きみのお祭り

死ぬまで盛り上がっていけ

音もなく忍び寄るもの

 深夜は猛毒だ。栄養にならない字ばかり読んでしまう。10日前に立ち寄った店の食べログ、新聞に挟まっていた受験塾の広告、架空請求メールの文面。人生にとってどうでもよすぎる文字をひたすら目で追い続けながら、頭のなかではぼんやりと「アーー」という自分の声が響き続けている。

 深夜は猛毒だ。身体と気持ちと感覚のすべてが、いろいろな痛みと近くなる。背骨に張り付いている筋肉が縮んで疼痛を起こし、息がうまく吸えない。どうして同じようなことでまたうまくいかないのか、頭が悪いのか、生きていていいのか、と自分をいじめる声の再生ボタンを何度も何度も押す。目の前の空気が薄暗い陰の色に変わり、身体に触れるすべての刺激や触覚がピリピリと痛く、ときとしてはテレビ越しの話し声すら金属のように奥の方の神経に触れ、耳を閉ざして座り込みたくなる。誰かにやさしくそばで大丈夫だよと言って手を握っていてもらいたい甘えた気持ちと、誰にも指一本触れられたくない体を振り回すような乱暴な衝動が同時にあって、わけが分からなくなる。何かに支えられたいのに、何かに支えられるほど自分の身体は形をなしていない、泥のような、沼の底のような気だるさ。

 深夜は猛毒だ。刺激物に触れたくなくて、音楽もテレビも流さない時間を過ごしても、次第にそのしずけさがひたひたと骨や筋肉の隙間から圧迫してきて、耐えきれずにイヤホンで耳をふさぐ。一人にしてほしいのに、独りという実感が心臓にキュッと突き刺さる瞬間、居ても立っても居られなくなり、無意味に部屋の中をうろついたり、しきりに寝返りを打ったりしている。

 

 深夜は、猛毒だ。誰も彼も救いがない。痛みに呻く自分の声を、ただただ自分だけが聴いている。逃げるように眠り、魂を身体から遠ざける。静かに、沈んでいく。明日の朝を信じたくない気持ちを、夜だけが肯定してくれる。

 

 

眠れる森の美女(78)

 

おばあちゃんは、自分が眠ることを許せない人だった。だから、娘であるわたしの母が眠ることも許せない人だった。

 

おばあちゃんは今年79歳になる。おじいちゃんが77歳で亡くなったのは4年前。生まれ変わってもまた一緒になりたい、とまで言った祖父が死んだ歳を超えたとき、彼女は何を思ったのだろうか。

 

おばあちゃんは今も綺麗好きな、大変まめな人である。若い頃はバリバリの働き者だったという。朝は早くから起きて家人の食事を作り、会社へ行き、遅くまで働いた。40代半ばで自動車の免許を取り、スクーターで会社に通った。

毎朝、当時の母の自室だった離れ家の扉をどんどんと叩き「いつまで寝てるの!早く起きなさい!」と母を起こした。休日の午後に母が寝ていると、「また寝て!だらしがない!きちんとしなさい!」と怒ったという。

 

そんなおばあちゃん自身は、今もこたつで小一時間ウトウトしていただけで「やだ、わたしったらずいぶん眠っちゃったんね」と照れ笑いする。8時半に起きてくれば「今日は遅くまで寝ちゃった」と家中の窓を開けてせっせと身支度を始める。

 

そんなおばあちゃんにある変化があった。今年のお正月、母が群馬の実家から東京へ帰ってきたあとのことだった。

普段は猫以外住まわないような田舎に住んでいるので、お正月やお彼岸などでワッと人が集まったあとは、おばあちゃんはいつも疲れて体調を崩しがちになる。そんなときは大抵2日くらい家にこもり、寝込むこともなくまたもとの生活を取り戻していく。

しかし、今年のお正月は違った。三が日が過ぎたあと、おばあちゃんは家中の電気を落とし、窓と鍵をしめて、電話を留守番電話に切り替えて、パジャマに着替えて、三日三晩布団で眠った。ときおり起き出して軽い食事を摂る以外はとにかく昏々と眠り続けた。

 

母は「こんなこと初めて」と驚いていたが、続けて「でもよかった」と言った。

 

 

「どうしてよかったと思うの?」

 

「人はね、何かしらこなさなくてはならない課題をクリアするために生まれてくると思うから。たとえばあなたが人とのコミュニケーションのとり方に悩んで、それを乗り越えたように。若い頃はたくさんの壁にぶつかってそれをひょいひょいクリアしていくんだけど、歳をとってクリアする課題は、その人にとってものすごく高い壁だと思うの。おばあちゃんはずっと自分が眠ることが許せなかったけれど、やっとぐっすり眠れるようになったんだなーと思って。だから、よかった。」

 

 

 

おばあちゃんに認知症の初期症状らしきものが出始めたと連絡を受けたのは、昨晩のことだった。

 

もうおじいちゃんを追い越してしまったから、たぶんこれから少しずつできないことが増えていく。分からなくなることも、きっと増えていく。いつか母やわたしの顔も忘れてしまうかもしれない。かわいがっている猫を探しに、夜中に家を飛び出してしまうかもしれない。何もかも忘れることが怖くなって、不安に押しつぶされそうな夜が来るかもしれない。

それでもわたしは、おばあちゃんがひとつずつおばあちゃん自身を許せるようになっていくことが、とてもうれしい。何かを忘れていってしまったとしても、元気なうちにすべてを許せる日がきてほしい。大きな不安や恐ろしさに出くわすことがあっても、ここにいるよと声をかけたい。わたしに今日を授けてくれてありがとうと毎日言いたい。できないことが増えてもいいから、ひとつでも多く、生きていてよかったと思える瞬間に触れてほしい。

 

先週訪ねたときに見た、こたつで微睡んでいたおばあちゃんの顔を思い出した。

わたしに1/4血を分けたその人の寝顔は、すりガラス越しの西日に照らされて、うつくしかった。

 

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先日、23歳を迎えた。

23歳を迎えに行った、という言い方が一番よく22歳を表している、そんな一年間だった。365日はあっという間なんかじゃなかったし、駆け抜けたような軽やかさはなく、引きずりまわして歩いたような22歳だった。苦しいことと楽しいことは半々くらいで、悲しいことと嬉しいことだと、嬉しいことのほうが少し多かった。目に見えて得られたものから、自分にしか分からないような変化もあった。ハードルはいつも飛び越えられるわけではなく、蹴飛ばして倒したり、くぐって抜けたり、腹が立って壊してしまったりもした。窒素ガスの入った風船を手放したように大切だと思っていた人と縁が切れたり、苦手な人と手を組んで大きなものを創り上げたりもした。課題と呼ぶべきものを見つけられすらしないまま365日を過ごしてしまったような気さえする。

 

だからせめて23歳は、焦って大人になろうとせず、過去のどこかにすがりつくこともなく、目の前のことだけに一所懸命になろうと思う。損得勘定やダサい未来予測などをせずに、今やれることだけをやっていく一年間にしたい。そうやって毎日を過ごすことがわたしに今日を授けてくれた誰かの励みになるのならば、そうやって積み重ねて創り上げたものが誰かの何かに役立てるなら、それ以上のことはない。

ひとりで黙って先を急ぐ旅よりも、そのときどきで色々な誰かと手を繋いだり殴り合ったりしながら歩いていくほうが、きっと遠くまで歩いていける。目的地は見えない。見えないけれど、どこに向かうかより、どうやって向かうかを大切にする一年を過ごそうと思う。

■映画レビュー 「こころに剣士を」

 

去年から映画を観に行くようになったので、せっかくならばレビューを書き残しておきたいと思い今年から始めます。気分によるボリュームの差はご愛嬌です。

 

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「こころに剣士を」

http://kokoronikenshi.jp/

12日 ヒューマントラストシネマ有楽町

 

映画初めということで、2日の夜、初詣を終えた後に東西線と銀座線を乗り継いで観に行った。

 

■ 五感に訴えかけてくる言語、色彩、風景

 恥ずかしながら、この映画を観るまで「エストニア」という国が正確にどの位置にあるのかすら知らなかった。バルト海に面していて、フィンランドの真下。ロシア、ラトビアとくっついている。東欧だと思っていたらフィンランドノルウェーなんかと同じ北欧だった。

 映画を通して一番印象深かったのは、言葉の響きのおもしろさと、アジアでは見られないような、おだやかでやさしい淡い色彩だった。

 エストニア語という言語を初めて聞いたのだけど、最初は息の使い方の独特さからロシア語かと思った。けれどロシア語にしてはモゴモゴしていなくて、ドイツ語のようなきっぱりした感じもありながら、スペイン語のようななめらかさもあり、フランス語のようなやわらかさもある。けれどドイツ語ほど語気は強くないし、スペイン語ほど早口でもなく、フランス語ほど気だるそうな感じもない。ずっと聴いているとマントラのようにも聞こえてきて、おまじないにぴったりの言語だなと思った。エストニア語。

 「おだやかでやさしい淡い色彩」と言ったが、光に溢れているような色使いが多かったというわけではない。むしろ、冷たい冬の雲によどんだ空や、昼間でも薄暗いコーヒーショップ、ほこりっぽい体育館の殺風景さなど、色味のない風景がよく登場する。けれど、晴れた空や昼下がりの窓からときどき差す陽の光に照らされると、北欧独特というべきか、パステルカラーを少し強めたような、濃淡のちょうど中間にある黄色や緑で塗られた体育館の壁や、風に揺れる透き通った白いカーテンがあまりにやさしくきらめくのだ。「何色」と言いがたい色がたくさん出てくるのも楽しい。

 この映画の中で「誰かが何かをいきいきと語る」という場面は非常に少ない。心情の揺れ動きや展開の明暗が、色と光を無造作そうに放り込んだ日常の景色で表現されていて、「言語を介さずに表される言葉」の力をいっそう強く感じた。そうして描かれている風景の多くが―体育館の壁や自室のカーテンなど―ありふれた日々のワンシーンであるからこそ、余計にぐっとくる。たとえるなら、夏休みにおばあちゃんの家に遊びに行って、いつも見ているはずなのに見えるもの全てから「夏休み」を感じてわくわくうずうずした人は、この感覚にどっぷりとハマれると思う。

 

■ 言葉で語られないメッセージ

 正直なところ、この映画が押し出している「勇気の先に未来がある」というメインメッセージは、物語からはあまり感じ取れなかった。話の構造はとても単純だし、展開も予想がつく。けれど、「歴史的、社会的な事情から、人びとが自由に生きられない」「家族をいとも簡単に失ってしまう恐ろしさ、悲しさに日々苛まれている」という要素が加えられていることで、「それでも未来を信じて生きていきたい」という思いの強さが刺さるように染みてくる。けれど作中では一言も「未来を信じて生きていきたい」なんてポジティブな言葉は出てこないし、誰もそんなことを語らない。

 この映画の好きなところのひとつに、激しい感情表現がほとんど出てこない、というのがある。大切な家族を目の前で奪われても、フェンシングを始められることになっても、誰かが大泣きしたり飛び上がって大喜びしたりすることがない。出来事に対して感じることの多さや、その思いの強さゆえに、眼差しや表情のわずかな変化だけでそのときどきの「感じているもの」の全てが表されている。その淡々とした様子から、「これはもしかして、この人にとって想像以上に意味深い出来事なのかもしれない」と思えたりもして、それがとてもリアルで、かえって自分の感情に共鳴した。

 

■ 子役の作る余白

 感情表現が少ないというのは、「余白」がたくさんある、とも言い換えられる。観る側が好きに想像できる余白。大人ならばなんとなく「ああ」と分かるかもしれないけれど、目を見張ったのはメインの子役2人がそれをとてもナチュラルに表現できているところだった。「嬉しい」を「やった!」と飛び上がらない。「悲しい」を「どうして」と泣き叫ばない。表情をほとんど変えない。無愛想に近い。それが余計に観る側の気持ちをぐしゃぐしゃと掻き立てて、わたしの気持ちのほうが前のめりになる。大人が作る余白は「含みがあるんだな」と感じるくらいだけれど、子どもの作る余白は、居ても立ってもいられなくなるようなもどかしさがある。日々の生活でふつうに笑ったり悲しんだりしながらも、ふとした拍子に「自分がいま感じているこの感情は本物なのかな」とか「笑ったり怒ったりしている自分を見ているもうひとりの自分がいる気がする」と感じるひとはハッとさせられるのではないかと思う。

隠さないようにかたすこと

 

 

― だまし絵のような部屋に住んでいた。

 

わたしの部屋は、2階建ての実家の1階。北側で日は当たらないけれど、東と西に大きな窓があって、風がよく通る。広さは10畳。実家で10畳の部屋をもらっていると言うとたいてい羨ましがられるが、1階の北側なので、冬の朝晩などはのたうち回るほど寒い。

 

10畳もの広さがありながら、わたしの部屋はどことなく狭かった。登山道具や大量の辞書と文学全集、カメラとレンズなど、趣味の道具にかさばるものが多いというのもあるが、なんというか、部屋に奥行きがない。ゴミ屋敷ではないし、足の踏み場ももちろんある。インテリアのような上級人間概念は全く無いが、好きなアーティストのポスターやライブグッズなどはそれなりに飾られているし、何かを床に放置していたりもしない。なのに、空間全体になんだか隙間がなく、散らかっていないのに雑然としている印象がある。

広いのに、狭い。違和感をはらんでいる。それがわたしの部屋だった。

 

 

12月31日。紅白歌合戦椎名林檎を観て、「東京事変の再来だ!」「Ayabambiはもはや東京事変のメンバーだったのでは!?」とひとりでおおいに興奮し、部屋におりたときのことである。

東側の窓の横に貼った林檎ちゃんの大きなポスターと目が合った。

その瞬間、なぜか天啓のように林檎ちゃんの声が頭に響いた。

 

「この部屋、このままでいいの?」

 

斯くして、部屋の大掃除を始めることにした。年を越すまで残り4時間半だった。

 

 

― 隠さないようにかたすこと

 

紅白歌合戦そっちのけで(でも宇多田ヒカルだけはばっちり観た。感動に打ちのめされてテレビの前から20分くらい動けなかった)、一心不乱に片付けを始めた。まずは部屋のなかの片付けやすそうなところにゴミ袋を持っていき、モノを手にとる。手にとったモノを「いまの自分はこれを手にして楽しい気持ちになるかどうか → YES or NO」という判断基準のみで判断し、NOは全てゴミ袋に突っ込んだ。

それまでの自分の片付けは「この先も使えそうか」「大切な思い出かどうか」という軸に寄っていた。しかし、この先「使えて」も、今後「使いたい」と思えるとは限らない。本当に大切な思い出はモノをとっておかなくても、既に自分の血肉になっている(はずだから)から別にいい。非物質主義バンザイ。諸行は無常である。2017年、物質の次元を跳躍せよ。というわけで、思い出の品もほとんど捨てた。クローゼット、床下収納、本棚、カバン掛け、机の中。片付け大魔神は、蛇行する列車のごとく進んでいく。

 

2017年1月1日0時0分。年が明けた。2017年がきた。2階にあるテレビから除夜の鐘が聞こえる。大掃除は終わらない。部屋は足の踏み場どころか、寝る場所すらなくなっていた。しかし手は止まらない。何を目指しているのか分からないまま、夜は更けて、モノが増殖していく。

  

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どこから出てくるのかと言いたくなるほどの物量

 

 

1月2日。終わりが見えない。初売りで調子に乗ってユニクロのパンツを6枚も買ってもらった。「パンツはたたんで小さくできるのでノーカン」というマイルールを急遽設け、気分的に事なきを得る。しかし本当に得たのはMサイズのパンツ6枚である。

  

1月3日。手を動かしながら、少しずつ分かってきたことがあった。

わたしは今まで、「片付けること」を「隠すこと」と勘違いしていた。中途半端に高機能な置き時計。直感でなんとなく操作している加湿器の取扱説明書。体育祭のことを書いた作文が載せられた高校のときの学級通信。受験期に積み上げたノート。旅行のおみやげにもらったマスコット。数年前に行ったディズニーシーで買ったシェリーメイのぬいぐるみポーチ。「かがり縫い、まつり縫いのやり方」が書いてある家庭科のプリント。部屋着としては全然着られるけど、その格好で近所の人には会いたくないトレーナー。

うまいこと、隠していたのだ。クローゼットの陰に。カバン掛けの枝に。本棚の奥に。棚の上に。「思い出」「いつか役立つ」とシールを貼ったけれど、正直邪魔だから、隠していた。本当に「いつか役立つ」ならば、それがいつなのか、どのくらいの確率で「いつか」は来そうなのか、取っておくとどう役立つのか、そこまでを想定しなくては「いつか役立つ」と言えないのだなと思った。

今までを振り返ったときに、何かが「役立つ」というのは「思いがけない」とセットであった気がする。あれが必要だけど手元にない。買いに行く時間もない。ん、待てよ、確かあのとき使ったアレ、これに使えるのでは?と思い至って、思いがけないものが思いがけないところに役立った、みたいな。だから、今の時点で「本当にいつか役立つもの」というのは、「使うとき、場所、用途が決まりきっていて、かつ、必ず使う予定があるもの」であって、ゴミにするか取っておくべきかと人を悩ませるものは、たいていの場合「使いどきやシーンが明確に思い描けないもの」なのだ。捨てよう。「そのとき」の自分がどうにかするはずだ。

 

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 1月3日の観測 少しずつ終わりが見え始める

 

 

 

― 「要らないもの」は「使わないもの」じゃない

 

わたしは、隠すのがうまかった。「週1で使うもの」が収納されているボックスの中にゴミを隠し、全部を大切にしている気になるのがうまかった。

 

最初は、ゴミじゃなかったのだ。

小学生の頃、毎日かぶっていたキャスケット。当時、「ちゃお」のとある漫画キャラクターがキャスケットをかぶっていたのに影響されて、お母さんにねだって買ってもらった。気に入って、毎日どこへ行くにもかぶっていたけれど、頭のサイズが次第に合わなくなった。でもデザインは悪くないし、少し無理をすればまだ入るから、カバン掛けの一番上に掛けておいた。

月日が経っても、そのキャスケットにふたたび頭を収めることはなかった。あれをかぶっていたときに感じた、ちょっとおしゃれなおねえさんになったような気持ち。あれをかぶりはじめたのをきっかけに帽子が似合うのが分かって、帽子が好きになったこと。お母さんが仕事で忙しい合間を縫って探してきてくれたこと。全部大切な思い出だった。だから、「でも、もう今はかぶらない」キャスケットを置いておくことに、意味はあると思いこんでいた。

 

だけど、もういらない。使わない。

 

ゴミというと聞こえが悪いが、ゴミとはいわば不必要なモノだ。不必要とはそれを使うか使わないの話ではなく、「いまはもう要らない」と思うかどうかで決まる。では何を基準にそう思えるようになるのか。それが2017年のわたしにとっては、「いま楽しい気持ちになれるかどうか」だった。

 

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1月4日の観測 人間が暮らす部屋らしさが増した

 

 

 

― アップデートに物理的空間を寄せていく

 

ありきたりな言い方かもしれないけれど、大切だと思うものや人、価値観なんかは、けっこう頻繁にアップデートされている。一年前の自分が大切だと思っていたものを思い浮かべてみようとしても案外思い出せないし、いまの自分が変わらずに大切だと思っているものは、「どう大切にするか」というやり方の部分が変わっていることも多い。誠実さとか努力とか、抽象的な概念であればスペースをとらないけれど(でも心の容量は確実に食われているので、いまの自分に不必要な概念はどんどん捨てていったほうが楽だ)、いかんせん思い出の品は部屋の容量を物理的に食っていく。アップデートは気づかないうちに終わっていることのほうが多いので、それにあわせて数ヶ月に一度は部屋のなかのモノを見直したほうが良いのだなと思った。古い皮膚が自然と剥がれるように、「もう必要ではないもの」は、きっと毎日少しずつ増えている。そしてわたしたちは選ぶことができる。見逃して隠すか、捨てるか。

 

「隠さないようにかたすこと」。これはここ数年のわたしの人生において得られた発見のなかで、けっこう大きかった。

 「隠さない」とは具体的にどうするかというと、

 

・部屋の中に「隠しやすい陰」をそもそも作らない。隠しやすい陰には何も置かない

・部屋のすべてのものが見渡せる範囲にあること

・見渡せない場所(引き出しとかタンスの中)は、「週一で使うもの」しか置かない

・水着、湯たんぽなど季節によって使う頻度が異なるものは、立てて収納する→ 一目でそれが何であるかが分かるようにしておく

・社会的に必要そうな思い出(卒業証書とか)と、ぜったいに捨てられないもの(おじいちゃんの形見とか)だけは「両腕に収まるだけ」というルールのもと収納する

・借りたままになっているものはきちんと返す

・壊れてしまったものは「即修理」か「即ゴミ袋」のどちらかにする

・手紙や写真は吟味して、それぞれ一冊ずつアルバムを作る

 

「隠さない」は案外難しい。「いつか使うかも(でも本当に使うの?)」や「けっこう大切だったし(もういいんじゃない?)」と判断を迫られても、結局それは未来か過去の自分が判断すべき話であって、いまの自分が自信を持って判断できることはなかなか少ない。だからこそ、「いまこれで楽しめるかどうか」という基準だけでモノを捨て始めたのは、思い返せばけっこうナイスな判断だった。

 

年の瀬手前辺りから少し身体を壊したりして、ずるずると精神も崩れて、人間関係の破綻も起こったりして、「今日一日を生きるのにせいいっぱい」「朝7時に目を覚ましただけでえらい」「大学に行くための電車に乗れただけですごくえらい」「延滞せずに本を返した。めちゃくちゃえらい」「呼吸し忘れなかった。ファビュラス」「グッド・ルッキング・ガイ!!!」とえっちらおっちらしているうちに、「今日一日をどうするか」がとても大切になった。それまでそんなことを思いもしなかったのに。起床した瞬間、本日の手持ちカードがどんなにダメでも、どれだけ上機嫌に一日を過ごせるか。それだけが関心のすべてになった時期があった。だから今回の大掃除もとい片付けは「いま」を基準に為せたのだと思う。アップデートだ。そして気持ちのアップデートに物理的空間を寄せるように行動できたのも人間力のアップデート。我ながら御見事である。

 

 

 

2017年、悪くないスタートです。みなさまも幸いの多い一年をお過ごしください。

 

 

「若者よ、選挙に行こう」なんて無責任な煽り方しないでほしい

 

 

先に申し上げておくが、わたしはこれからもこの先も、支持不支持を含め特定の政治家や党に対する私的な見解をインターネット上で表すことは決してないし、個々の思想やポリシーについて言及することも決してない。もちろんネット上の論争に関わる気も全くない。

この記事はあくまでも、「政治」というひとつのトピックと、若者と呼ばれる人びとの関係性について私見を述べたものだ。そのことだけご留意いただきたい。

 

 

さて、公職選挙法が改正されて選挙権が18歳から与えられるようになったこともあり、最近街中でやたらと「投票に行こう」「選挙に行こう」というポスターを見かけるようになった。ポスターの背景には女子高生や若い女性の写真が使われ、いわゆる「若者」と呼ばれるわたしたち20代に投票へ行くことを訴えかけてくる。また、昨今のデモやインターネット上での情報発信などを概観しても、若者に対して「選挙に行こう」と訴える熱気には凄まじいものがある。

 

 

今朝、非常に衝撃的な体験をした。

 

わたしには3つ歳の離れた20歳の妹がいる。彼女はとても普通の大学生だ。頭が悪いわけでもなく、情報感度はそれなりに高くて、SNSを使いこなし、「流行りもの」にはそこそこ敏感だ。特に政治や経済といったトピックに深い関心を寄せることもなく、日々はバイトや彼氏、サークルの飲み会、ファッション、大学の課題なんかに埋め尽くされている。

 

そんな妹が、明日の参議院選挙を控え、こんなことをポロッと言った。

 

 

xx党に投票したら徴兵されて戦争になるかもしれないんでしょ?友だちが言ってた!怖いからあたし絶対そこに投票しない」

 

 

あまりの突然の発言にびっくりしてしまい、思わず

 

xx党に投票したらどうして戦争が起こるかもしれないって思うの?」

 

と訊いたら

 

「えっ、分かんないけど、徴兵?とかがあるってなんか言われてるし、兵隊に行くってことは戦争に備えるってことなんじゃないの…?友達も皆そう言ってたよ。ツイッターとかでもなんか若い政治家の人とかがすごい盛り上がってて、同じようなこと言ってる人もいたりしたし…」

 

「じゃあ、少し質問を変えるけど、そのxx党が与党になったら具体的に日本の政治がどういう方向に変わるか、考えたことある?」

 

「……?」

 

という感じであった。

 

 

正直、この出来事は本当に衝撃的だった。その党や政治家の政策や見解がどうこう、という話ではなく、標準的な「若者」と呼ばれる彼女のリテラシーの在り方に衝撃を受けたのだ。

 

もちろん、妹が政治というテーマに関してこれまで疎すぎたのは間違いない。しかし彼女とのやり取りを通し、「一般的な若者」のリテラシーのリアルな在り方を文字通り肌で感じたように思えたのだ。パワーワードやインパク(たとえば戦争になるだとか)に感化されやすく、煽られやすく、駅前で声を枯らして正義を主張する政治家の熱弁より「同じクラスのナントカちゃんの話」のほうが信じられる。一言で言えば、リテラシーが弱い(それなりに知識や考える力がある中間層であるにも関わらずリテラシーが弱い若者を、仮にふわふわ系と呼ぼう)。しかしリテラシーが弱いのは彼らばかりが責められる話ではなく、玉石混淆から自分が正しいと感じる選択肢を選ぶ力を養う機会や、そもそも抽象的な概念についての判断を下す、情報を取捨選択するという発想を教育課程でほとんど与えられなかったことにも一因はある。

 

 

歳が近い2025歳程度のわたしの友人たちのなかには、政治に強い関心を抱いて積極的に運動などにも参加している人が何人かいる。彼らのほとんどは非常に情報リテラシーが高く、支持政党や国政に対して一定の理解を得た上で政治活動に参加したり、意見を表明したり、ネット上で特定の政治家を応援していたりする。わたし自身は政治に然程関心はなく、選挙が近づくと各政党のポリシーと国内情勢を見比べて2,3日投票先を悩む程度である。また学部柄、政治に対して関心を寄せながらも中立的な立ち位置から言及し、情報は取捨選択すべしと学生に常々言い聞かせる教授が多い。自分が偏っている自覚は特にないし、学部を通して情報を正しく見極めて取捨選択する力や感度もそれなりに培ってきたと思う。

 

そんな環境に5年間身を置いていることもあり、あたかも自分の世代の多くが政治についてそれなりの関心を持って正しい情報を探しだし、自分の頭である程度考えて選ぶ力を持っていて当然だと無意識のうちに思い込んでいた。

だから、妹の発言は非常に衝撃的だったのだ。「友だちに聞いた」「徴兵制になると戦争に行くかもしれない」という頼りなさ、論理の不明瞭さに対して違和感を抱くこともなく、その曖昧さで「まつりごと」に参加することに対する自覚もない。しかし、この在り方こそがきっと「これまで政治に深い関心を寄せることのなかった若者」の標準的な在り方のひとつなのだと思う。

 

 

大人たちが呼びかける「若者」のなかには、それなりの数、彼女のように「疑うこと無く簡単にアジテートされてしまいがちなふわふわ系」がいる。しかし、政治に参加せよと呼びかける大人たちの多くは、そのことをほとんど知らない、というより、想定していないのではないだろうか。自分たちの発する言葉に対し「それを受け取る側の若者にも自分と同程度のリテラシーがあるだろう」と無意識のうちに思い込んでいるはずだ。人は「自分ができること」を「他人がどれくらいできないか」について、かなしいくらい分からない。

 

ここでやっと本記事のタイトルに触れられる。

 

妹との一連のやり取りを通して、ふわふわ系の若者に必要なのは、「選挙に行こう!」という投票を目的とした呼びかけではなく、「まずは政治をきちんと学ぼう」「学んだ上で自分にとって重要であると感じる論点を考え、投票に行こう」という二種類の啓発と「正しい情報の提供と、適切な取捨選択の方法を早急に身につけさせること」であるということを強く感じた。

更に付け加えれば、後者を積極的に行っていくことで、政治はより万人にひらかれたテーマになる。

 

 

若者が政治に関わりたがらない理由のひとつとして、政治という言語の閉鎖性が考えられる。閉じている、というのは「特定の人びとに向けてしか発信されない」ということだ。先も言及したように、教養人や政治家の多くは、受け手のリテラシーの程度についてあまり関心がないように感じる。そして頭がいいからこそ、「分からない人びとは何を分かっていないのか」について理解することが難しい。

最近では政党のマッチングサイト(http://nihonseiji.com/votematches/1) なども作られ、以前よりはずっと多くの人びとにひろく政党ごとのポリシーや方向性が知られるようになった。しかし、リテラシーの身につけ方を含め、まだまだこれだけでは全然足りないように思う。この国において政治や経済を動かすのは人口の大多数を占める中間層の人びとである。今後その中間層となってゆく若者たちに対し、政治をよりひらく仕組みを作っていくこと。そしてわたしたちが早急に無知を自覚すること。これこそが今最も求められる姿勢なのではないかと思う。

 

 

今後もきっと数十年にわたり「若者も選挙に行こう!」「若者も政治に関心を持とう!」という動きが活発化していくだろう。しかし、そんな無責任な煽り方をすべきではないのではないかと思う。「選挙に行こう!」と煽られたふわふわ系は、「とりあえず実現したら嫌なこと(たとえば戦争とか、消費税がすぐにぐっと上がるとか)」を避けるだとか、「完璧に実現したら最高に住みやすい国になりそうこと」を公約に掲げる政党に「おっ、なんか良さそうじゃん」というノリで投票をするという行動が予想される。またふわふわ系はなんやかんやそれなり勉強をしてきた人が多いため、「消費税には逆進性があって~」などと言われると、「高校の政治経済の授業で聞いたことある!確かにその通りだ!」と、中途半端な理解で安易な結論に達しやすい。消費税が既にすべて社会保障費に廻されているということや、社会保障費は中間層の時間的な所得移転に過ぎず、言ってしまえば「中間層を守るために未然に中間層の貧困を防ぐ仕組みになっている」ということを知っている人びとは、一体どのくらいいるのだろうか。

 

死票を作るべきではないから」「友達もみんな行っているから」と、夏フェスに行くのと同じようなノリで安易に投票に行くのは危険である。投票に行くことだけを目的化してしまうのが危険なのだ。ふわふわ系がパワーワードに煽られて投票に行き、政治を動かしているという自覚がないまま大人になっていく。これほど恐ろしい光景があるだろうか。

 

 

もちろんわたしたち若者が自発的にリテラシーを身につけることは何よりも重要だ。その上で政治に参加することも、ベクトルは違うが、同じくらいに意味のあることであると思う。せっかく今、多くの人びとが「政治に参加しよう」「選挙に行こう」という流れを作り出すことに成功し始めているのであれば、さきも述べたように、政治というものを中立的によりひらかれたものにしていくことこそが喫緊である。ひらく、というのはひとつのフレンドリーなコミュニケーションの形であり、このことは政治にかぎらず全ての物事において、「先導する人びと」の使命であるようにわたしは思う。

「風が吹けば桶屋が儲かる」には宇宙がある

 

予備校で小論文の講師を2年ほど続けているなかで、必ず生徒に投げかける質問がある。

 

風が吹けば桶屋が儲かるっていうことわざ、あれさ、どうして風が吹くと桶屋が儲かるか、知ってる?」

 

ほとんどの受験生はこのことわざを知っているし、これを読んでくださっている皆さまもきっと耳にしたことがあるでしょう。

 

2年間で15名以上の生徒をみてきたが、「風が吹くとなぜ桶屋が儲かるのか」を知っている生徒は、今までひとりもいなかった。

この質問をしてしばらく回答が出てこないとき、「分からなかったら想像でいいよ」と言うと、生徒たちは大真面目に大変おもしろい回答をしてくれる。今までの答えで一番のお気に入りは、「ねこが…どこかに…出てきた気がする…」と言う高校3年生の女の子に「そう!ねこ!ねこ出てくるよ!」とヒントを出したところ、「風が吹くと、ねこが寒がって家中の桶に隠れてしまい、桶が全部埋まってしまうので、みんなが桶屋に買いに行って、儲かる」というものだった。「(あなたの想像力がいとおしい…)」となった。

 

 

正解は後ほど発表するとして、この「猫が桶に隠れる彼女」の説明はある意味で正しい。一見「そんなのありかよ」と思うが、ここに論理的な破綻はひとつもない。小論文の性質として、「どんなに突飛な発想に見えても、そこに矛盾や綻びのない構造のある文章は正しく美しい」というのがあると思う。この価値基準はけっこう好きだ。それが人を傷つけるかもしれないだとか、絶対悪だとか、普通はありえないとか、そういう人間の感情や色眼鏡を一切抜きにして、「論として正しいステップ」が示されている文章は興味深い。どんなマッドサイエンティストが書いた世界破壊計画でも、そこに矛盾のない、あるいは矛盾を包含しつつもその不完全性にきちんと対処がなされている文章ならば、読んでみたいと思う。正しいステップを踏んだ論理がある種の真実を言い表している様子は、たとえそれが多少辛辣であってもうつくしいと思う。

 

 

話がそれてしまった。今回したいのは、「風が吹けば桶屋が儲かる」ということわざから、「問いのたて方」が学べるという話だ。

 

 

「自分の意見」とは何か。わたしは長いことこの問いに苦しめられてきた。「自分の意見を書きなさい」と小学校、中学校、高校の授業で言われるたびに、「意見って何…」と呆然としていた。

確かに、ある提示されたトピックについて思うところはある。しかしそれはなかなかうまく言葉になってくれなかった。「スカートを短くすることを禁止する校則の是非」というトピックについて「別に個々人の自由だし短くしてもいいんじゃないかな…」と思っても、「個々人の自由なので禁止しなくていいと思います」という一文を紙に書きつけてみると、なんとも味気ない。言いたいことのはずなのに、言いたいことの大事なところが言えていないような気がする。何か、もっと言わなくてはならないことがあるような、けれど見えないのでそれは「ない」のかもしれない、と勘違いしているような。

 

気持ちは空気に似ている。目に見えないのに、あるのだ。

 

そんな思いを抱えていたとき、わたしは初めて「風が吹けば桶屋が儲かる」ということわざに出会った。確か高校2年生の頃だった。これを初めて目にしたときの興奮と感動は今でも覚えている。初出では桶が箱になっていて少し違うのだが、江戸時代の世間学者気質という浮世草子のなかで、このことわざは初めて世に出た。

 

「風が吹くと砂が舞い、目に砂が入る。目に砂が入ると失明する人が増え、失明した人びとは、三味線を弾いて生計を立てるようになる。三味線には猫の皮が使われているため、三味線がよく売れるようになると猫が減る。猫が減るとねずみが増える。ねずみは桶をかじるので、桶屋が儲かる」

 

 

すごい。すごすぎる。

当時16歳だったわたしは、「風が吹けば桶屋が儲かる」に宇宙を見た。

 

あまりにも突飛すぎる発想。しかし完璧な論理展開。目に砂が入ったごときで失明するわけがない、などというツッコミを入れる隙もなく、わたしはこの論の完璧な道筋のうつくしさに眩暈を覚えた。面白いのは論理展開の完全性だけではない。「風が吹く」と「桶屋が儲かる」は、その突飛さが相まって見えづらいのだが、まったく矛盾しないのだ。2つの事象は同時に存在が可能で、そして一見関係がないのに、つながりがある。宇宙だ。すごい。

 

 

その感動から6年を経た今、わたしが生徒たちに「風が吹けば桶屋が儲かる」問答をするのには2つの理由があり、これは先の問い「自分の意見とは何か」に対する答えでもある。

 

風が吹けば桶屋が儲かる」という言葉を聞けば、誰でも必ずこういう問いを返せる。

 

「どうして桶屋が儲かるのか?」

 

「どうして」は、テーマに対する問題提起にうってつけである。どんなに熟練した研究者も、文字を知らない幼稚園生も、「どうして」という小さな穴を問いにあければ、そこから様々な世界が広がっていく。そしてその問いに対して、もっとも確からしい答えを探し当て、そこに至るまでの道筋を示すこと。それこそが「自分の意見」なのだ。ゆえに、「自分の意見を述べよ」と問われたら、まずは「どうして」から始め、解に至るまでの道筋を矛盾なく示せれば良い。そうすれば、風と桶屋ですら繋がることができる。

もし道筋に矛盾が生じても、焦ったり諦めたりする必要はない。文章のいいところは、それまでの道筋のなかに必ず答えの手がかりが落ちているところだ。「何か説明がつながらない」「うまく説明できていない気がする」と感じるときは、それまで書いた文章のどこかに綻びがあるか、なにかしらの「見えない前提」をすっ飛ばしている。特に後者のような「ないもの」は、たとえば価値観や常識や感情だったりして、目で直接見ることは難しい。しかし文章という形を通せば、「ないものがある」ということに気づくことはできる。この勘ばかりは量を読んで書いて磨いていくしかないのだが、文章は読めば読むだけ、書けば書くだけ絶対に失われず蓄積されていくので、ひたすら続けていけば必ずできるようになる。

 

更に加えたいのは「どうやったら桶屋はもっと儲かるのか」という視点である。これはサイエンス寄りの視点であるが、「どうして」という問いに慣れたら、ぜひ「どうやって」を考えてみてほしい。「どうやって」は文脈に依ってはワンランク上の問いとなる。善悪の価値基準が入り込む場合があるからだ。この「どうやって」の問い方については、長くなるため、後日また機を見て書いてみようと思う。

 

 

16歳の当時、それなりに思春期を迎えていたわたしは、「どうして?」と訊いたときに「それはそういうものだから」「みんながそう言っているから」という答えを返されるのが苦手だった。「それ」ができた理由を聞いてるんじゃん、みんなって誰よ、と思っていた。だからこそ、「風が吹けば桶屋が儲かる」はひとつの救済であった。答えが見つからず息の詰まりそうな日々の中、このことわざはたった11文字で、「納得とはこういうことなのか」ということを教えてくれた。

 

問いをたてる営みは、年齢を重ねるごとに忘れられがちになる。研究者はもちろん問いをたて続けなければならないが、そうではない人びとが日常の生活においての疑問や違和感に対して問いをたてると、けっこうよく傷つくし、考えても答えがないように思われがちだ。そして実際、「それはそういうものだから」で済ませてしまったほうがコストもかからず傷つきもしない。代わりに魂の柔らかい部分がゆるやかに壊死していくような心地がする。

わたしは、恐れることなく問いをたてつづけていたい。歳を重ねて、「あまり傷つかない、けれども有益な問いのたて方」も少し分かるようになってきた。問いをたてることは、自分の存在の輪郭をなぞる行為である。自分が何をどう考えていて、何を良しとしていて、何を悪いとしていて、何を常識だと考えているのか。そういった基準すら、実は主観と環境による思い込みのコレクションに過ぎないが、これらを自覚するだけでも、他人とのコミュニケーションや問題解決が格段に楽になる。答えが見つからないときは、風が吹けば桶屋が儲かることを思い出してほしい。正論がいつだって正しいわけじゃない、正しいことを言えばいいってもんじゃない、と、正しさはたいてい隅に追いやられがちだが、混沌のなかにも必ず救いのある正しさがあるということは、忘れず心に留めておきたい。

 

 

 

虹色の魚

 

 

その昔、母がわたしに国立の小学校を受験させようとしていたことがあった。

 

もう17年も前のことだけれど、受験のことも含め、今でもその当時のことを鮮やかに覚えている。お隣の社宅棟に住んでいたナオくんと近所のくもん教室に毎週通っていた。くもん教室は広い社宅の棟を抜けた、家から歩いて15分程度のところにあって、ナオくんと並んで小さな動物たちの物語を読んでいた。

 

ある日、母が少しよそ行きの格好をして、わたしを連れて電車に乗った。わたしも、いつもの泥まみれの短パンとTシャツではなく、少し可愛いワンピースを着させてもらった。

電車に乗ってどれくらい経ったか、駅前に丸い噴水のある、そんなに大きくない駅に着いた。噴水の周りには鳩がたくさんいて、建物はすべてジャングルの木のようだった。

 

少し歩いて、階段を登った気がする。明るい感じの部屋の中に、同じくらいの年齢の子たちがたくさんいた。

その頃からわたしは、自分と同い年の見ず知らずの人たちの群れに放り込まれると緊張して体がこわばってしまう癖がある。周りの子たちは打ち解けて騒いでいるのに、わたしはひとり前を向いて、感じの良さそうなニコニコした女の人が立っているのを黙ってじっと見ていた。

 

(あの人はきっと先生)

 

(りょうまくんのママに少し似てる)

 

そこはきっと、同じように国立の小学校を受験する子たちが集まる模擬試験会場だったのだと思う。正確なことは今でも分からない。ニコニコした女の先生がわたしたちにおもしろい形をした積み木ブロックや短い棒、丸がたくさん書かれた紙なんかを渡して、色々なことをさせた。ブロックを3つ使ってこの形を作ってみましょう。右に置いた棒と左に置いた棒、多いほうと少ないほうはいくつ違いますか?この3つのつながった丸に線を2本書き足して、おだんごが串に刺さっているところを書いてみましょう。

 

最後に、一枚の魚の絵が配られた。魚は真っ白だった。

先生は言った。

 

「このお魚に色を塗ってみましょう。みんなが好きなように塗っていいんですよ」

 

そのとき、わたしは少し困ってしまった。その頃の自分は、「好きなようにしていい」という言葉が何より嫌いだった。怒った母がよく使う言葉で、見放されているように感じるからだ。「好きにすれば」と言われてしまうと、どうやって相手の怒りをおさめるか、というのがわたしにとってのすべてになってしまうのだ。

 

(好きなように、っていうことは、ふつうの青や黒っぽい色にお魚を塗ってはいけないのかもしれない。ふつうすぎて怒られるかもしれない。好きなように、って言われても、わたしはマグロが大好きで、マグロの色は、赤。でも、赤いお魚なんて見たことない。でも、好きなように塗っていいなら、いいのかもしれない。あ、でも、隣の子が全部赤に塗っている!同じ色で塗ったら、怒られるのかな。好きな色なんて、お魚の好きな色なんて、みんな、あるのかな)

 

 

そう思ってわたしは、魚を虹色に塗った。ピンクや水色や黄色をはしっこから丁寧に、丁寧に塗った。

全員が塗り終わったあと、みんなの絵を先生が前に貼った。みんな青や黒、赤、水色など一色で塗られた魚の群れのなか、虹色の魚だけが目立っていた。楽しそうな虹色。

うしろでたくさんの母親たちがそれを眺めていた。そのとき母を振り返らなかったけれど、どんな顔をしていたんだろう。

 

 

「皆さん、綺麗に塗れましたね。このお魚は特にきれいですね」

 

と先生は言って、何か単色で塗られた一枚の魚を指さした。

 

「色を塗るときはこのように、縁をきれいになぞってからクレヨンにあまり力をかけないで塗るようにしましょうね。みんなが受けるテストでは、そうやって綺麗に塗れることが一番大事なのです」

 

わたしの虹色の魚は、縁から散々に水色や黄色がはみ出ていて、遠くから見ると小さな爆発を起こしているようだった。

 

単色の魚の群れのなか、虹色の爆発を、恥ずかしいとも、特別すごいとも思わなかった。ただわたしは、先生が怒らなかったのでほっとしていた。虹色の魚は返してもらえなかった。先生はすべての魚を集めると、どこかへそれを持っていってしまって、それっきりあの魚には会えなかった。

 

帰り道、駅前のパン屋で買ってもらったクロワッサンを食べた。母は電車のなかで黙っていた。家に帰ってから一言、「チカちゃん、お魚はふつう青いよね」と言った。わたしは「分からない」とだけ答えて、お気に入りのクッションを抱いて、くもんの宿題を読んだ。

 

その後、ガラガラと廻す抽選にどうやら外れたらしく、国立の小学校には行かないことになった。試験さえ受けさせてもらえなかった。

わたしは今でもあの虹色の魚を塗ったときのクレヨンの感触も、先生に怒られないかとドキドキしながら隣の子の魚をそっと盗み見たことも、覚えている。クレヨンで綺麗に何かに色が塗れるようになったのは、中学生になってからのことだった。