きみのお祭り

死ぬまで盛り上がっていけ

不安定歩行の効用

 

外に出たくない。必要最低限以外の刺激がなるべく少ない日々が必要だ、いまは。他人には見えない冬が永い。

 

自信のないときほど、どうしても外に出なくてはならないときはヒールの高い靴を履いて外出する。「気持ちを上向きに」なんていう洒落た理由では全くない。安定の悪い靴を履くと、否が応でもバランスを取るために集中して歩くようになるからだ。頭がぼーっとしたり、ごちゃごちゃした状態が脳を占拠しているときは、とにかくひとつのことに意識を向けるようにしている。わたしの場合、それは歩くことなのだ。普段ハイヒールを履き慣れていないので、とにかく慎重に、ゆっくり歩くようになる。地面に足の裏が接していない不安定感、バランスを取らないとつまずきそうになる緊張感。たぶん、すごく変な顔をしてすごくゆっくり歩いている人だと思う。はたから見たら。

馴染みのない不安定感や緊張感に身体を少しずつ馴染ませながら、地に足をつけられることのありがたみを感じる。裸足が大好きだ。とにかく頭が先走っていろいろなことを考えすぎてしまうときは、こうやって荒療治のように感官の世界をひらくようにする。ほんとうのほんとうに無理の極みにいるときは、それすらできないんだけど。

 

散歩が好きだ。走りに行くのも好き。スポーツが好きなのではなく、外の空気を吸って太陽にあたり、歩いたり走ったりして身体を適度に緩ませるのが好きなのだ。どんなに調子が悪くても、家から5メートル半径しか歩けなくても、1日一度は外に出るようにしている。空気がつめたい。体が冷える。吸い込む外気が喉を刺す。北風の鱗が頬を殴る。そんな単純なことですら「生きているなあ」という感じがする。それをうれしいと思えるところまで、なんとか回復したい。春がくるまでには。

 

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タイ料理は、一見からくなさそうなおしゃれサラダが最もからい。今日の知見です。

 

共同体の中でやっていくとき、特に考えなきゃなと感じるのは「わたしたちの関係性において、いまのベストは何か」ということ。そこには「あなた」と「わたし」の両方が含まれるし、そもそも共同体に「わたし」が含まれていると疑うことなく心の底から思うことができなければ、どうしても自分の利益のことばかりを考えざるを得ない。あるいは、他人に極力嫌われないよう目立たずてきとうにヘラヘラして、内心「あー嫌だ」と思って過ごすしかなかったり。

 

たとえば、虫の居所が悪いひとに対して「ちょっと感じ悪くない?」と一方通行的に言うと、言われた側も嫌な気分だし、言った側も当たられてもっと嫌な気分になる。マイナス1とマイナス1でマイナス2になって、非常によろしくない。多くの場合、コミュニケーションとは「意思の疎通や伝達」と思われがちだけれど、真のコミュニケーションは合意の形成にある。「機嫌が悪いのを全面に押し出すのをやめてほしい。関係ないわたしに当たらないでちょうだい」と「嫌な気持ちだけど関係のないあなたに当たっちゃって申し訳ない気持ちもちょっとある。でもいまは構わないで」という二者それぞれの気持ちに平和な落としどころをつけるのがコミュニケーション、だと思う。

これを円滑にやっていくためには「自分気に入らないんスけど」とか「頼むから問題を起こさないで!」という気持ちを相手にぶつけるのではなく(ましてや「わたしが我慢すれば…」とかは誰もハッピーにならないうえに主従関係に一瞬で自他を閉じ込めるので最悪だなと思う)「どうやったらウチらハッピーになれるわけ?」というギャルのモチベーションで他人とやっていくのが大切なんじゃないかなというのが、23年生きて得たひとつの解。まだ通過点ですので、これから改良が加わったりすると思うけど。

 

今日の風のつめたさはすごかった。でも空が青くて雲がビュンビュン流れていくのを見るのは気持ちいい、冬だけの空という感じがする。明日も良い天気だといいな。

 

 

 

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 したいことをしたいと思っているうちにやる、というのは、今年のひとつの目標。そもそもしたいことをできないときというのは、心身の健康か時間のどちらかを欠いているときであって、それをなんとかしようと格闘しているだけで消耗する。そして年末になって「ああ、これやりたいと思ってたのに結局できなかったなあ」と思うのも、なかなかどうして気持ちに鈍い負荷をかける。冬の朝に布団から出るのと同じで、とりあえずやりはじめてしまえば細々続けるのは苦にならないし、三日坊主でやめてしまったのであれば、それはそもそもしたいことだったのではなく「それをしている自分なんとなくカッコ良さそう」みたいな憧れに過ぎなかったのだと思う。

 

時間が有限で人生も有限だということを、最近あまりにもひしひし感じる。24歳になるまでとうとう残り1ヶ月を切った。師走が文字通りあっという間に走り去ってしまったように、きっと24歳もすぐにやってくる。そしてすぐに去っていく。思えば20代とは掛け値なしで「若い」と言われる年齢であって、実際、若さゆえに許されることがたくさんある。実験室で得体の知れない液体を混ぜ学校ごと爆破したいなら、いましかない気がする。無礼無法をはたらいてよい、という意味ではなく、何かをやらかしても「まあ、若いし」と周囲の大人たちが笑って許してくれやすい。いや、ほんとうは何歳になってもそうやって笑って許されるべきなのだろうけれど、ことのほか20代は「若さ」という非常に曖昧な何かを錦の御旗として掲げても「どうぞどうぞ」と言ってもらえるので、何も気にせず好きなことをしていい気がしてきた。

 

主観から見える世界はすべて思い込みでできている。なので、もう何かに苦しむのいい加減やめたい。やめよう。「世間の目が許してくれない」「家族が許してくれない」のではない、あなたがあなたを許していないだけだ。ほんとうのほんとうにあなたのことを拘束できるのはこの世であなたしかいない。不幸になるために生きているわけじゃない。

 鎌倉時代にみんな還ろう。「なむあみだぶつ」と唱えていればあとはぜーんぶ仏様が一切衆生を救ってくれたのだ。善人も悪人もひとしく救われる。どんなにダメでバカでどうしようもなくても、仏性はすべてをすくいとってくれるのだ。柳宗悦の「美の法門」とか小林秀雄の「無常ということ」読んでみて。やばいな、言いたいことがまとまらなくなってきた。今年は宗教の勉強を少ししようと思います、俯瞰的に。特定の宗派によることなく。

 

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鍋の蓋は、ひらきのなかにあると思っていた。

あける。ない。隣のひらきをあける。ない。洗い物を立てておくラックにもない。ガス周りにもない。やっぱりひらきの中だよな、と思いもう一度あけるも、やはりない。

おかしいな、と思う。鍋を出すとき一緒には出さなかった、ような。

 

iPhoneが鳴って、一度キッチンを離れる。戻ってみると、ラックのそばの少し見えづらい、とは言え見ればひと目で分かる場所に蓋が置いてある。笑ってしまった。だいたい人間は思い込みの中で生きているんだなあということをあらためて思い知るというか。ここにあるはず、これをしたはず、と思っていても実はそうじゃなかった!ということ、気づいていないだけで、きっと今まで何千回もあるんだろうな。

 

昼間、タップの練習をする。メリークリスマス。記憶障害みたいなものがかなり感じられるようになってから、ひとつの物事を始めるとフロー状態に入りやすくて、その点はすごくありがたい。今日も気づいたら終了時間のノックがあり、え?まじで?となった。

既存のリズムやステップがほとんど使えなくなっているけれど、一応3年続けただけあって基礎的な足の動かし方は身体が既に覚えている。おもしろい。前までの自分では絶対に出てこないようなステップや音の乗せ方が次々に出てくるし、単純な基礎練も足が動かなくなるまで続けられる。次にシューズを履いたとき、今日何をしたか頭ではだいたい忘れてしまっているから、一回の練習でなるべく身体に馴染ませておかなくてはいけないけれど。でも、自分がどうなってもやっぱりタップダンスが好きだ、楽しい、と思えることがこの上なく幸せだなと思う。

 

 

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今日、家の近くで撮った植物たち。冬に植物はないと思っていたけれど、よく探したら冬にしか会えない植物で溢れていたことに最近気づいた。これも、思い込みを抜け出したひとつの例。

 

 

 

質問箱に答えたよ_20171220

 

質問箱への回答、第2回目です。

投稿はこちらまでどうぞ 

→ 藤坂の質問箱です | Peing

 

 

 

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未来を好きになる必要なんかないよ。余計な期待をすると予想外のことが起きたときにつらいし、予想外のことはけっこうな確率で起こる。高揚も絶望も長くは続かない。生活のなかでゆらぎつづけていくことそのものが、生きているということなんじゃないかと思う。

 

 

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ありがとうございます。文章や写真をそうやって褒めてもらえるのはほんとうにほんとうにうれしい。

受け入れられないこと、実はまだたくさんあって、苦しいなと思うことも多いよ。だって23歳だもん。だから、自分でいかんともしがたいことは、まわりのひとたちに「あなたのままでいいよ」と肯定してもらったりして、ごまかしごまかしゆっくりやっています。適切なアウトソーシング、大事。だからわたしもあなたに言うね。「あなたのままでいいよ」と。

 

 

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仕事始めると陥るそれ、けっこうしんどいよね。前職のときそうだった。特に繰り返しな毎日だと「いまのわたし、こんなことしてていいの?」って自問自答がやまなくなってしまう。なんというか、しんどい日々の中で「したいこと」って息継ぎみたいなものだから、時間がなくても気づいたら自然としているかもしれない。もしそれをする気持ちすら見失ってしまっているとしたら、それは一度長い休養をとらなくてはならない。

 

 

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これか!いや、こちらこそ一方的だったなと思い出してちょっと反省しました、すみません。文字って難しいね。

キャリアプラン、ほんとうにない。何を手に入れたいかなんてぜんぜんわからない。何歳のときにどんな暮らしをして何に仕えていたいか、がぼんやりとあるだけ。嘘ではなく、今日一日を生き延びるので精いっぱい。将来予測がぜんぶ崩れてたくさんのひとに支えられてやっと生き返ってから、自分が何かを切り拓いていくんだなんて、昨日と同じ明日が来るだなんて、畏れ多くて考えられなくなった。

強いて言うなら、いまは「書きたいひと」の「書く」を支える仕事を始めようと思っていることと、健康に暮らすために働き方のバリエーションを増やすことに興味があるよ。興味あったらいつでも連絡してね。

 

 

 

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八方美人×器用な世渡り上手 のひとには一生かなわんなあと思う。すごくうらやましいし、尊敬している。八方美人×不器用 のひとはかわいい。しっかりしろよ!って背中叩いてラーメンごちそうしたくなっちゃう。

 

 

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走り回ったひとは何人かいるんだけど、どなたかな。それなり元気です。お元気ですか?冬ですね。

 

 

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また褒められててすごくうれしい、ありがとうございます。

普段読む文章ね、けっこう雑食で、ビジネス書も読むし、研究のプレスリリースなんかも読むし、ばかなネット記事も読むし、詩も批評も物語も参考書もけっこうなんでも読むよ。すぐれた文章を読むと文章を書くのがうまくなりそうって思われがちだけど、佳いものも悪いものも同じくらい摂取しないと、なにが自分にとっての「佳い」なのかわからなくなるから、とにかく目についたものは気づいたらなんでも読んでしまうかも。

 

最近読んだ徹底的に1ミリもいいと思えなかった本と、

入社1年目の教科書/岩瀬大輔

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すごくよかった本はこれ。

中動態の世界 意思と責任の考古学/國分功一郎

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「1ミリも同意できない、いいと思えない」って実はすごく重要なことで、自分にとっての「いい」がどう措定されているのかを探る絶好の機会なんだ。

反対に「よかった」って手放しで思えるのは、もちろんすばらしいことなのだけど、盲目的な信仰につながりやすいから注意しなくてはならない。

 

 

「いやな怒り方をする人」のほんとのところ

 

「叱るのは良いけど怒るのはダメ」って、じゃあ「叱る」と「怒る」をただしく使い分けられる人ってどれくらいいるの?と思う。そもそもムッとしたとき、イラッとしたときに一呼吸置いてそれを冷静に使い分けられる人は、なにかマズいことが起きたときに「怒る」というコマンド自体が画面に現れない気がする。

だから、怒られる側の人間が怒っている人間に対してのお作法や冷静な見解を備えている方が、「怒ると叱るを使い分けましょう」というアドバイスよりも有用なんじゃないだろうか。「怒る・叱る」よりも「怒られる・叱られる」ことのほうが圧倒的に多いわたしを含めた若者たちは、心構えをなんとなくでも知っておいたほうがいろいろと削られない、はず。

 

わたしはとにかく怒られたり叱られたりすることの多い子どもだった。落ち着きがなかったし、忘れ物をよくしたし、周りより出来ないこととか苦手なことなどが多かったし、嫌なことはすぐに放り出して逃げ回って後始末をつけない子どもだったから、いろんな場面でいろんな「怒る人」を見てきた。怒られのプロである。怒られのプロは、ある一定以上怒られ続けたせいで「この人の怒り方ってあの人に似てない?」とか「この人がこんなに些細なことでこんなに怒るのって、もしかしてこういう理由があるから?」なんて考えるようになった。そんなことを考えているせいでお説教が耳に入らずまた怒られる。怒られスパイラル。でも、そんな確かな怒られ実績に裏打ちされた経験により、怒っている人々の人間としてのある一面性が少し見えたような気がする。

 

怒られのなかでも「いやな怒られ方」がある。気力以外にいろいろが削られているタイプの怒られ。それもいくつかパターンがある。こういう怒り方をする人はどこのコミュニティにもいる。ほんとうに、「あれっ、この前お会いしませんでしたっけ!」と言いたくなるほど、彼らはどこのコミュニティにも偏在している。そんなことを考えているから怒られるのだ。まあいいや。

いやな怒り方をする人について、これまでに感じたことと、対処法を好き勝手書きます。特定の誰かを馬鹿にする目的もないし、こうやって怒る人みんながみんなそうというわけでもないので、テレビの星占いと同じくらいの気軽さで読んでくれたらうれしい。

 
◆ とにかく威圧的な態度で押さえ込もうとする人

自分に自信がぜんぜん持てない人。心無い誰かに殴られて心がへし折られてしまった経験を持っていることも多い。ステータスや肩書や生きてきた年数など、目に見えやすい数値を後ろ盾にしがち。自分の感じていることや考えていることに自信が持てないゆえに、他人と何かが食い違うとすぐに答え合わせをしたくなる。けれど、答え合わせをすることで自信がないとバレるのもいやなので、手っ取り早く威圧で「おれのほうが正しい」ということにしてしまいやすい。ときに大声を出すこともある。ほんとうはあなたが何歳でどんな人だろうと、思ったことや感じたこと、考えたことを素直に話してくれればいいのに、威圧という銃口と後ろ盾をこちらに向けて「おれはこうだ!」と言ってしまう。

でも銃口を向けている自分にすら自信が持てないから、冷静になった後で謝りたい気持ちでいっぱいになっていることもある。そのタイミングでこちらが悪いと思った点を謝ると、どんどん素直な人に戻ってくれる。

 
◆ ねちねち嫌味を言ってくる人

自分が傷ついていることを一番理解してほしい人にわかってもらえないまま大人になってしまった人。傷が膿んで、いつまでも「自分は傷ついた」ということをまわりに嫌味というトゲで訴え続けたくなってしまう。ねちねちの沼にいくら付き合っても終わりは絶対にこないので、耐え忍ぶ気持ちで嫌味を聞き続ける、あるいは聞き流し続けるのはすぐにやめるべき。始まったら、波風を立てないよう声が届かない場所に即避難しよう。聞き流すって、流しているようでいてバッチリ聞こえちゃうので、実はかなりストレスになる。

嫌味が始まったら「あなたを傷つけたくてこの話をしたのではない」「傷つけてごめんなさい」ということを、傷口に包帯を巻くように伝えると、徐々にかさぶたになっていく。本当はカラッとしていたい、という気持ちの強い人なので、傷口をかさぶたにして、カラッとした光や風を当ていくと、夏の風みたいに気持ちよい人へと変身していくことが多い。

 

◆ 着火したようにすごい勢いで怒る人

痛みにすごく弱い人。それはプライドの高さの副作用でもあるかもしれない。感情の高ぶりに重なってマシンガンのように自分の正当性を主張するのは、「自分は間違っていないので傷つけないでください!」という魂の叫び。なぜそんなことを叫ばなくてはならないかというと、「おまえは間違っている」「おまえが悪い」と他人から指摘されるのが何よりも傷つくから。かつてのわたしがそうだった。咄嗟に口が回る人間がこのタイプだと、怒り出したとき本当に手がつけられない。「自分は悪くない」ということが一番大事なので、「あなたを悪いと責めているのではなく、ほんとうはこうしてほしかった」とか「ここをもう少しこうしてみては?」という具体的で生産的なことを、柔らかく直球で伝えられるとスッと熱が冷める。頭を使ったり議論をしたりするのが好きな人が多いので、非難ではなく的確な改善の要求があるとむしろ信頼関係が深まることもある。

 
◆ 「どうせぜんぶわたしが悪いんでしょ」とすねる人

ものすごく頑張り屋で口下手な人。がんばってがんばってすごくがんばるんだけど不器用だから、なかなかがんばっていることが周りに伝わりにくい。
このタイプの人々は得てして縁の下の力持ちポジションで、人より気配りができたり神経が細やかだったりする分、人よりも心配症だったり神経質だったりもする。みんなのために人知れず努力していることも多い。だけど縁の下だし口下手だから、伝えたいことがうまく伝わらなくてもどかしい思いをすることも多い。努力を誰にも認めてもらえない時期が長く続くと「もういいよ」とすねたくもなる。怒っている場合、少し時間を置いてから、常日頃の感謝の気持ちや、その人が自分にとってどれくらい大切であるかをちゃんと伝えられるといい。そして何より大切なのは、その人が普段がんばってくれていることをいつも自分も見逃さないこと。

  

◆ 半笑い気味に「どうしてキミはさあ」と小馬鹿にしてくる人

表向きは「お前(相手)って本当にバカだな、こんなこともわかんないのかよ」と自分が優位に立っているように見せかけて、実のところは怒っている自分に対して「くだらないなあ、チョロいなあお前は。こんなことでイラつくなんて、大人げない。あーいやだ」と思っている人。ほんとうは心に余裕がない自分のことが自分で一番きらいだし、自己評価がすごく低い一面があるんだけど、これ以上自己評価を下げるのが本当に苦しいから、無理やり他人よりも優位に立っていると見せかけてぎりぎりのところで気持ちを保とうとしていることが多い。

自信がなくて威圧してくる人と違うのは、「本当は誰よりも完璧な、誰よりも優秀な自分でありたいのに、それが叶っていない現状」というギャップに苦しんでいるところ。理想が高く現実が追いついていないことに対してストイックに自分を責めがち。能力は高いのにコミュニケーションが下手だとこれになりやすい。小馬鹿にされたら、鼻を明かしてやろうという気持ちではなく、真摯に「じゃあこれこれについてこれこれがわからないのでちゃんと教えてください」とまっすぐ目を見て言うと、意外と教えてくれる。そして教え方がかなりうまい。本当は誰よりも気高く賢い人。うやまう気持ちで接すると、どんどん品位を取り戻していく。

 

 

以上です。怒られない人生というのは無理な気がするので、怒られたら「この人、どうして怒ってるのかなあ」と、怒っている人の傷に目を向けられるとすこし楽に生きていけるように思う。自分にその余裕があるかは、そのとき次第なんだけどね。

でも、どんな人でもだいたいの場合は他人に見えない不安定さを案外抱えているものだということを多くの人が理解できれば、もうすこし世界ぜんぶが優しくなれるんじゃないだろうか。傷つける人が、一番傷ついている。

 

本日はこの辺で。刺すように寒い夜だね。おやすみなさい。

 

 

 

 

質問箱に答えたよ_20171214

 

 ツイッターで質問箱というのが流行っていて、匿名で開設者に質問とか相談ができるシステムなんだけど、軽い気持ちで始めたら割とコンスタントに質問がくるのでけっこうびっくりした。それも、なんだか近い色合いの質問が多くて、ひとを大切にすることとか、自分に自信が持てないこととか、みなさんそういうことをさらけ出してくれる。匿名の力ってすごい。みんな素直になれる。もうみんな名前も顔もいっそのことなくしちゃえばいいんじゃないのとすら思う。家族とパートナーと大切な友だちの前だけでいいよ、名前と顔があるのは。

 

予想以上にたくさん質問がきたおかげでさすがにそろそろツイッターに流し続けることがはばかられたので、ここで回答しようと思います。引き続き質問したい方や相談したい方はいつでもどうぞ↓

peing.net

タイミングに任せて好き勝手言います。言わせてくれてありがとうございます。

一応ルールとして質問箱は回答が100字以内らしいので、ここでの回答も100字前後に収めます。

 

 

 

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いろいろあるけど、突き詰めると生活がしたかった。せっかく人間に生まれたので、働いてひとと関わってお金を稼いでご飯を食べるという文明をやってみたくなったから。

 

 

 

 

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遠くにいるからこそできる愛し方を楽しんでください。生きている方なら、季節や土地の香りを込めた手紙をときどき送ればいい。亡くなっている方なら、毎日空を眺めて祈ればいい。祈っているあいだ、太陽も雲も月も星も、あなたたちだけのものです。触れ合うだけが愛ではない。

 

 

 

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たくさんの人のなかで大活躍して、たくさんの人に必要とされたいとすごく思ってた。でも無理でした。未来をそれっぽく予想しても何のアテにもならないこと、だから、いまの自分にとって大切なものだけを大切にしなきゃならないことを学ばされた一年だった。

 

 

 

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明日死んだら、「もっと話せばよかった」「友だちになりたいですと言えばよかった」って気持ちでいっぱいで、たぶん成仏できなくなるよ。自分に今日と同じ明日が必ず来ると過信しないほうがいい。こないから。だから、本当に大切なものだけを大切にしてください。お願いだから。