気がする。

 

 

いよいよ寒さが加速してきた。しかし街には秋らしさの影がまだまだやってこない。早く色っぽい銀杏を見たい。咲き乱れる花を見たい。翅がボロボロになった蝶を見たい。保温しながらやっていきましょう。明日のおやつは名古屋のおみやげ、うなぎパイです。一週間お疲れさまでした。

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先週の火曜日辺りから急に何かのエンジンがかかり始め、土曜日くらいにスイッチが入りひたすら仕事をこなしていた。けっこういろいろな種類のいろいろな仕事をしていたと思う。見えづらいけれど完成させたことで確かに誰かの役に立ったアウトプットをいくつか出せたのがとてもうれしかった。

 

昨日あたりからカロリーが切れてきたのか、はたまた水曜日に登った谷川岳の疲労が抜けなかったのか、いまは気持ちが前に行くのに身体が休ませてくれとサインを出しているのを如実に感じる。何を食べても満たされない感覚が続いた9月からようやく抜け出して、そろそろねむりの季節入れるのかもしれない。働き蜂と一緒だ。せっかく身体がおやすみモードに入ってくれたので、腰を据えて数日がかりでひとつのことをやりきるような週末にしようと思う。

 

書きかけの散文がたまっていく。書きかけのRTFはそのままフォルダに放り込んでおくのだが、ペースを見るにつけ1週間に5本くらいのペースで散文が生まれている。寝かせてブログの記事になることもあれば、誰にも見せたくないものになることもある。有精卵と無精卵に分かれていく卵みたいだな。

 

 

珈琲がおいしい。そろそろ渋谷の行きつけの飲茶にまた行きたい。

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前日夜に突如仕事が休みになり大歓喜。わたしにも連休が来た!

秋だし写真を撮りに行こう、と思ったけれど、よく思い出したら東京に秋が来るのは11月だった。でも起きた直後に窓から見えた真っ青な真っ青な空がたまらなくうれしくて、すぐに着替えて家を出た。今日は自転車日和だなと思いサドルにまたがる。タップの楽しい予定が近々入ったため、シューズも持って出た。結局近場で午前中から昼過ぎまでほぼインプロをして過ごし、そのあとそのまま自転車で銀座方面へ向かった。あてどないけれど、皇居の周りとか、丸の内公園とかに何か秋らしいものが見当たらないかなと思って。

 

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結局秋っぽい写真はほとんど撮れなかったけれど、半日触りたおして最近買った富士フィルムのお散歩用カメラと少し仲良くなれた気がする。色味の綺麗さが抜群だし、セピアで抜いても奥行きのある画が撮れる。Canonのいま使っているAPS-Cとは正直ぜんぜん違う。けれどやはり8000Dも心から愛しているので、街撮り用と自然用で使い分けよう。

 

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前から気になっていたキムラヤのパン屋で秋のパンを買えたのがとてもとても良かった。前からツイッターで追いかけていたハンドパン奏者の方が偶然渋谷で路上ライブをやっていて投げ銭待ったなしだった。銀座に撮れる秋はなかったけれど、今日あそこに行ったのは間違いなく正解だった。本当は浜離宮に行く予定だったのだけれど、着いたら人がわんさかいて外から見るだけで疲れたのでやめた。

 

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銀座も、帰りがけに通った新宿も歩行者天国。おなじ歩行者天国なはずなのに、どうしてこんなにも街の空気の色が違うのか。

 

 

 

結局、帰りにマジックアワーめがけて地元の川と線路までガンダッシュした。けっこう頑張って自転車を走らせていたと思う。帰ってから見たら、今日の午後だけで都内を40キロ以上自転車で走り回っていた。秋見た過ぎだろう、わたし。街の中で秋を感じるのって、早朝走っているときの川沿いでとか、近所の家のガーデニングとか、そういうところなので、わざわざ探しに行くものではないのかもしれない。

 

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すこぶる元気。昨晩のUPJ5や路上飲酒、不忍池ヒルボート漕ぎや大きいハンバーガーとカメラなどの楽しい余韻が抜けきらず、睡眠時間は少なかったけれど朝からとても元気。いつもの倍の距離を走る。筋トレはそこそこに、柔軟をていねいにやる。

 

日曜なので、出勤に向けてお弁当を作る。ご飯を作るのが好きだ。名前のあるちゃんとした料理をつくることはそんなにしない。でもどこまでが「ちゃんとした」なんだろう。副詞に逃げる癖をやめたい。おみそしるくらいは「ちゃんとした」に入らない気がするが、世の中のみそしる職人に怒られそうなのでそういうことは言いません。飼っている犬の名前はナポだけど、ナポリタンなどは作らない。冷蔵庫にある玉葱や人参をてきとうに炒めて、おいしく味付けて、最高の茹で加減の麺を投入しておいしくいただくようなことが好き。個人的に重要なのは「麺の茹で加減は最高」という点。こういう縁の下みたいなところに手をかけることにうれしさを覚える。

 

今日の献立 かぼちゃの煮つけ、お肉と野菜をてきとうに炒め醤油とオイスターソースで味付けをしたもの、茹でたオクラ、卵焼き、お米

 

ちょっと暑かったけれど、ごまかしようのない秋!秋が大好きなので、秋というだけで機嫌が良くなる。機嫌のコスパが良いのは非常に有意義だし、自分のこういうところは素直に好きだなと思う。

出勤用にあたらしくおろした白のブラウスが予想よりも10倍ほどうつくしくて、うれしかった。今日は起床した瞬間から元気だったので、ぜんぶがうれしく、良く思える。こんな日はなかなかまれなので、気を散らさずにうれしい気持ちを堪能しておく。

 

特に書いて他人に見せる必要もないことを書くのも楽しそうだなと思ったので書いた。気が向けば続くかもしれない。

「無理しない」ってもしかして無理なんじゃないの

 

「無理しないで」と、今月何回他人に言ったっけ。秋だからか、体調を崩したり精神状態を崩したりする人の多いことこの上ない。みんなやんごとない事情のひとつやふたつを抱えている。

 

人間やたら無理をしがちだ。それもけっこうな頻度でけっこうな強度の無理をしがちなのだ。ハイパー忙しいモードから脱しているときは「どうしてそんなに頑張るわけ?」と無理をしている人を見て首を傾げたくなるが、ハイパー忙しいモードの渦中にいるときは自分の体調を感じている暇があったら手と頭を動かせという感じなので、無理をしてしまう気持ちも分かりはするのだけど。しかも、そんなときに「無理しないで」なんて言われると、優しさと分かっていながら「じゃあどうしろというのか」「わたしだって好きでこうなってるわけじゃない」という反発心が生まれることすらある。こういう状態は完全に赤信号だ。いますぐ野菜たっぷりのあたたかいスープを食べさせて、空調が完璧な薄暗い部屋でまる3日くらい寝かせてやりたい。

 

 

どうして人は無理をしてしまうのか。そもそも無理って何なのか。無理をするってどういうことなのか。いろいろ考えてみた結果、わたしたちは、「無理をしない」というフレーズを使っているうちは「無理をしない」が原理的に不可能なんじゃないか?という結論にたどり着いた。頭の中の整理も兼ねて、少し書き残しておく。

 

まず「無理」とは何か。いくつかの辞書をひいてみたが、新明解国語辞典第七版の「好ましくない結果になると分かっていながら、強行すること」や新潮現代国語辞典第二版の「実行しがたいこと。不可能又は困難」なんかがニュアンスとしては最も近いように感じる。疲れているのに仕事をやめない、やることが多いから睡眠時間を削る、とか、そういうのが「無理」の典型的な例だ。で、この「無理」を「しない」というのは、「積(詰)んでいるすべきことよりも健康を優先し、心身をいたわること」みたいな感じ。つまるところ、心身に負荷をかけすぎない、ということ。

 

けれど、負荷をかけないというのはなかなか難しいもので、どうしても加減を見誤ることが多い。どこかのブラック企業の社長が「無理だと思っていても実際にできたらそれは無理じゃなくなるんです」と言って一時期インターネット中から火炎放射を浴びていたが、実際それは事実の一面を正確に切り取っていると思う。「無理だ」と思っていても、なんとか運良くその負荷量を切り抜けてしまえばそれは「できた」ことであり、その負荷量をかけることは「不可能」から「可能」の世界線へと切り替えられる。「無理そう」という予測はロシアンルーレットのようなもので、引き金を引いて空砲ならば「無理じゃなかった」、頭が撃ち抜かれれば「無理だった」という結果でしか判断することができない。そのため、「この負荷は無理そう」という事前の判断力は意味をなさなくなり、そのうち「判断をする」という発想自体がなくなり、果てには「この前無理じゃなかったことでも(疲労がたまってリカバリーが間に合っていない)今回は無理かもしれない」という勘すらはたらかなくなっていく。

 

その結果、いつか銃弾が弾けるのだ。日常に起こるほんの些細なトラブルとか、誰かの心無い一言とか、深夜の玄関にたどり着いて気を抜いた瞬間とか、そういう一刹那に撃ち抜かれる。そして人は、紙くずのようにあっけなくだめになってしまう。

 

 

 

先ほど、「無理をしない」という考え方自体がなんか違うんじゃないかと言った。そう、無理を「しない」が無理をするもとになっているような気がしてならない。

「しない」は主体的な動作を指す言葉だ。つまり、自分で自分を誤魔化すことができてしまうのであって、そこが怖い。極限まで体や頭を酷使して心がすり減っても「キツイけど、無理はしていない。本当に無理だったら倒れているはず。でもいま自分はフラフラだけどそれなりにやれている。だから無理はしていない」と言えてしまう。「無理をしない」という言葉を使っているうちは、無理をしているかしていないかの判断がすべて主観に委ねられてしまうのだ。こんな怖いことってあるか?ない。独裁者が「おれは独裁者なんかじゃない、すべての民にとって善いことをしている」と言っているのを聞けば、明らかにおかしいと分かるだろう。無理をしながら「無理をしない」と言っているのは同じことだ。「ギリギリだとわかっているし実際自分は無理していると自覚している。でも自分が無理をしないとみんなが困るから仕方なくやっているだけだ」みたいな声が聞こえてきそうだけど、そういう話をしているのではない。そう自覚しているならきみは既に無理をしている。自覚しながら無理をしているのは本物の阿呆だ。死にたくないと叫びながら拳銃を頭に突きつけてリボルバーをガチャガチャ回して引き金を引きまくっているようなものだ。ドアホウめ。

 

 

じゃあどうしたらいいんだろうともう少し考えすすめてみたところ、ちょっと良さそうな結論が出てきた。

無理を「しない」がダメなら、無理を「させない」はどうだろう。

 

「無理をさせない」。すごくいい言葉だ。自分が自分のお母さんになったみたい。試しに自分を思い浮かべながら「この子にあんまり無理させないでください」と言ってみてほしい。一気に自分が小さい子になった気分になっておもしろい。まあおもしろくなくてもいいんですけど。でも安心感がすごいの、分かるかな。

 

 

昔からときどき、ひどい離人感におそわれることがある。物心がついた頃から「わたし」というのは二人いる。「している」わたしと「見ている」わたし。自分が何かしているのに、まるで自分のことじゃないような。頭を動かしたり会話をしたりスーパーのレジでお会計をしたりしている自分はたしかに自分なのだけど、それを眺めているもう一人の自分のほうに意識の焦点がくっきり合って、その二人のわたしのあいだにものすごく遠い隔たりを感じる。分厚いレースのカーテン越しに、しているわたしを見ているわたし。いつからだったか忘れてしまったけれど、たぶん小学生の頃からそうだった。「している」わたしに意識が合っているときは、見えるものや聞こえるもののすべてが刺激たっぷりで、世界の解像度はこの上なく、感情で体調や精神状態が簡単に左右されて、ものすごく楽しい半面ものすごく疲れる。反対に「見ている」わたしに意識が合っているときは、笑ったり泣いたりすることがあまりなくなって、おいしいとか、楽しいとか、気持ちいいとか、そういう感覚も鈍くなる。反面、頭は恐ろしいほどに冴え渡り、ひとつのことについて長く考えているときは、どんな些細なほころびも矛盾も見逃さない。思考に容赦なく徹底的な理詰めを重ねて、矛盾がどんどん消えていき、自分のなかではためく正しさの旗がどんどん大きく力強くなっていく。放っておきすぎるとちょっと危険。柔軟性に欠けるので、この時期はハートフルなコミュニケーションができない。付き合いの長い友だちからは「最近またなに考えているかよくわかんない期入ってるね」と言われる。

 

 

小さい頃からこんなありさまだったから、「わたし」というのはどんなにダメダメでも一生伴走し続けなくてはならないパートナーであるような感覚がもともとあった。それもけっこうダメめなやつ。抜けていることが多いし、他人をうっかり傷つけたりもする。でもこのランナーのわたしがいないと、伴走者のわたしだけでは社会参加ができないので、なんとかランナーをメンテナンスしながらやっていくしかない。

 

無理をする人は、自分と自分の距離があまりに近すぎる。ランナーが倒れたら伴走者だっておしまいだ。伴走者がいくら走りたいと思っても、一度撃ち抜かれてしまったランナーは再起にものすごい時間がかかる。時間をかけているうちに伴走者はどんどん自信を失っていく。自信を失った結果、ランナーのことが信用できなくなって余計に社会に戻ること自体が怖くなる。

 

深く眠るとか、永く休むとか、そういうのは一旦死ぬことに似ている。無理をさせないためには一旦意識の作用を手放してしまったほうがいい。どうやるのか?伴走者のあなたがランナーを抱きかかえて布団に連れて行くしかないのだ。

 

 

最近ちょっと身体しんどいな、とか、気持ちがささくれているな、と感じたら、「この子にあんまり無理させないでください」とそっと呟いてみてほしい。近すぎた自分と自分がふわっと剥がれるような軽さを感じる、はず。たぶん。感じられなかったらごめんなさい。みんなもっと自分にやさしい世界がきてくれ。

秋は、生きものたちが万全の死に向けて、持てる力をすべて使いつくして命を燃やす季節だ。なんのために万全に死ぬのか。それは、次の春に生まれるためだ。そのために冬にきちんと死んでおかないといけない。無理をしているうちに死に損なうと、春が来てもきっとその訪れに気づくことすらできない。どなたさまも、深まる秋にどんどん爆発して粉々になっていきましょう。冬は本当は死んでいなきゃいけないけれど、どこかに破片が残っていたら、一緒に鍋でも食べましょう。おしまい。

23歳のわたしが選ぶ10の本

 

 

本を読むのが好きだ。どうして好きなの?と訊かれたら、「いろいろな楽しみ方ができるから」とこたえる。

 

物語をコンテンツとして消費したくなる日がある。答えのない議論を延々と頭のなかでやり続けたい日もある。好きな友人の好きな作家の本を読んで、感想を述べ合うことを口実にその人に会いに行きたい日もあれば、ただぼーっとさまざまな象形文字を眺め続け、何千年も前に生きた人たちの想像力に重なりたい日もある。

 

本はわたしの「したい」にだいたい答えてくれる。笑われるかもしれないが、身体を動かしたいときも本を読むことがある。たとえばうつくしい踊り子が主人公の文学短編を読んで、読み終わったら音楽に身を任せて部屋の中でデタラメに踊ったりする。自分がその踊り子になった気持ちで、ときにはその彼女がしたようにその恋人を想いながら(このときわたしが想うのは現実界の人間のことではなく、あくまでもその物語に登場する人間たちのことだ)、ただデタラメに季節や天気に合わせて踊ったりする。それだけですごく楽しい。

 

本はわたしをひとりにもしてくれるし、人と繋げてもくれる。だれかに教わった本をすごく気に入ったり、書店でふと目が合った本がきっかけで、さっきまで名前も知らなかった書き手とたましいのおく深いところで繋がったりできる瞬間が大好きだ。 

 

わたしをきっかけに誰かがわたしの好きな書き手とつながってほしいな、となんとなく思ったので、この記事を書くことにした。タイトルはそれっぽく「10」にしてあるが、べつに5冊でも20冊でもよかった。23歳のいまの自分がこれまで読んできた中で、「これは」と感じた10冊を紹介する。

ここで紹介する10冊以外にも自分が影響を受けた本は多くあるが、いまこの瞬間フィーリングで選んだものが、いまこれを書いている自分にとっての正解だと思う。なので、特に思い入れが深いとか、読めば絶対に何かを得られるとかそういうのとは少し違う。ただただ佳いと感じた作品だけを特に理由もなく紹介していく贅沢な試みである。

 

 

 

1】 白 - 原研哉

 

「 白があるのではない。白いと感じる感受性があるのだ。だから白を探してはいけない。白いと感じる感じ方を探すのだ 」

 

帯に書かれたこの一文だけで、ただならぬものの訪れを感じた。「白について語ることは色彩について語ることではない」という頬が痺れるような一文から始まる、白を巡る著者の考察の本。考察という体裁ではあるものの、文体が文学と独白のあいだのようで、「白」を崇拝する敬虔な信者の日記みたいだと思った。

 

読み終えると、自分の目に一枚上等なフィルターがかかったような気分になる。この本を読んで感銘を受けた、というレベルではなく、この本を読むと自然と目が変わらざるをえないのだ。真に力を持つ人というのは、存在するだけで飛び抜けている。この書き手は彼を見つめるひとたちをその空気に自然と巻き込んで、関わるすべての人を高みに導いてしまうような人なのかもしれない。それくらい、この本は飛び抜けている。

 

この方はデザイナーで、いまは美大で教鞭を執られている先生らしい。美大にはおもしろい先生がいるんだなあ。

 

 

 

2】 入門 実践する統計学 - 藪友良

 

 人生で一番回数読んだ本はたぶんこれ。学部4年生の頃にお世話になっていた計量経済学の先生の著書。

この本のすごいところは、誰にでも理解できる言葉で抽象的な概念を見事に説明しているとか、一冊読めば統計学のトの字も分からない人でも基礎がほとんどおさえられるとか、いろいろある。けれど何よりすごいのは「統計学が大嫌いだったわたしを統計学好きにしてくれた」に尽きると思う。本を読んで嫌いなものが好きになった経験は、あとにも先にも統計学しかない。

 

学部生の頃伺った藪先生のお話曰く、先生も大学生の頃は統計学計量経済学に対して苦手意識があったらしい。自分が苦しい思いをしたからこそ、初学者でもなるべく分かりやすいように、統計学から脱落しないように書いた、とおっしゃっていた。実際、内容は本当に御見事としか言いようのないくらい、なめらかで、明快で、親切だ。

 

自分の苦手なものを克服するというだけでも大仕事なのに、それを他人に分かりやすく説明して教えられる、というところまで辿り着いた先生は、本当にすごい。これこそが「学んで自分のものにする」ということなんだろうなあと、月曜1限にねむたい目をこすりながら必死にノートをとってこの本のページを繰っていたいたあの頃が懐かしい。

今でも、統計絡みで少しでも分からないことがあったらまずはこの本に手を伸ばす。ちょう頑丈な家、みたいな本。

 

 

 

3】 字通 - 白川静

 

4年前に亡くなった祖父の遺品として、葬儀の後に祖母から貰い受けた。わたしが漢字の成り立ちや象形文字が大好きになったきっかけを作ってくれた辞書。

 

気になる字を30くらい調べるだけでも余裕で午前中が終わる。雨の日曜日に読む辞書として最適。めくれどもめくれども漢字、漢字、漢字。ぼーっと眺めていると、ふとした瞬間にこれを書いている白川静先生の背中が見えることがある。白川先生も、こうしてときどきぼーっと自分のこれまでの人生をかけてかき集めてきた漢字を眺めていたんじゃないだろうか、と恐れ多くも思ったりする。お会いしたこともないし、わたしが白川先生のことを好きになった頃には、先生はもう亡くなられてしまっていたのだけど。

 

もし時代が許したら、白川先生に弟子入りしてみたかった。そして漢字のことをたくさん、祖父と話してみたかった。

 

 

 

4】 最果てアーケード - 小川洋子

 

小川洋子という作家の名前を知ったのは、小学生の頃に誕生日プレゼントでもらった「博士の愛した数式」がきっかけだった。その頃から何度も同じ本を読む癖があったけれど、当時は何度読んでも小川洋子を特に好きとも嫌いとも感じなかった。

しかし大学生になって「最果てアーケード」を読んだとき、なんというか、「今まで見えていたと思い込んでいたけれど実はすっかり見落としていたものを発見した」ような気持ちになった。小川洋子は、世界の解像度を上げるのがうまい。

 

彼女の文体は水のようだ。「最果てアーケード」は、小さな町のアーケードに暮らす一人の女の子を中心に、それぞれの商店の主や客たちの生活を描いた物語である。水のような文体で生活の物語を書くのだから、相性は抜群に決まっている。この小説を読み終えると、見落としていた当たり前の生活が、ひとつひとつおだやかなきらめきを帯びてくる。しかしそれは世界が変化したのではなく、知らぬ間にわたしの見る目が変わったのだ。「気づいたら身体に馴染んでしまう文章」というものを、わたしは小川洋子からたくさん教わった。

 

 

 

5  Into The Magic Shop - James R. Doty

 日本語訳版:スタンフォードの脳外科医が教わった人生の扉を開く最強のマジック

 

日本語版を読んですごくよかったので原著も取り寄せたらそちらも良かった。ただ日本語版はタイトルが胡散臭いので手にとるのになかなか勇気が必要だった。 

 

自己啓発本ではなく、マインドフルネス瞑想のやり方の本。そしてマインドフルネス瞑想とは筋トレの一種のようなものなので、第六感が云々などというようなことは一切ない。本書では「マインドフルネス」とか「瞑想」という単語についてまわる宗教的なイメージはほとんど語られず、かなり読みやすい。多くの自己啓発本や怪しいスピリチュアル本にありがちな「宇宙と繋がる」とか「真我に目覚める」みたいな「いかにも」な話も出てこないし、「脳は意思と習慣づけによって変わる」ということが経験と科学的な根拠とともに明快に述べられている。

ハウツー本というよりも、ひとりの中学二年生の男の子がいかにして成功と転落を繰り返す生活のなかで「瞑想」と関わって大人になっていくか、という物語に近い。主人公が日常で感じている気持ちの描写が繊細で、読んでいても「ああ、この感じ、わかるなあ」と頷きたくなる。物語と実用書の両方としてここまで役立つ本はほとんどないと思う。激推しです。

 

 

 

6】 一億人の英文法 - 大西泰斗、ポール・マクベイ

 

大学に入ってから多くの英語に関する書を読み漁り買い漁ってきたけど、「学習」と「研究」の2つの観点から見るとこれが暫定一位だと思う。

 

「すべての日本人に贈る「話すため」の英文法」という冠文句の通り、英文法の本。「話すための」というフレーズが入った英語系の教材本は多いけれど、そのほとんどは「このフレーズを暗記して応用すればネイティブとの会話もスムーズにできます」というやつだ。確かにそういう学び方に汎用性はあるし、学習や簡単な英会話の基礎づくりにはいいかもしれないけれど、もっと読んでいて面白い教材はないかなあと探していたときに巡り合ったのがこの一冊だった。

この本の特徴は、「話す」という行為そのものに注目しているところ。「話す」は人間だけの非常に原初的な行為だ。ゆえに、その行為の根本にある「心の動き」に着目し、「こういう心の動きがあるから、ここにはこういう単語が入る、こういう語順で気持ちが表される」という解説が目白押しになっている。これが面白いのなんのって!

日々わたしたちがしている母語による発話は、想像以上に無意識下で行われている処理が多いように感じる。頭のなかで「話す内容」は考えるけれど、どんな語順で、とか、主語がどうの、とか、そういうことはあまり考えない。だからどんなに真面目で深刻な話をしていても、語順がメチャクチャなことなんてしょっちゅうあるし、ときにはほとんど言葉を使いすらしなくても、多くを伝えあうこともできる。

 

この本を読むと、高等教育までで習ってきた英語の文法における「どうして?」があらかた解決されるだけでなく、「もっと気持ちを優先させて英語を使っていいんだな」と安心できる。文法が多少下手でも、「伝わる」ために落としてはいけない単語と語順は何か、というカンが掴めてくる。そういう意味で、英語を「研究」したい人にとってもたくさんの知見を得られる素晴らしい一冊だと思う。

 

 

 

7】 夜中の薔薇 - 向田邦子

 

恥ずかしながら、放送作家という職業を聞いたことがなかった。向田邦子という人も、その名前しか知らなかった。今年のゴールデンウィークに東京から10時間も離れた島まで登山をしに行ったのだけど、そのときのお供としてたまたま本棚から抜き取った一冊がこの本。確かずいぶん前にプレゼントとして頂いた本だった。

 

この書き手に出会えてよかった、と心から思える一冊だった。放送作家という職業柄か、女性でここまでもパキッとしたリズミカルな文章を書ける人を見たのは初めて。そしてその小気味よさが読んでいるうちに自分の全身に同期してきて、ページを繰る手が止まらなくなる。かっぱえびせんみたいな本。自分のなかにある本を読むための臓器にあたらしい血が流れ込んだような新鮮さがあった。

 

向田邦子のエッセイは、率直だ。嘘がないことがひと目で分かる。夏の高い空のようにくっきりしていて、気持ちいい。 人によく見られようとか、見栄を張ろうという威勢の良さを隠さない。隠さないけれど、「自分はそういう人間です」ということがちゃんと客観視されているので、嫌味がなく、すがすがしくて、コミカル。書き手と女性の両方として「こんな人になりたい」と思える人には滅多に出会えないので、大変貴重な出会いだった。

 

 

 

8】 「考える」ための小論文 - 西研、森下育彦

 

小論文は大学生の頃のライフワークのひとつだった。今の仕事は少し方向性を変えたけれど、やっていることは概ね変わらない気がする。そもそも小論文を書けるようになりたいと思ったのは、この本がきっかけだった。

題名だけを見ると小論文の書き方のハウツー本のようだけれど、この本が提示してくれるのは「深く考えることの面白さ」と「小論文における”正しさ"とは何か」という問いかけだ。

前者に関しては、「考えるとは何か?」ということをずっと考え続けているわたしにとって、ひとつの解へと繋がる手がかりになった。こういうメタ的な思考の取り扱いが下手だからこそ「なるほど!」と膝を打ちたくなる主張がそこかしこに散りばめられていて刺激的だった。

後者に関しては、そもそも「正しさ」という観点を国語(厳密には小論文と国語は違うものだけど)という教科に持ち込めると分かったことが単純にうれしかった。小学生くらいの頃からみんな「国語には正解がない」というフレーズを100万回くらい聞かせられていると思う。わたしもそうでした。なのに国語のテストで「傍線部の筆者の気持ちを50字以内で説明しなさい」とか「次の選択肢ア〜エから、主人公の心情に最も近いものを選びなさい」などと言われて点数がつけられることにたいそう納得がいかなかった。「正解がない」と言いながらも、「意図しているところを忖度せよ」に支えられているじゃないか!と猛烈に不満を抱えていた。だからこそ、国語に「正しさ」という尺度を持ち込んでよい、と教えてくれた本書は、ひとつの救いであった。

 

 

 

9】 魂のいちばんおいしいところ - 谷川俊太郎

 

特に言いたいことはない。この詩集に客観的な感想や語彙を当てがったら、秘密の場所が消えてしまうような気がするので、何も言えない。読んで、とだけ。

 

 

 

10】 ポーの一族 - 萩尾望都

 

 わたしが萩尾望都ファンであることはほとんど知られていない情報だけど、もう何年も萩尾望都の大ファンです。

ポーの一族」は、歳を取ることも食べることもなく、永遠のときを渡ってゆくバンパネラたちの物語。愛とはどこにあるのか、生命の美しさとは何に宿るのか、生命を持たないバンパネラはどこへ向かうのか、死んでしまう人間たちは一体どこへ行ってしまうのか、永遠のときを過ごすバンパネラはなぜこの世に存在するのか。愛と生命をめぐるさまざまな命題があまりにも美しく描かれている。この物語の前において「美」を語ることは、わたしにはできない。読んでみればそれがどういう意味か、たぶん分かる。

 

萩尾望都は素晴らしい漫画家だけど、同時に天性の詩人でもある、と思う。

たとえば以下は、人間からバンパネラへの目覚めがなかなか訪れず、昏々と眠り続ける友人のアランを前に主人公エドガーが独白する場面だ。

 

「目ざめよ神話 

ぼくたちは時の夢

昔がたりと

未知への畏怖が

ぼくらの苗床

ぼくらの歌

 

さようなら

さようならを

いっておしまい

アラン

人間界の

すべてのものに

 

わかっているね

ぼくたちが

なに者かこれから

どこへゆくのか

 

早く

目をおさまし

早く

 

永久を駆ける

馬車が出る」

 

彼女が手にとる言葉のひとつひとつは、重ねられて、透き通って、天から響くように聴こえる。平坦な語彙の一片一片がドミノのように少しずつ並べられ、いつのまにかそこに銀河があらわれる。萩尾望都とは、そういう詩人である。

 

 

 

はんぶんのじぶん

 

 

半分ずつでできている。

片方は、世事に通じた自分。優等生で、物分りと聞き分けが良くて、お行儀をわきまえていて、先生や大人に期待されたり褒められたりするのがうれしくて、納得のいかないことや理不尽な目にあっても黙って肚の中に収めることもできたりして、けっこう突っ走って頑張ってしまう自分。

片方は、ぷにゃぷにゃとやわらかくて、熱くて、形になる前の胎児のように原初的で、獰猛で、真っ直ぐで、大きな声で笑ったり、ぽたぽた涙を流したり、秒ごとに目まぐるしく感情がゆれて、「大好き!」と「大嫌い!」を腹の底から叫ぶ自分。

 

 

世事に通じた自分は、自分が他人にどう思われているのか、大人たちに何を期待されているのか、なんとなく分かっている。だから期待された通りにやって誰かに喜ばれるのが単純にうれしい。「レールに乗っている人生なんて」と大口を叩きながら「まあでも、レールに守られているからこうして安心して生きていけるんだけどね」ということを分かりすぎている。大きな何かに守られて身分が保証されていることに、すごく安心感をおぼえている。心地いい。そこから外れなければ、きっとみんなはこれからもわたしに期待してくれる。誰かの期待にこたえたいから、この先も頑張っていける。守られなくなることも、期待されなくなることも、怖い。自分の形や価値がわからなくなってしまいそうで。物分りがいいから、傷ついていないフリがうまい。悲しんでいることや怒っていることや誰かを見下してしまうことを、誰にも知られたくない。いつも「正しいこと」によりかかっている。

 

 

ぷにゃぷにゃした胎児みたいな自分は、とても乱暴でうるさい。「腑に落ちた」と感じなければテコでも動かないし、自分がYESといえばYESNOと言えばNOだ。叫ぶ、叫ぶ。ときに歓声を上げて全身で踊りだし、ときに嗚咽を漏らしむせび泣く。好き!とか、気持ちいい!とか、そういう感覚を感じられることがなによりもうれしい。身体と心があってよかったと思う。自分で全部決めたい。美しいものと素晴らしいものしか身のまわりに置いておきたくない。そしてダメな日はとことんダメ。3時間眠って1時間覚醒して3時間眠る日々を繰り返したりする。身体や心がもう無理でーす!とサインを出したら、スマホPCもぜんぶ電源ごと切って、ひたすら深い海の底に沈んでいく。目も開けたくない、意識を保ちたくない、何も感じたくない、感覚器官がぜんぶ閉じてほしい。本気でそう願って、ただただこのわけもわからない大嵐が過ぎるのを待っている。太陽が大嫌いになって、夜が怖くなって、もう二度と風に乗って飛ぶことなんてできないのではないか、と不安の中をぐるぐるまわる。けれどある日突然光が差し込んできて、気づいたら、爽やかな広大な、風が南へと駆け抜けていく草原に立っている。いつの間にか海の底から土のある地へと這い上がって、二本の足で立っている。

 

 

半分ずつでできたひとりのわたしは最近、両方のバランスを崩すことが多かった。物分りの良い自分に押しつぶされて、胎児みたいな自分のことを忘れているうちに、本当に何も感じなくなり、立ち上がることができなくなってしまっていた。けれどようやく少しずつ、夏の光が差し込んできた。空が明るいことが分かる。花が薫っていることが分かる。手にかかる水の冷たさが分かる。犬の腹のやわらかさが分かる。背中をつたう汗のくすぐったさが分かる。

身体を取り戻していきたい。また夏が来たんだと、感じたい。さよならを言えなかった梅雨に、また来年も会いたい。胎児みたいな自分を大切にして生きていきたい。

8月が、もうすぐ目の前だ。

 

たぶんわたしのように、半分の自分を抱えている人がこの世界にはたくさんいる。人によっては2人どころではないかもしれない。もっとたくさんのさまざまな自分が矛盾しあって、その喧騒のうるささに耳をふさいでいる人や、どの自分を信じたらいいのか分からず、立ち止まったまま何年もの時間を過ごしている人も、いるかもしれない。

どれがほんとうの自分、という絶対の解は存在しない。ぜんぶの自分を大切にできればパーフェクトだけれど、環境や年齢に合わせて「いまの自分にとって大切な自分」と「忘れ去られていく自分」が存在するようになるのだと思う。誰かのことを忘れてはいないか、置き去りにしていないか、たまに振り返ってみてほしい。誰かが欠けたまま気づかないで歩み続けたらいつか、「わたしの人生、返してよ」と、置き去りにした自分がそのときの自分を大声で責めるだろう。自分で自分に責められるのは、ほんとうにしんどい。だからときどき、点呼をとろう。自分が全員、ちゃんと揃っているか。

 

みなさまも良い夏をお過ごしください。