きみのお祭り

死ぬまで盛り上がっていけ

犬が生死の境目にいて、何が正しいのかわからない

今年14歳になる犬がいる。14年前、わたしが道端で死にかけていたやつを拾ってきて、それ以来この犬一匹のために母親が家出をしそうになったり新築の一軒家を買ったりと、まあ犬が我が家に与えた影響は計り知れないほど大きかった。ふわふわで、目がくりくりしていて、茶色くて、胴が長くて、ちょっとふとっていて、のんびり屋で、寝ることと食べることが大好きで、ほっておいてほしいくせに床に座ると必ずこっちに来ては尻をくっつけて寝る犬。うつくしい犬。おだやかな犬。

 

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その犬が、2日前から重い肺炎にかかっている。詳しい経緯はつらくなってしまうので書かないけれど、いまも動物病院のICUで酸素を全然吸い込めないまま、きっと眠れない夜を過ごしている。寝るのがあんなに大好きなのに、息がうまく吸えないせいでもう2日間くらいまともに眠れていない。それを思うだけで胸が苦しく、隔離部屋の小窓から手を差し込んで顎の下を撫でてやると虚ろだった目をほとんど閉じて眠たそうにしているのを見ると、とにかくはやくよく眠れるようになってほしい、と心から思う。

 

犬が肺炎にかかったのを最初に察知したのは妹だった。そのとき、偶然わたしも母も家をあけていて、次の日にならないと帰れない状況だった。ちょうど前の日に東京では信じられないほどたくさん雪が降ったので、わたしは犬を連れ出して道端でやつを遊ばせていた。もう14歳になるのに、犬は雪が大好きで大好きで、普段の散歩なんて分速5歩くらいしか歩かないくせに、その日ばかりは寒い中あっちへこっちへ駆け回っては短い足でかりかりと雪を掻いた。

 

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雪が似合う犬。うつくしい犬。

 

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肺炎の原因は雪の中を遊ばせたせいじゃないかと真っ先に思った。しかしお医者さまいわく、何が原因であるかはわからないらしい。歯の汚れから細菌が入ったせいかもしれないし、歳のせいかもしれないし、はたまた別の原因かも知れず、ともかく雪で遊ばせたから肺炎になったわけではない、ということだけを教えてくれた。べつに、だからといって気持ちが楽になるわけでは全然ないのだけど、今度犬が帰ってきて雪が降ったときは、全身にぴったり合うもこもこのジャケットを買ってやり、靴下を履かせて遊ばせようと思った。

  

母は、犬が危篤になったことを自分のせいだと思っている。最近犬がなんとなく元気がなさそうだったのは事実で、しかし急に寒くなったせい、くらいに思って、わたしたちは病院に連れて行こうとはしなかった。もう歳だし、病院に行って痛い検査をされたり、冷たい台の上に載せられたり、大量の苦い薬を出されたりするくらいなら、おだやかに家で過ごさせてあげたいね、と話し合っていた。

けれど、今回突然夜中に犬が肺炎にかかって、妹が電話をかけてきて、その瞬間から母はずっと自分の選択を責めている。どうして病院に連れて行かなかったのか。なぜ元気のない犬を置いて家を2,3日離れることにしてしまったのか。犬が肺炎にかかったとき、もっとなにかしてあげられることがあったのではないか。

仮に母が家をあけなかったとしても、この大雪のせいで駐車場には大量の雪が溜まっていたので、車を出して夜中に救急に連れて行くことは不可能だった。タクシーなんて走っていなかった。数日前になんとなく元気がなかった犬が突然肺炎になるなんて、誰も予想はできなかった。妹はほとんど寝ずに一晩中犬の世話をして、翌朝朝一番に10キロのケージを担ぎ、ひとりで1キロ離れた動物病院まで歩いて犬を連れて行った。

 

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 わたしは、犬が帰ってきたら、どうやって犬と過ごそうかばかり考えている。寒い思いをさせないように、さみしい思いをさせないように、散歩はこれくらい、餌の量はこれくらい、日中はカーテンを開けてたっぷり太陽を浴びせてやり、雪が降ったらもこもこのジャケットと靴下を着せてやる。

母は、犬が生死の境目にいることの原因ばかり考えている。自分のあれがいけなかったのではないか、これがいけなかったのではないか、どうしたら肺炎を防げたのか、自分の用事よりも犬を優先させなければ、この先犬と生活するのはむずかしいのではないか。

 

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 何が正しいのか、わたしにはわからない。原因ばかりを追求しても犬が苦しいことに変わりはない、と、どこか冷たい目で母を見つめてしまっている自分がいる。しかし、原因を探したい気持ちも痛いほどわかるし、やっぱり雪のせいかな、と思ってしまう自分もいる。犬が雪の中を走り回っていた動画を見ては涙がでる。また犬と遊びたい。はやく帰ってきてほしい。だけどいま、どんな気持ちで犬のことを考えれば良いのかわからず、苦しい。明日も朝から、犬に会いに行く。頼むからもう少しだけ一緒にいさせてください、どうか。

自作自演問答ノススメ

 

 

質問箱という匿名質問投稿サービスがこんなツイートをして炎上している。

 

 

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要は「匿名で質問や相談が投げられる仕組みに自作自演で質問を投げ込んでそれに回答をしている人間が14万人もいるぞ!」というぶっちゃけ。

サービスの作り手としてサイテー(たとえば質屋が店名を掲げた上で「いらっしゃるお客様のうち3割は絵に描いたような成金でございます!」なんてインターネットに書いたらどうだろうか)だなとか個人的な感想はまあ色々あるんだけど、一番あーあと思ったのは、「質問箱での自作自演が運営側にバレている」と周知させてしまったことにより「質問箱を使って自問自答をする人にダメージを与えた」ということ。おそらくこの14万人の中にはそのような使い方をしていた人が少なからず含まれるだろうし、実際にそうした指摘もあったようで、にもかかわらずこの対応だったので余計にがっかりしちゃったんだけど。

 

 

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質問箱の作り手が何を思ってこのツイートをしたのかはわからないけれど、おそらく「自作自演なんて恥ずかしいことをしている人がこんなにいまーーーす!いくら自演しても俺らにはバレちゃってますよーーー!いやあそれにしてもあなた恥ずかしいですね!質問がいっぱいくる人気者気取りですか!顕示欲がすごいですね~〜〜!」ということを言いたかったのかなと思う。あるいは、悪いことしても運営側は見てるよ、なのか。後者だとしたらもっと別のやり方があると思うので、やっぱり前者なんだろうな。

 

端的に申し上げて、「他人の顕示欲や承認欲求をあげつらって笑いものにする」というのは本当に本当に本当にダサい。もうええねんそういうの、と思う。

人には本能として顕示欲やら承認欲求やらが多かれ少なかれ備わっている。「人間の赤ん坊は母親に注目してもらわなければ生命がすぐ危機に晒される。だから大声で泣いてぐずって母親の気をなんとかひいて、自分の要求を分かってもらおうとする」とアドラー先生が言っていたように、他人に注目されなければ生きていけなかった時代の名残として、わたしたちはそれらを持っているのだ。いわばサルからヒトに進化するにつれて尻尾が短くなって尾てい骨になったのと同じように、そうした欲求は泣き声の退化系みたいなものだと思っている。まずはそれを認めてくれ。あなたにもわたしにもあの子にも顕示欲は存在する。そしてそれが外側に現れることだってある。他人に注目されたいことは何もおかしなことじゃない。

あるいは、他人より優れていたい、人気者に見せたいという人が一定数いるのだとして、それが一体なんなんだ。自分を大きく見せることがその人のこれまでの生存戦略だったんだよ。そういう競争環境で何年も育ってしまったから、他人よりなにかの数量で優っていることを自分の価値と考えている人もいるんだよ。それだけじゃん。それでいいじゃん。いい加減ほっといてやれよ。

 

 

で、やっと本題に入ります。自問自答の話。

 

『最果てアーケード』という大好きな短編集があって、そのなかのひとつに、病院の事務室に勤めて毎日それぞれの病室に手紙を配るおじさんの話がある。以下少しネタバレしてしまうけれど、物語の核の紹介。主人公の「わたし」が「おじさんに手紙は来ないの?」と尋ねると「来るよ、ほら。お姉さんがいて、2週間に一度くらい手紙をくれる」と言って、おじさんは引き出しをあける。中には綺麗な字で書かれた手紙がたくさん入っていて、最近はどうしていますか、とか、とりとめのないことが色々と書いてある。「わたし」がそれをじっと見つめていると、おじさんは「実はね、僕に姉はいない。だから、自分で自分にこうやって手紙を書くんだ。寂しい人だと思うかい?」と言う。「わたし」はおじさんに手紙を書くと約束するが、結局一度も書かないまま、母親が亡くなったその病院にも二度と行かなくなってしまう。

 

わたしはこの話がほんとうに大好きで、「自分に手紙を書くように書く」という書き方で日記を書き始めたのは、これを読んだことがきっかけだった。

自分で自分に手紙を書くということは、自分で自分を気にかける、自分で自分に問いかける、とも言い換えられる。お元気ですか?最近お変わりないですか?何か嬉しいことはありましたか?どうしてそんなにかなしんでいるのですか?なぜあなたは今それを選んだのですか?と、自分に問いを投げかけ続けることでしか、わたしたちは自分自身を知り得ない。

自問自答をすることは、言葉を手に取り、自分の中にある目に見えないものに形を与えることだ。言葉にしなければ問いは立てられない。たとえばその手段は手紙かもしれないし、インターネットの匿名質問システムかもしれない。あるいは日記を書くのもいいし、ひとり部屋で壁に向かって喋り続けてもいい。

 

わたしは、自作自演で全然構わないから、多くの人にもっと言葉で問いを投げかけてほしいと思う。自分自身に対して。さまざまな角度から見えないものを形にすればするほど、思考はより研ぎ澄まされていく。言葉を与えなければ、見えないものは見えないままなのだ。形にして初めて事実と推測と感情は切り離され、それらと適切な距離感を測ることができる。

そういう意味で自問自答はより善く生きるために欠かせない営みであると言えるし、それは他人とつながる手段でもあるように思う。問いに対して生まれた解を誰かと答え合わせしてみれば、案外他の人も同じようなことで悩んでいたのだなとわかったり、自分が問いを立てたことそれ自体が「そんな視点からの考え方もあったのか!」と誰かの救いになることもある。自分へ向けているはずの問いが、実は人そのものの根源を問う問いだった、なんていうことがあるのだ。だから、恐れずにたくさん自問自答してほしい。そして問い立てを通してたくさんのひととつながってほしい。

 

どうか、つまらない揚げ足取りの悪意などに負けず、自作自演の自問自答をじゃんじゃんやってくれ。そして質問箱運営サイド、てめーは自転車のペダルに向こうずねを思いっきりぶつけろ。わたしはこれからも皆さんからの質問をいつでもお待ちしております。

peing.net

 

 

 

かつて、自罰は苦しみと救いのあいだにあった


その昔、まだ女子高生で、膝上15センチのスカートをひるがえして毎日往復14キロの道を自転車でぶっ飛ばしていた頃、わたしは過剰にストイックだった。そして、ものすごい自罰主義者だった。
おそらくもともとの性格によるところが大きいのだけど、たとえば毎日決めた数の英単語をひとつでも時間内に覚えきれなかったら死ぬほどイライラしたし、98点のテストが返されたら悔しくて仕方なくて、その2点が取れなかった原因を徹底的に潰した。対人は不器用の3乗で、「迷惑をかけてしまった!」と自覚した日や、なぜかわからないけれど人とコミュニケーションがうまくいかなかった日には3日くらい立ち直れなかった。そしてひたすら、自分を責めた。お前なんて死んでしまえという生産性のない暴言が頭のなかで鳴りやまないこともあれば、ただ延々と「次に同じ場面に遭遇したら相手に対してなんと声をかけてどんな表情でどう喋るか」をロールプレイングしたこともあった。はたから見ればアホである。人生そんなロールプレイング通りにいくかよ。7年前は根がド真面目な上に強迫観念がすごかったので仕方ないけれど。


最近ツイッターで「メンタルやばいときって他人と関わるの死ぬほどつらいし自分のことだけでいっぱいいっぱいだよね」みたいな主旨を呟いたら、5万人以上のひとがリツイートしてくれた。そこにたくさんのリプライをもらったり、引用リツイートをしてくれたひとのコメントを読んだり、はたまた質問箱(匿名で相談や質問が投げられる例のアレ)やDMに色々な相談をもらったりして、おそらく100人以上のひとたちの声を聞いた。これまで、こんな短期間でこれほど多くのひとたちの心にしまってあるつらさに触れたことがなかったのですごく新鮮だったし、自分と同じように感じている人もいるんだなとわかったことがとても励みになった。ありがとうございました。

 

で、そのツイート経由で知らないひとから心や人間関係に関する相談事を持ち込まれることがすごく多くなったんだけど、それらを拝見する限り「アレ?」と思うことがあった。

相談してくるひと、9割方めっちゃストイック。なんなら超自罰主義的。似ているのだ、かつてのわたしに。
さっきから使っているこの「自罰主義」という言葉は、2秒くらいで考えた。自罰は自罰的という形容動詞がもとのかたちで、何かをやらかしたときに原因を自分に求めて自らを罰すること。主義はプリンシパルですね。自罰と自省は少し違って、自省はただ反省するだけなんだけど、自罰はそれに加えて「罰する」こと。

元・自罰主義者だったからわかるのだけど、自罰主義の厄介なところは「罰されないと苦しみに終わりがこないところ」だと思う。単純に反省して次からこうしようって思って終わりにしていいはずなのに、自分を過剰に責めてしまう。責めないと気が済まないし、それでどんどん苦しくなっていくのは自分だとわかっているはずなのに、やめられない。その姿を他人に見せることがそのひとを苦しめるということもわかっているのに、やめられない。はたから見れば、マゾヒストにもほどがあると思う。

わたしもとにかく過剰に自分を責めた。苦しくて仕方ないのに、どうして頭の中の声が鳴りやまないのかぜんぜんわからなかった。100人のひとが「きみは悪くないよ」と言ってくれたとしても、わたしは「お前が悪い」と言ってくれる101人目を探した。
質問箱に寄せられた相談を見ていると、あの頃の鳴りやまない罵声が思い出されて、懐かしいようなかなしいような変な気持ちになった。


どうしてああも自罰主義者であったのかをあらためて考えてみると、責めることとか、「お前が悪い」と自分に言い続けることが、わたしにとって救いだったような気がする。生きていれば「誰も悪くないんだけどタイミングが悪かったよね」とか「相性の問題だよね」というアクシデントは当たり前に発生するということが追々わかったわけだけど、16歳のわたしには、世界やコミュニティというものがものすごく不条理に見えて、ぜんぜんわけがわからなかった。年相応の物分りの良さと諦めが欲しかった。けれどそれらはそのときどうしても手に入らなくて、「なんでかわからないけどまたうまくいかなかった」という失敗ばかりを繰り返した。そしてその学習能力のなさにがっかりし、何もかもを受け入れられない自分は視野が狭くてつまらない人間なのだと思った。そう思うことでしか、自分のなかに起こっているかなしい気持ちやつらい思いに説明がつけられなかった。

かなしい気持ちやつらい思いに説明がつかないこと、それがいちばん苦しかった。この気持ちはどこから来るのか、この気持ちは一体何なのか、どうしてこんな気持ちが生まれるのか。16年しか生きていなかったからわからなかったし、「すぐにはわからなくてもいい」ということもわからなかったし、根がばかみたいに真面目だったわたしは、説明できないものを何よりも嫌った。だから、「お前が悪い」と自罰をすることでしか、それらの説明できないものを消化できなかった。自罰をすれば、それらはすべて綺麗に収まった。どうして苦しいの?だってあなたが悪いんだもの、と。 罰されれば、苦しみを感じることが許されるような気がした。自罰は、飲み込むことも吐き出すこともできない何かを噛み締めなくてはならない痛みを癒すための、唯一の手段だった。


他人が悪いとか、環境が悪いとか、そういうことはなるべく思いたくなかった。嫌われることが怖かったのではなく、その先の人生に絶望したくなかったからだ。悪いのはわたしのほうで、それをなんとかすればきっと世界は楽しくて明るくて豊かで、みんなと平和に調和していけると思いたかった。どこまでも期待したかった。いつか夜が明ければすべてがうつくしく見えると信じていたかった。そうでないと、この先もそんなおそろしいものに囲まれて生きていくことに耐えられないように感じられた。
16歳の自罰主義者に足りなかったのは、ありのままの外の世界のすべてを受け入れる勇気だったのだと思う。

 

24歳を2週間前に控えたいまは、外の世界のことを少しずつ冷静に受け止められるようになった。良くも悪くも信じられないような偶然が起こることや、誰も悪くないのにみんながかなしい思いをすることもこの世には当たり前に存在するし、誰かや何かを責めても責めなくても、おなじように朝が来ることを知った。
わたしがいまこれを書いているのは、かつてのわたしのようにいま自罰で苦しんでいるひとに「目をひらいて」と伝えたかったから。「あなたは悪くない」とか「ちょっと冷静になって考えてみようよ」なんて言ったって、きっとあなたには届かない。あなたの痛みは、たとえ歪んだ認識から生まれたものであったとしても、間違いなく本物で、いまもあなたを苦しめている。だからわたしはこうして、手紙のようにあなたに書くしかない。目をひらいて、と。目をひらいたわたしを見て、と。言われたってわからない。気付くことでしか得られない。こればかりは。だから、わたしを見てください。目をひらいたら、まあそれでも受け入れられないことは星の数ほどあるけれど、なんとか生きてこられました、少なくとも7年くらいは。「生きてこられた」なんて大嘘で、ほんとうは「生かされていることを知った」なんだけど、それは長くなるのでまた別の機会に。

 

あなたの苦しみに、いつかやわらかな陽が射し込みますよう。

 

 

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質問箱が相も変わらず大盛況なので、こちらで何名か分まとめて答えました。答えられなかった方、ごめんね。また今度やるね。

 

 

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個人的には恋人って家族みたいなものだと思っていて、恋人/家族という分け方は何か大切な軸を見落としかねないと思う。生まれ育った家族を優先することと今付き合っている恋人を優先すること、それぞれの自分にとっての意味とメリットをよくよく考えてみては。

 

 

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そもそも「本当のもの」がこの世にあると思い込んだ時点で苦しくなるに決まってる。だってそれが本当に本当に本物であるかどうかなんて、誰も判断できないから。そして、たとえそれが本物だろうと、本物を手に入れたからと言って幸せになれるとは限らない。

どういうことかっていうと、つまりは恋とか道徳とかが本物だとか偽物だとかそんなことに大した意味なんかなくて、一番大切なのは、あなたがいましていることや考えていることはあなたを幸せにしているかということ。幸せじゃないなら、いますぐ自分を幸せにしてやって。

 

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愛を失う怖さゆえに愛する相手を傷つけ始めたら重い

 

 

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恋と愛を分けるのが賢明では。愛されたことがないなんて嘘だよ。愛されていることに気がついていないだけだよ。人間誰にも愛されずに生きてこられるはずがないんだよ。恋が難しいなら、まずは愛から始めてはどうですか。あなたをこれまで愛してくれたすべての人について、真剣に考えたこと、ありますか。

 

 

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何歳でも怖いものは怖いから気にしないで。わたしあと2週間で24歳になるけど、電車に乗るのと目のでかいチワワが怖くてしょうがない。

上から目線な言葉になってしまって申し訳ないけれど、「うまくやろうとしても絶対うまくいかないから、誰かに気に入られようとせずに自分がかっこいいと思う自分だけをやっていってください」です。

 

 

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物理的には不自由してないかもしれないけれど、満たされていないのならそれは不自由しているということなのかもね。豊富に与えられることだけが豊かさではない、ということに気がつけるチャンスをその歳で得られるのはすごいと思う。このさき運が良ければ何十年かは生きると思うけれど、案外すぐ死ぬし、明日自分が無事である保証もないし、今のうちにいっぱい思い出作りしておきなね。

 

 

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あなたが親にどう育てられたかとあなたがどういう人間であるかは関係ない。きびしい言葉かもしれないけど。

極端な例を出すと、子どもの頃虐待を受けた人は「子どもを産んだらどう愛していいかわからない、自分も自分の母親のように子どもに手をあげそうで怖い」と言う人と「自分がつらい思いをしたから、子どもには絶対つらい思いをさせない、あたたかい家庭を築く」と言う人にだいたい分かれるの。要は、あなたがどういう人間になりたいかなんじゃないかな。前向きになりたいなら、悔しさをバネにして跳ぶもよし。きっと同じように豪快で明るい人たちが周りに集まってくるはず。ジメジメしたいなら、鬱屈した気持ちをSNSに書き綴るもよし。きっと同じように苦しんだ人たちがあなたに救いを求めてやって来るから、そのときあなたは「自分だけじゃなかった」と救われるでしょう。どうやっていこうといいんです。あなたはどこまでも自由。

 

 

不安定歩行の効用

 

外に出たくない。必要最低限以外の刺激がなるべく少ない日々が必要だ、いまは。他人には見えない冬が永い。

 

自信のないときほど、どうしても外に出なくてはならないときはヒールの高い靴を履いて外出する。「気持ちを上向きに」なんていう洒落た理由では全くない。安定の悪い靴を履くと、否が応でもバランスを取るために集中して歩くようになるからだ。頭がぼーっとしたり、ごちゃごちゃした状態が脳を占拠しているときは、とにかくひとつのことに意識を向けるようにしている。わたしの場合、それは歩くことなのだ。普段ハイヒールを履き慣れていないので、とにかく慎重に、ゆっくり歩くようになる。地面に足の裏が接していない不安定感、バランスを取らないとつまずきそうになる緊張感。たぶん、すごく変な顔をしてすごくゆっくり歩いている人だと思う。はたから見たら。

馴染みのない不安定感や緊張感に身体を少しずつ馴染ませながら、地に足をつけられることのありがたみを感じる。裸足が大好きだ。とにかく頭が先走っていろいろなことを考えすぎてしまうときは、こうやって荒療治のように感官の世界をひらくようにする。ほんとうのほんとうに無理の極みにいるときは、それすらできないんだけど。

 

散歩が好きだ。走りに行くのも好き。スポーツが好きなのではなく、外の空気を吸って太陽にあたり、歩いたり走ったりして身体を適度に緩ませるのが好きなのだ。どんなに調子が悪くても、家から5メートル半径しか歩けなくても、1日一度は外に出るようにしている。空気がつめたい。体が冷える。吸い込む外気が喉を刺す。北風の鱗が頬を殴る。そんな単純なことですら「生きているなあ」という感じがする。それをうれしいと思えるところまで、なんとか回復したい。春がくるまでには。

 

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タイ料理は、一見からくなさそうなおしゃれサラダが最もからい。今日の知見です。

 

共同体の中でやっていくとき、特に考えなきゃなと感じるのは「わたしたちの関係性において、いまのベストは何か」ということ。そこには「あなた」と「わたし」の両方が含まれるし、そもそも共同体に「わたし」が含まれていると疑うことなく心の底から思うことができなければ、どうしても自分の利益のことばかりを考えざるを得ない。あるいは、他人に極力嫌われないよう目立たずてきとうにヘラヘラして、内心「あー嫌だ」と思って過ごすしかなかったり。

 

たとえば、虫の居所が悪いひとに対して「ちょっと感じ悪くない?」と一方通行的に言うと、言われた側も嫌な気分だし、言った側も当たられてもっと嫌な気分になる。マイナス1とマイナス1でマイナス2になって、非常によろしくない。多くの場合、コミュニケーションとは「意思の疎通や伝達」と思われがちだけれど、真のコミュニケーションは合意の形成にある。「機嫌が悪いのを全面に押し出すのをやめてほしい。関係ないわたしに当たらないでちょうだい」と「嫌な気持ちだけど関係のないあなたに当たっちゃって申し訳ない気持ちもちょっとある。でもいまは構わないで」という二者それぞれの気持ちに平和な落としどころをつけるのがコミュニケーション、だと思う。

これを円滑にやっていくためには「自分気に入らないんスけど」とか「頼むから問題を起こさないで!」という気持ちを相手にぶつけるのではなく(ましてや「わたしが我慢すれば…」とかは誰もハッピーにならないうえに主従関係に一瞬で自他を閉じ込めるので最悪だなと思う)「どうやったらウチらハッピーになれるわけ?」というギャルのモチベーションで他人とやっていくのが大切なんじゃないかなというのが、23年生きて得たひとつの解。まだ通過点ですので、これから改良が加わったりすると思うけど。

 

今日の風のつめたさはすごかった。でも空が青くて雲がビュンビュン流れていくのを見るのは気持ちいい、冬だけの空という感じがする。明日も良い天気だといいな。

 

 

 

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 したいことをしたいと思っているうちにやる、というのは、今年のひとつの目標。そもそもしたいことをできないときというのは、心身の健康か時間のどちらかを欠いているときであって、それをなんとかしようと格闘しているだけで消耗する。そして年末になって「ああ、これやりたいと思ってたのに結局できなかったなあ」と思うのも、なかなかどうして気持ちに鈍い負荷をかける。冬の朝に布団から出るのと同じで、とりあえずやりはじめてしまえば細々続けるのは苦にならないし、三日坊主でやめてしまったのであれば、それはそもそもしたいことだったのではなく「それをしている自分なんとなくカッコ良さそう」みたいな憧れに過ぎなかったのだと思う。

 

時間が有限で人生も有限だということを、最近あまりにもひしひし感じる。24歳になるまでとうとう残り1ヶ月を切った。師走が文字通りあっという間に走り去ってしまったように、きっと24歳もすぐにやってくる。そしてすぐに去っていく。思えば20代とは掛け値なしで「若い」と言われる年齢であって、実際、若さゆえに許されることがたくさんある。実験室で得体の知れない液体を混ぜ学校ごと爆破したいなら、いましかない気がする。無礼無法をはたらいてよい、という意味ではなく、何かをやらかしても「まあ、若いし」と周囲の大人たちが笑って許してくれやすい。いや、ほんとうは何歳になってもそうやって笑って許されるべきなのだろうけれど、ことのほか20代は「若さ」という非常に曖昧な何かを錦の御旗として掲げても「どうぞどうぞ」と言ってもらえるので、何も気にせず好きなことをしていい気がしてきた。

 

主観から見える世界はすべて思い込みでできている。なので、もう何かに苦しむのいい加減やめたい。やめよう。「世間の目が許してくれない」「家族が許してくれない」のではない、あなたがあなたを許していないだけだ。ほんとうのほんとうにあなたのことを拘束できるのはこの世であなたしかいない。不幸になるために生きているわけじゃない。

 鎌倉時代にみんな還ろう。「なむあみだぶつ」と唱えていればあとはぜーんぶ仏様が一切衆生を救ってくれたのだ。善人も悪人もひとしく救われる。どんなにダメでバカでどうしようもなくても、仏性はすべてをすくいとってくれるのだ。柳宗悦の「美の法門」とか小林秀雄の「無常ということ」読んでみて。やばいな、言いたいことがまとまらなくなってきた。今年は宗教の勉強を少ししようと思います、俯瞰的に。特定の宗派によることなく。