きみのお祭り

死ぬまで盛り上がっていけ

質問箱に答えたよ_20171214

 

 ツイッターで質問箱というのが流行っていて、匿名で開設者に質問とか相談ができるシステムなんだけど、軽い気持ちで始めたら割とコンスタントに質問がくるのでけっこうびっくりした。それも、なんだか近い色合いの質問が多くて、ひとを大切にすることとか、自分に自信が持てないこととか、みなさんそういうことをさらけ出してくれる。匿名の力ってすごい。みんな素直になれる。もうみんな名前も顔もいっそのことなくしちゃえばいいんじゃないのとすら思う。家族とパートナーと大切な友だちの前だけでいいよ、名前と顔があるのは。

 

予想以上にたくさん質問がきたおかげでさすがにそろそろツイッターに流し続けることがはばかられたので、ここで回答しようと思います。引き続き質問したい方や相談したい方はいつでもどうぞ↓

peing.net

タイミングに任せて好き勝手言います。言わせてくれてありがとうございます。

一応ルールとして質問箱は回答が100字以内らしいので、ここでの回答も100字前後に収めます。

 

 

 

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いろいろあるけど、突き詰めると生活がしたかった。せっかく人間に生まれたので、働いてひとと関わってお金を稼いでご飯を食べるという文明をやってみたくなったから。

 

 

 

 

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遠くにいるからこそできる愛し方を楽しんでください。生きている方なら、季節や土地の香りを込めた手紙をときどき送ればいい。亡くなっている方なら、毎日空を眺めて祈ればいい。祈っているあいだ、太陽も雲も月も星も、あなたたちだけのものです。触れ合うだけが愛ではない。

 

 

 

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たくさんの人のなかで大活躍して、たくさんの人に必要とされたいとすごく思ってた。でも無理でした。未来をそれっぽく予想しても何のアテにもならないこと、だから、いまの自分にとって大切なものだけを大切にしなきゃならないことを学ばされた一年だった。

 

 

 

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明日死んだら、「もっと話せばよかった」「友だちになりたいですと言えばよかった」って気持ちでいっぱいで、たぶん成仏できなくなるよ。自分に今日と同じ明日が必ず来ると過信しないほうがいい。こないから。だから、本当に大切なものだけを大切にしてください。お願いだから。

 

 

 

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近ごろ我が家に新入りがやってきた。小柄なアイロン。

さっそく仕事に着ていくシャツに使ってみる。あたたまるのが早く、小回りがきくしデザインも愛らしくていい。でも何より一番気に入ったのは、電源を切ったあと、呼吸するみたいに数秒に一度蒸気をしずかに吐き出すところ。やがて数秒が十数秒になって、数十秒になって、10分くらいしたら完全に静かになった。ベランダの窓から差し込む陽にあてられて数秒ごとに「しゅーっ」とやるアイロンを見ていると、家に犬が一匹増えたような感じがする。

 

アイロンが冷めるのを待つあいだ、ウールの白いセーターを洗う。

セーターの手洗いをするとき、ものすごく傷つきやすい水びたしの神聖な生きものの世話をしているような気持ちになる。流水に当てるとその箇所が伸びてしまう。押し洗いの力加減をわずかにでも間違えるとすぐ縮む。まかり間違えても決して力を加えて絞ってはいけない。とにかくウールのセーターは繊細で傷つきやすく、これだけ気をつけていても一度洗えば洗う前のセーターとはまるで別の服のように風合いが変わる。水を含んで重たく、水滴がひっきりなしに滴るこれをたいへん丁寧に脱水にかけ、供物のようにうやうやしく平干しする。おそらく生活のなかでこんなに気を遣うのは、ウールのセーターを洗って干すときくらいしかない。豆腐を掌のうえで切るときでさえこんなに気は遣わない。

 

こういうある種の「めんどくさいこと」をほんのすこし生活に紛れ込ませておくのはけっこういいことだと思う、ぜんぜん嫌いじゃない。本当はすべてに対してそれなりに丁寧でありたいけれど、あたりまえに毎日が過ぎてくれるので忘れがちになる。ウールのセーターを洗うといつもその日は他の動作までいつもより丁寧になれるので、これからも2週間に一度くらいはやつを手洗いをしたい。

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あたらしく仕事を始めようと思ったときに考えるべきことってほんとうに星の数ほどあって、優先順位を決めるところからしてベリーハードなんですけど、わたしは最初に「最後の最後まで誰を絶対に裏切らないか」から決めようと思います。そこさえ決められれば、何がどんなにどうなってもかならずだいじょうぶな気がする。

 

昨日はなぜかすごく頑張れてしまって、電池が切れて23時前に眠った。重要なのは「頑張れた=最近調子がいい」ではなく「頑張れた=今日は調子が良かった」ということ。そこを取り違えないのはだいじ。とは言えある波のようなものにのれてしまえば、しばらくは「調子がいい」を続けやすくなるかもしれない。しかしそれくらいの慎重さでいないと、ガクッときたとき全部が一気にとまりかねないのでくれぐれも調子に乗らない、だいじ。

 

あとたぶん、わたしは何かの目的のために力が湧いてくる、みたいなことがそんなにないのかもしれない、とわかった。どんなに楽しみにしている予定があっても、それがあるから今日は頑張れた!みたいな経験がそんなにない。むしろその楽しみにしていた予定すらかなわないこともある。しかたない。だから何か外から与えられるものをアテにしてエネルギーを充足するより、自分の生命リズムに忠実にやっていくのがいちばん確実であるように思う。

 

昨日忘年会の話になって、最後に忘念したのいつだっけなと思った。忘念したのでそれごと忘れている。忘年どころか日々忘日という感じなので、お酒を入れたハッピーパーティーより、書いた日記を読み返しながらちょっと良い珈琲を淹れて粛々と一日一日を振り返る会がしたい。

 

未来の旦那に捧ぐ―食らえわたしとの結婚アドバンテージ3選

 

突然ですがわたしの婚活アピールポイントを紹介します。婚活をしているわけではないです。する予定もないです。愛、じゅうぶんに間に合っています。いまさらの自己紹介をちょっと変な角度からやってみようと思い立っただけです。

 

この前あるWeb記事を読んでいたときに、たまたま結婚紹介所か何かのバナー広告がひょいと出てきて、そこに大きく「あなたの婚活アピールポイントを3つ、教えてください」と書かれていました。さらに幅広のバナーはその下に続き、スーツ姿の男性の写真とフォーマルな感じの女性の写真があって、男性のところには「誠実、スポーツ好き、年収700万」、女性のところには「料理が得意、笑顔がステキ、子ども好き」と書かれていました。

 

 

いやいやいやちょっと待てよ、と。

それ「婚活アピールポイント」か?

 

 

だって結婚ですよ、結婚。誠実でスポーツ好きって、結婚にあたってなんでそんな誰でも当てはまりそうなことが大事なんですか。恋愛でいうところの「お話が合う」レベルじゃないですか、そんなのは。

それに年収700万円って、まあ平均値よりは高いのかもしれないけれど、それが一体何を意味するのでしょうか。この先も安定した生活が未来永劫絶対に約束されているのでしょうか。もっといえばその人がいま年収700万円をもらっていたとしても、もし来年会社が倒産したり、何かの理由で突然働けなくなったりしたらどうするのでしょう。大事なのはいまの年収よりもそれを失ったときに立ち上がれる生命力の強さじゃないですか、とか。

女性のほうも然りです。料理なんてほんとうに必要に迫られたら誰だってやらざるを得ないし、笑顔のステキさならわたしもたぶん負けないぞ。すみません、調子に乗るのはやめます。でも、「笑顔のステキさ」って結婚というフィールドで強みにする3つに入れなくてはならないほど大事か?ステキじゃないよりはステキな方が良いけど、でも、だからって、それは結婚を絶対的に支える何かになるのか?「子どもが好き」だから何なんだ。好きだから世話がうまいのか、好きだからたくさん産みたいのか、好きだから、だから、一体、一体何なんだ…………。

 

 

同期と先輩がどんどん結婚していきます。みんなハッピーウェディング。おめでとう。もう「恋愛」を抜け始める頃なんだなあとしみじみ感じます。

最近、「家族」とか「他人と一緒に暮らしていく」という軸で結婚というものを真剣に考える機会が増えました。実家もそろそろ出ます。結婚は愛を育て続けていくことで、落ちるだけの恋とは違う。形のないものを自分以外の人と育てていくって、ものすごいチャレンジだと思います。価値観も背景も全く異なる一人の人とひとつのまったく新たなコミュニティを作る、一緒に生きていく。それはすごくすごく素敵なことである反面、きっと予想しないようなことがたくさん起こるのでしょう。だからこそわたしは、「恋愛」の延長線上で結婚を考えたくはないのです。「誠実、スポーツ好き」なんて言ってる場合じゃないのです。

 

別にわたしは「誠実」とか「笑顔がステキ」を「個性がない」「幼稚だ」と否定しているわけではありません、し、それらをそもそも「個性がない」「幼稚だ」とも思っていません。素晴らしいと思います。しかし「結婚」というフィールドに立ったとき、「構え!用意!」の姿勢をとったとき、一緒にやっていく人に対して誠心誠意本気で差し出せるものがそれで本当にいいのか?というのが疑問なのです。結婚をそんなふうに捉えて良いのかと。結婚っていわば生活そのものじゃないですか。ならば相手と自分の生活そのものに関わることをアピールすべきなのでは、と思いました。

 

 

そこで真剣に考えました。結婚するとき、わたしが本気で相手に差し出せるアピールポイント。これが誠心誠意の差し出せる3つです。くらえ。

 

 

1)足腰、めちゃくちゃ丈夫

 

毎日のランニングと筋トレ、そして山登りとタップダンスが趣味なこともあり、足腰、めちゃくちゃ丈夫です。メンテナンスも欠かしていません。

足腰が丈夫だと良いことがたくさんあります。普段の生活で少しくらいの徒歩移動は何のその、姿勢が良い、運動が好きになれる・続けられる・楽しいと感じられるから健康であり続けやすい、おばあちゃんになってもきっと若々しくいられる、階段を登ったり自転車に乗ったりするのも苦じゃない、趣味の幅が広がるetc

子どもを生むとき、そして生まれてからも「足腰の丈夫さ」はとても重要だと思います。まず遺伝する。そしておそらく腰が弱いよりは強いほうが出産のとき楽な気がします。赤ちゃんを背負って、あるいは抱っこひもで抱っこしながらの日常生活も、足腰が丈夫なほうが絶対に楽なはずです。

 

それからこれは偏見かもしれませんが、個人的には足腰が丈夫だとメンタルも強くなれる気がします。ウオーつらい、よし、走ってひとまず忘れよう!みたいな。そう、フィジカルが強いと、つらいことがあったり精神的に少し揺れがきたりしても「走って忘れよう」「マジでやばくなったら全力疾走でここから逃げ出そう」「わたしは大都会のガゼル!」みたいな切り札の逃げ道がいつも用意されていて、安心感が段違いです。

ここ数年特に実感していますが、フィジカルが強いのは健康なメンタルを保つ上でとてもとても大切です。その基礎である下半身が23歳にしてきちんとできている、というのは、心身両方をパートナーや家族と健全に過ごすために重要なことだと思います。

 

 

2)炭鉱のカナリア力(かなりありょく)が抜群

 

皆さん、「炭鉱のカナリア」という言葉を知っていますか。わたしはこの言葉が大好きです。そしてわたしは炭鉱のカナリアです。

炭鉱で仕事をする人は、カナリアを連れて仕事場に入るのだそうです。なぜかというとカナリアは弱い鳥なので、その炭鉱で毒ガスが発生しそうになると真っ先に鳴き止み、ぐったりして元気がなくなる。「カナリアが鳴き止んだ場所は危ない」というサインになり、人間は危機を免れるわけです。めちゃくちゃ良い話じゃないですか、これ。

 

社会に出て8ヶ月が経ち、前職でも今の職場でも、そして職場だけでなく私生活でも、本当にたくさんの方にいろいろと親切にしていただいているおかげで、毎日なんとか生き延びています。しかし、おそらくわたしはどうも多くの人ととは違う歩調でこの先も歩いていくしかないみたいだな、と最近ひしひし感じています。体や精神がみなさんより弱いというより、適性がないところに関して本当に徹底的に適性がなさすぎるし、それにぬるりと対応できるほど身体が器用にできていないことがよく分かりました。一箇所が鋼鉄より硬いのにその反対側が寄せ豆腐より脆い。たいへん面倒くさい体質で、その分メンテナンスにもコストがかかります。車にしたら燃費はリッター300メートルとかそういうレベルかもしれません。車に生まれなくてよかったな~。

 

そんな感じなので、「あっこれこのままいくとヤバそう」ということに対して、ここ数ヶ月でものすごく敏感になりました。ちょっとした気圧の変化とか、人の密度とか、うるささとか、そういう本当に些細なものなのですが、「これは今の自分にとって過負荷だ」と無意識下でも感じると、自然とそれが表にも出るし自分でも分かるようになりました。だから「本当にヤバい状態」になる前にある程度の対処をとれるようになったし、それを他人に伝えることもできます。そこに合わせて仕事を任せてくれる今の職場や、気遣ってあれこれしてくれるパートナーや励ましてくれる友人たちには本当に頭が上がりません。

「炭鉱のカナリア力が高い」というのは面倒なことが多い反面、「自分の健康」という本当に何にも代えがたいものを守るためのリスクヘッジとしてはかなり重要なのかもしれない、と思います。人間いつも最大瞬間風速でやっていけるわけじゃない、基本は凪で時々飛ばしたり止まったりしながら風車を回していくしかない、というのが痛いほどわかった8ヶ月間だった。社会人の最初の方で気づかせてもらえてほんとうによかった。こうしたリスクヘッジに対して意識の高すぎる身体を持っていれば、少々メンテナンスコストはかかれど、「もうほんとうにウルトラやばい八方どころか六十四方塞がりおまえは10割絶対に死ぬ」みたいなことにはならないんじゃないかなあと思います。四方塞がりくらいでわたしは寝込む、許してください。無理に頑張らないし頑張れない。生活は「速く走る」のではなく、遠くまでずっと歩いていく必要があるから、炭鉱のカナリアのほうが総合的に見るときっと生き延びていきやすいのではないかと思います。

 

 

蛇足ですが、人間はどうして不安になるのか?と思って調べてみたら「太古の時代は危機を事前に常に予測していないとそれが死に直結していたため、その名残で人間は心配性になった」というめちゃくちゃそれっぽい解説を読んで「なるほど~」となった。

 

 

 

3)総合サバイバル力高め

 

総合サバイバル力、高めです。いつも何かをするときは準備に8割の時間をあてますが、それでも起こる不測の事態に対して、その場にあるものだけで解決するのがたぶん他の23歳女子よりも手慣れています。

たとえば山に登ってたりするとそうなんですけど、思いがけずどこかを怪我した(人に遭遇する)とか、登山道が古くてその先の道がよく分からんとか、けっこうあります。そんなとき、だいたいは手持ちのものとか、その場で調達できるものや周りの人々と協力しあって解決します。そういうサバイバル力というか、予期していなかった咄嗟の事態に対していかに対応できるかというのは、生き延びていく上で大切なスキルのひとつではないかなーと勝手に思っています。

あれですね、みんなでキャンプ行って、河原でパパっとその場の石だけ積んでかまどを作る男の子を見たらカッコイイ~!ってなりません?異性とキャンプはおろか、キャンプ行ったことすらないけど。でも、ちっちゃいガスボンベと五徳だけでその場でおいしい珈琲を淹れはじめた山男はかっこよかったんです。10月の涸沢で昔見かけました。60歳くらいのおじいさんだった。かっこよかった。

その日冷蔵庫の中にあるものだけでおいしくご飯を作るのが好きです。めんつゆとか鰹だしうっかり切らしてても、おいしい煮物作ります。名前のある料理は実はそんなに作れません、すみません、練習します。何か困ったことが起こってもあんまり慌てません。一緒に一番よく解決できるよう力を尽くします。その場で何とかする知恵と度胸、それなりに出せます。それがわたしのサバイバル力です。

 

 

 

 

3つ、出揃いました。考え始めてみたらけっこう楽しかった。「自分にとっての自分の良いところ」ではなく「他人と生活する上で自分の良いところ」という視点であらためて自身を振り返ってみると、案外今まで気が付かなかったことに気がつくものだな~と思いました。

最近就活生のESを見るペースが加速していて、「もうそんな季節なんだな〜」と感じます。みなさん色々と強みやアピールポイントなどを書いてくださります。「論理的思考力やリーダーシップも大いに結構だけど、生き延びるためにご飯を食べ忘れないとかも実はめちゃくちゃ大事でっせ」などとアホ暢気なことを思いながら珈琲片手に読ませていただいております。妹も就活の年なのでめちゃくちゃ応援してる。

 

2017年、終わってしまうね。みんな、無事に春を迎えようね。

 

おしまい

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利益を出すためにとかお金を稼ぐためにとか会社を組織として大きくするためにはどうしたらいいか、という一般的な仕事に対する価値観からの大脱却をせざるを得ない状況になった。

これからわたしがしなくてはならないことはすごくシンプルで、自分で自分の仕事を決めてそれをやる、というだけのことなんだけど、「どうやるか」の部分を見直さなくてはならない。自分がいましようとしていることは、個の枠を超えたもっと大きな、クジラよりも砂漠よりも地球よりもずっと大きなもののためになっているのか、ということを問い続けなくてはならなくなる。

 

そういう仕事を続けていくために、満足のいく生活の基盤が必要になってくる。良い椅子を買うことや広い作業台を準備すること、日当たりの良い家に住むことなどはすべて、良い仕事をするために必要なのだ。だから、他人に見せびらかせるほどのお金持ちになりたいとは一ミリたりとも思わないけれど、自分の生活にわだかまりを作らない生活は必要だなと思う。家が狭いとか散らかっているとか、家賃は安いけれど居心地が悪いとか、そういうのは嫌だ。帰ってきたくなる、居つきたくなる家にする必要がある。家で自分の充電するだけでなく、家でやる仕事が多くなるだろうから。そのための生活費を作っていくことも、間接的には「大きなもののための仕事」にものすごく重要なこと。

 

なので、いま自分の仕事は2つ。大きなもののための仕事を考えてトライアンドエラーでやっていくことと、自分が満足の行く暮らしをできるだけのお金を稼ぎ続けること。後者はそんなに難しくはない。けれど前者はたぶん、すごくむずかしい。考えるべきことが多いだけでなく、どれだけ真剣になれるか、自分に嘘がつけなくなるから。

 

 

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突然、数日前から吹雪が始まった。きっとこれは永い。

 

雪原が見える。明るく数十メートル先まで見通せる日もあれば、今日などは50センチ先も見えないような雪風にさらされている。太陽は見えない。鉛色の雲と寒さだけがただあるような。

 

比喩ではない。本当に、これまで持っていた或るもののすべてを失ってしまった。そしてこの吹雪はおそらく、永く続くと思う。思い出せないことすら思い出せなくなってしまうほどに、深雪のしたへと隠れてしまったものたちがあって、それが確かに「あった」ことは分かっても、それが何であったかはもう本当に思い出せない。

 

雪原にあたらしく、城を建てるしかない。そして足跡を残して、地を踏み固めるしかない。きっと孤独な日々になる。けれど、煉瓦を積み上げるのは孤独な作業でも、一緒にそれを運んでくれる人がいる。土を練って煉瓦を焼いてくれる人がいる。それが何よりうれしくて、ありがたい。

城が建てられるだろうことは、予期ではなく、知っている。完成することは、おそらくない。

 

たぶん何を言っているか、これを読んでいる人はさっぱりわからないと思う。わたしもきっと、明日これを読んだらわからないだろうと思う。明日の自分と今日の自分が連続した同じ人間ではないということがいま、痛いくらいによくわかるから。

けれどdiaryと名付けているのだから、別にそれでもいいんじゃないか、とも思う。

 

 

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年に数回、食べ物を一切食べたくなくなる日が唐突にくる。体のなかに水以外の不純物をいれたくない気持ちが。それが今日です。しかし気持ちだけで体は律儀に栄養を欲しがるので、ここのバランスのとり方が非常にむずかしい。なるべくハイファット・ハイカロリーのものを避け、タンパク質と野菜だけで過ごしたりする。しかし食べないので元気があまり出ない、しかし気持ちとしては全然食べたくないので無理に食べようとすると余計元気がなくなる。こういうわけのわからないバグが不定期で起こるけれど、バグありきで身体ができていると思うとなんだか不思議な気持ちになる。ありがたいような、疎ましいような。

 

自分が個と公の両方において大切だと感じていることを、その公のなかで「大切だと思います」と言うのは楽しくもあり、頭を使うことでもある。人を傷つけるような伝え方は論外だし、かといって主張しなさすぎると大切じゃないと思われてあっという間に潰されたりする。だから、そういう話を集団の中の他人にするとき、京都の芸妓になったような気持ちで話す。やさしくたおやかに、けれど押されても譲らないところはやわらかく譲らない。やわらかく譲らない、というスキルはここ最近やっと少しずつ身についてきた。癖になる。今ならどっかの会社の社長に愛人になってくれと言われても、このスキルでなんとかなる気がしている。