きみのお祭り

死ぬまで盛り上がっていけ

どうしてちゃんの「わからない」お作法

 

冗談ではなく、毎日20回くらいは「わからんなあ」と思う瞬間がある。あくまでも、淡々と。何かに苛ついたり絶望したりというわけではなく、純粋に何かをわからないと感じる瞬間が毎日20回くらいあるのだ。本を読んでいても、ニュースを見ていても、人の話を聞いていても、SNSを眺めていても、文章を考えていても、かならず「わからんなあ」がどこからともなくやってくる。実際に口に出して言うこともあれば頭の中だけでつぶやくこともあるし、本などが手元にあるときは「(ここ)わからん」と直接書き込むこともある。

 

物心ついた頃から、「わからない」は最も近しい友人だった。いまもそうだけど、子どもの頃からこまっしゃくれた「どうしてちゃん」だったので、いろいろなことについて「なんで?」「どうして?」「それ何?」と訊いて回っては大人たちに鬱陶しがられた。実際、「なぜ」という問いは必ずしも歓迎されるわけではない、ということが歳を重ねるに連れてわかってはきたけれど、やっぱり根本的に「どうしてちゃん」はやめられないのだ。カエルが皮膚呼吸をしないと死ぬのと同じようなものなのだと思う。

どうして「わからない」と感じる瞬間がこんなにも多いのか(ほらまた「どうして」!)と考えてみると、おそらくわたしは「わからない」を「わからない」ままにしておくのが怖いのだと思う。あとは、自分が何をわかっていて何をわかっていないのかをわかっていたい、という気持ちがたぶん強い。そして「わからない」を考えて自分なりの「なるほど」に辿り着くのがけっこう好きだ。この3つが合わさると立派な「どうしてちゃん」が出来上がる。

 

余談だが、わたしはお化けがこわい。大嫌いだ。心霊スポットなんて死んでも行かないし、遊園地のお化け屋敷もなるべく行きたくない。なぜかというと、お化けはわたしにとって徹底的に「わからない」ものだからだ。死んでまでしてこんなにもしちめんどうくさい現世と関わりたいというモチベーションが高い時点でわけがわからない。起業家かよ。ビジュアルもヤバい。血がドバドバ出たり目が片方腐り落ちたりしたまま歩いているとか信じられない。まず手当てをしろ。せめて傷を隠せ。生きている人間に対してあまりに配慮がなさすぎる。しかも出現するタイミングがランダムすぎて完全に予測不能。ヤバすぎる。ぜったいに遭いたくないのにいつ出くわすかまったくわからないのがいちばんこわい。一から十までなにひとつわからない。だからお化けは大嫌いです。

 

さて、お化けは置いておくとして、20回/日のペースで「わからんなあ」を23年やってみて、「わからない」についてわかったことは少しずつ増えてきた。備忘録も兼ねて書いておこうと思う。

 


1. 「わからない」は「理解できない」「納得できない」「予測できない」のおおかた3つに分類できる。

1日20回の「わからんなあ」を分類してみると、だいたい5:2:3くらいの割合になる。そして「何がわからないかわからない」という状態の8割方は、いま抱えている「わからない」がこの3つのうちどれであるかを見極めれば、半分くらいは解決する。理解ができないなら理解できるまで調べるか他人に訊けばいいし、納得ができないなら自分の視点との違いを意識して考えてみればいいし、予測ができないなら仮説を立てる材料を探せばいい。たまにこの3つのどれにも当てはまらない「わからんなあ」が発生するけれど(だいたいそういうときは何もかもを投げ捨てて南の島へ逃亡したいときだ)、モヤモヤした気分を解決するには、この3つのうちどれを解消すれば問題が解きほぐされるのかを見極める必要がある。もちろん見極めたからといってすぐに問題が解決するわけではなく、誰に訊けばいいかわからないとか、言語の壁があるとか、仮説を立てようにも適切なソースが何であるか見当がつかないとか、そのような次なる事案にぶつかるわけだけど、少なくとも「わからない」を解消するための最短ルートを見つけること(=分類をしそのカテゴリに適した解決方法をとること)が解決への第一歩だ。そしてこれは、やればやるほど見極めもルートの探索も早くなる。

 


2. 違う種類の「わからんなあ」を同時に3つ以上抱え込むと気持ちが厳しくなってくる

現代人の多忙なる皆さまにおかれましては、種々の悩み事の尽きないことと思う。仕事、世事、生活、健康、恋愛、家族、人付き合いなどなど、「わからんなあ」と思うタイミングは星の数ほど巡ってくる。
わたしはマルチタスクが死ぬほど苦手だ。だから必然的に「わからんなあ」と思うことについて考えるときはひとつのことについてしか考えられないのだけど、たとえば「仕事」「いま読んでいる本」「人間関係」の3つにおいて同時にまったく違う「わからんなあ」が発生すると、まったく心が休まらなくなる。「わからんなあ」を常時いくつか待機させてしまうと、別の考え事をしているあいだもそれらのバックグラウンド処理で脳のメモリーが使われる。それに目の前のひとつを強制終了させても、待機しているそれらが次々に現れるので、結果ものすごく疲れるのだ。そして「わからんなあ」をやりすぎると、わたしは気持ちがあっという間にダメになる。「こんなにわからないことが多いなんてもうおしまいだ」という気持ちでいっぱいになり、ほんとうはそんなことないのに、何もかもがわからないように思えてしまい、お先真っ暗な気分になる。これは非常によろしくない。
大切なのは、「わからんなあ」を同時に発生させないよう、あまり多くのことに気を取られすぎないことだ。特にわたしのようなどうしてちゃんは、PCを触っているときはノートや本をしまう、書き物をしているときは電子機器の電源を切る、など、物理的に情報が入ってくるもとをシャットアウトする必要がある。同時並行で複数の「わからんなあ」を抱えることはiPhoneで言うならば、ツイッターとラインとメッセンジャーをひらいたままYouTubeで動画を見ているようなものだ。電力とメモリーはなるべく省エネでいかなくてはならない。そして健全な気持ちを守るためにも、なるべく「わからんなあ」を同時多発的に発生させてはいけない。

 


3. わかるとわからないの線引きをすると思考の整理がすみやかになる

最初に述べたとおり、わたしは、何がわかっていて何がわからないのかがわからない状態に多大なるストレスを感じる。部屋が散らかっているのは見過ごせるが、頭のなかが散らかっているのは大嫌いで、欲しい情報やそのときの最適解をすぐに組み立てられないことが死ぬほど嫌なのだ。おそらく2で述べたことともすこし関連していて、「なにがわからないのかわからない」になると「もうぜんぶダメだ」になりやすいからというのも、この状態にストレスを感じる理由のひとつだと思う。
よく「考えていることを整理する」という言い方をするが、これは「どのような道筋で現在の解が導かれたのかを再度辿り直してみる」ということで、その辿り直しの過程に「わかっていることとわからないことの線引きを明確にする」という動作が含まれる。この線引きには大きな意味があり、なにがわからないのかをわかると、「わかりたいこと」に対してその「わからないこと」をわかる必要があるのかどうか、必要があるならば、どの程度の深度でわかる必要があるのかが見えてくる。特に生真面目な人間の頭は欲張りなので、何かを学ぼうと思うときにとりあえず目につくすべての情報を自分のものにしようとしてしまう。しかし実際のところ理解や記憶に使う思考力は希少資源だし、ほんとうにわかる必要があることというのは、解を出す上で実は大して多くなかったりもする。「わからんなあ」はあくまでただの「わからんなあ」であって、「だからぜんぶわからなきゃ」とは違う。そこを勘違いしてしまうと、あっという間に情報の波に飲まれ、考える事自体が嫌になってしまう。線引き、しましょう。

 


なんとなくここまで書き連ねてみて、「わかる」「わからん」がゲシュタルト崩壊してきたのでそろそろ終わりにする。ここまで話してきたのはあくまでも「自分ひとりでわからないことについて考えるときのこと」であって、ほんとうは「わからんなあ」と感じたら、すこしそれを寝かせたあとに他人にバーっと喋ってしまうのが一番いい。喋っていると自分が何につっかえているのかがわかるし、聞き手からフィードバックももらえる。何より「聞いてもらった」という満足感で、なんとなく気分が良い感じに収まってくれる。もしわたしがこのまま歳をとって結婚もせず家族も作らず一人暮らしをしていくことになったら、頭の良いオウムをたくさん飼って話を聞いてもらおうと思う。

「どうしてちゃん」はよく沼にはまって大変になることも多いけれど、生業なので仕方ない。用法用量を守って、これからもたのしく「わからんなあ」を続けていこうと思います。おしまい。

日常にかえる、とは

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犬、あっという間に逝ってしまった。肺炎を発症してからわずか2日半だった。2日半しか苦しまずに命の最後を全うできた、と考えるとすこし救われる気もするけれど、亡くなってからここ数日間、時間感覚が吹き飛んでしまっている。

 

これまで、「かなしい」という気持ちがどのような気持ちであるか、わかっていると思っていた。たとえば希望が叶わなくてかなしい、フラれてしまってかなしい、努力が報われなくてかなしい、とか、具体的な場面を挙げればいくつも出てくる。そうした場面にはいつも「かなしい」という気持ちが志向する対象があったし、その対象や事が起こった瞬間を考えたり思い出したりすると、胸がギュッとしたり、頭がどよんと重くなったりして、そのときに身体中を這うようなあのじわじわとした感覚を「かなしい」と呼ぶのだと思っていた。

しかし、亡くなってからこの4日間、わたしのなかには「犬のことを考えて”かなしい”を感じる」と明確に意識された瞬間はほとんどなかった。犬のことを具体的にあれこれ思い出しているわけでもないのに頭がぼーっとして、何も考えられなくて、わけもわからず涙がでる。涙がでる理由はほんとうにわからない。犬と散歩をした道を歩いても、お線香をあげても、お気に入りだったレタスをちぎっても、特別な情動が湧いてくることはない。なのに、ふとした瞬間に頬が濡れているのを感じて、手をやると涙が出ている。この感じを「かなしい」と呼ぶのだとすれば、わたしはわたしの辞書にある「かなしい」の項目を大幅に書き換えなくてはならない。これは、まったく自覚的な感情ではない。

 

犬が死んでしまっても、わたしの日々は変わらずに規則正しい時間を刻んでいく。犬はこのさき永遠に13歳7ヶ月のまま肉体の時間を更新することはなく、わたしの肉体は少しずつ女に、母に、おばさんに、おばあちゃんになっていく。そうやって自分だけ時間が進んでいくことの実感をいまはぜんぜん得られないけれど、目に見えないかたちで犬がいるようになったことを身体でも心でも感じられるようになったとき、「気づいたら、いつの間にか」くらいのさりげなさで、いつもの生活を取り戻しているのだと思う。これまで知らなかった「かなしい」を知って、見えなくなった犬とともに。

 

長い旅行から帰り、自宅まで残り3分くらいの近所を歩いているときの「もうすこしでいつもの生活に戻る手前の瞬間」がけっこう好きだ。その瞬間を感じるとき、胸のなかに独特な感触がある。声にしたら「アー」と漏れる意味のない嘆息のような、安心感と、すこしの疲れと、たのしかった思い出への満足感と、日常をふたたび動かすための準備に面倒くささを感じているような心持ち。いまはどうにもこうにもどうにもならないので想像がむずかしいけれど、どこかであの「いつもの生活に戻る手前の瞬間」を待っている自分がいる気もしている。その自分に会いに行こうと腰を上げたとき、きっとわたしは日常にかえるのだ。進むことも戻ることもない犬の身体を置いて、透明になったやつとともにまた歩んでいくのだと思う。

 

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花束を背負って透明になったきみへ。骨までかわいいなんてきみは天才か?おつかれさま。犬のかたちをして会いに来てくれてありがとう。

 

犬が生死の境目にいて、何が正しいのかわからない

今年14歳になる犬がいる。14年前、わたしが道端で死にかけていたやつを拾ってきて、それ以来この犬一匹のために母親が家出をしそうになったり新築の一軒家を買ったりと、まあ犬が我が家に与えた影響は計り知れないほど大きかった。ふわふわで、目がくりくりしていて、茶色くて、胴が長くて、ちょっとふとっていて、のんびり屋で、寝ることと食べることが大好きで、ほっておいてほしいくせに床に座ると必ずこっちに来ては尻をくっつけて寝る犬。うつくしい犬。おだやかな犬。

 

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その犬が、2日前から重い肺炎にかかっている。詳しい経緯はつらくなってしまうので書かないけれど、いまも動物病院のICUで酸素を全然吸い込めないまま、きっと眠れない夜を過ごしている。寝るのがあんなに大好きなのに、息がうまく吸えないせいでもう2日間くらいまともに眠れていない。それを思うだけで胸が苦しく、隔離部屋の小窓から手を差し込んで顎の下を撫でてやると虚ろだった目をほとんど閉じて眠たそうにしているのを見ると、とにかくはやくよく眠れるようになってほしい、と心から思う。

 

犬が肺炎にかかったのを最初に察知したのは妹だった。そのとき、偶然わたしも母も家をあけていて、次の日にならないと帰れない状況だった。ちょうど前の日に東京では信じられないほどたくさん雪が降ったので、わたしは犬を連れ出して道端でやつを遊ばせていた。もう14歳になるのに、犬は雪が大好きで大好きで、普段の散歩なんて分速5歩くらいしか歩かないくせに、その日ばかりは寒い中あっちへこっちへ駆け回っては短い足でかりかりと雪を掻いた。

 

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雪が似合う犬。うつくしい犬。

 

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肺炎の原因は雪の中を遊ばせたせいじゃないかと真っ先に思った。しかしお医者さまいわく、何が原因であるかはわからないらしい。歯の汚れから細菌が入ったせいかもしれないし、歳のせいかもしれないし、はたまた別の原因かも知れず、ともかく雪で遊ばせたから肺炎になったわけではない、ということだけを教えてくれた。べつに、だからといって気持ちが楽になるわけでは全然ないのだけど、今度犬が帰ってきて雪が降ったときは、全身にぴったり合うもこもこのジャケットを買ってやり、靴下を履かせて遊ばせようと思った。

  

母は、犬が危篤になったことを自分のせいだと思っている。最近犬がなんとなく元気がなさそうだったのは事実で、しかし急に寒くなったせい、くらいに思って、わたしたちは病院に連れて行こうとはしなかった。もう歳だし、病院に行って痛い検査をされたり、冷たい台の上に載せられたり、大量の苦い薬を出されたりするくらいなら、おだやかに家で過ごさせてあげたいね、と話し合っていた。

けれど、今回突然夜中に犬が肺炎にかかって、妹が電話をかけてきて、その瞬間から母はずっと自分の選択を責めている。どうして病院に連れて行かなかったのか。なぜ元気のない犬を置いて家を2,3日離れることにしてしまったのか。犬が肺炎にかかったとき、もっとなにかしてあげられることがあったのではないか。

仮に母が家をあけなかったとしても、この大雪のせいで駐車場には大量の雪が溜まっていたので、車を出して夜中に救急に連れて行くことは不可能だった。タクシーなんて走っていなかった。数日前になんとなく元気がなかった犬が突然肺炎になるなんて、誰も予想はできなかった。妹はほとんど寝ずに一晩中犬の世話をして、翌朝朝一番に10キロのケージを担ぎ、ひとりで1キロ離れた動物病院まで歩いて犬を連れて行った。

 

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 わたしは、犬が帰ってきたら、どうやって犬と過ごそうかばかり考えている。寒い思いをさせないように、さみしい思いをさせないように、散歩はこれくらい、餌の量はこれくらい、日中はカーテンを開けてたっぷり太陽を浴びせてやり、雪が降ったらもこもこのジャケットと靴下を着せてやる。

母は、犬が生死の境目にいることの原因ばかり考えている。自分のあれがいけなかったのではないか、これがいけなかったのではないか、どうしたら肺炎を防げたのか、自分の用事よりも犬を優先させなければ、この先犬と生活するのはむずかしいのではないか。

 

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 何が正しいのか、わたしにはわからない。原因ばかりを追求しても犬が苦しいことに変わりはない、と、どこか冷たい目で母を見つめてしまっている自分がいる。しかし、原因を探したい気持ちも痛いほどわかるし、やっぱり雪のせいかな、と思ってしまう自分もいる。犬が雪の中を走り回っていた動画を見ては涙がでる。また犬と遊びたい。はやく帰ってきてほしい。だけどいま、どんな気持ちで犬のことを考えれば良いのかわからず、苦しい。明日も朝から、犬に会いに行く。頼むからもう少しだけ一緒にいさせてください、どうか。

自作自演問答ノススメ

 

 

質問箱という匿名質問投稿サービスがこんなツイートをして炎上している。

 

 

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要は「匿名で質問や相談が投げられる仕組みに自作自演で質問を投げ込んでそれに回答をしている人間が14万人もいるぞ!」というぶっちゃけ。

サービスの作り手としてサイテー(たとえば質屋が店名を掲げた上で「いらっしゃるお客様のうち3割は絵に描いたような成金でございます!」なんてインターネットに書いたらどうだろうか)だなとか個人的な感想はまあ色々あるんだけど、一番あーあと思ったのは、「質問箱での自作自演が運営側にバレている」と周知させてしまったことにより「質問箱を使って自問自答をする人にダメージを与えた」ということ。おそらくこの14万人の中にはそのような使い方をしていた人が少なからず含まれるだろうし、実際にそうした指摘もあったようで、にもかかわらずこの対応だったので余計にがっかりしちゃったんだけど。

 

 

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質問箱の作り手が何を思ってこのツイートをしたのかはわからないけれど、おそらく「自作自演なんて恥ずかしいことをしている人がこんなにいまーーーす!いくら自演しても俺らにはバレちゃってますよーーー!いやあそれにしてもあなた恥ずかしいですね!質問がいっぱいくる人気者気取りですか!顕示欲がすごいですね~〜〜!」ということを言いたかったのかなと思う。あるいは、悪いことしても運営側は見てるよ、なのか。後者だとしたらもっと別のやり方があると思うので、やっぱり前者なんだろうな。

 

端的に申し上げて、「他人の顕示欲や承認欲求をあげつらって笑いものにする」というのは本当に本当に本当にダサい。もうええねんそういうの、と思う。

人には本能として顕示欲やら承認欲求やらが多かれ少なかれ備わっている。「人間の赤ん坊は母親に注目してもらわなければ生命がすぐ危機に晒される。だから大声で泣いてぐずって母親の気をなんとかひいて、自分の要求を分かってもらおうとする」とアドラー先生が言っていたように、他人に注目されなければ生きていけなかった時代の名残として、わたしたちはそれらを持っているのだ。いわばサルからヒトに進化するにつれて尻尾が短くなって尾てい骨になったのと同じように、そうした欲求は泣き声の退化系みたいなものだと思っている。まずはそれを認めてくれ。あなたにもわたしにもあの子にも顕示欲は存在する。そしてそれが外側に現れることだってある。他人に注目されたいことは何もおかしなことじゃない。

あるいは、他人より優れていたい、人気者に見せたいという人が一定数いるのだとして、それが一体なんなんだ。自分を大きく見せることがその人のこれまでの生存戦略だったんだよ。そういう競争環境で何年も育ってしまったから、他人よりなにかの数量で優っていることを自分の価値と考えている人もいるんだよ。それだけじゃん。それでいいじゃん。いい加減ほっといてやれよ。

 

 

で、やっと本題に入ります。自問自答の話。

 

『最果てアーケード』という大好きな短編集があって、そのなかのひとつに、病院の事務室に勤めて毎日それぞれの病室に手紙を配るおじさんの話がある。以下少しネタバレしてしまうけれど、物語の核の紹介。主人公の「わたし」が「おじさんに手紙は来ないの?」と尋ねると「来るよ、ほら。お姉さんがいて、2週間に一度くらい手紙をくれる」と言って、おじさんは引き出しをあける。中には綺麗な字で書かれた手紙がたくさん入っていて、最近はどうしていますか、とか、とりとめのないことが色々と書いてある。「わたし」がそれをじっと見つめていると、おじさんは「実はね、僕に姉はいない。だから、自分で自分にこうやって手紙を書くんだ。寂しい人だと思うかい?」と言う。「わたし」はおじさんに手紙を書くと約束するが、結局一度も書かないまま、母親が亡くなったその病院にも二度と行かなくなってしまう。

 

わたしはこの話がほんとうに大好きで、「自分に手紙を書くように書く」という書き方で日記を書き始めたのは、これを読んだことがきっかけだった。

自分で自分に手紙を書くということは、自分で自分を気にかける、自分で自分に問いかける、とも言い換えられる。お元気ですか?最近お変わりないですか?何か嬉しいことはありましたか?どうしてそんなにかなしんでいるのですか?なぜあなたは今それを選んだのですか?と、自分に問いを投げかけ続けることでしか、わたしたちは自分自身を知り得ない。

自問自答をすることは、言葉を手に取り、自分の中にある目に見えないものに形を与えることだ。言葉にしなければ問いは立てられない。たとえばその手段は手紙かもしれないし、インターネットの匿名質問システムかもしれない。あるいは日記を書くのもいいし、ひとり部屋で壁に向かって喋り続けてもいい。

 

わたしは、自作自演で全然構わないから、多くの人にもっと言葉で問いを投げかけてほしいと思う。自分自身に対して。さまざまな角度から見えないものを形にすればするほど、思考はより研ぎ澄まされていく。言葉を与えなければ、見えないものは見えないままなのだ。形にして初めて事実と推測と感情は切り離され、それらと適切な距離感を測ることができる。

そういう意味で自問自答はより善く生きるために欠かせない営みであると言えるし、それは他人とつながる手段でもあるように思う。問いに対して生まれた解を誰かと答え合わせしてみれば、案外他の人も同じようなことで悩んでいたのだなとわかったり、自分が問いを立てたことそれ自体が「そんな視点からの考え方もあったのか!」と誰かの救いになることもある。自分へ向けているはずの問いが、実は人そのものの根源を問う問いだった、なんていうことがあるのだ。だから、恐れずにたくさん自問自答してほしい。そして問い立てを通してたくさんのひととつながってほしい。

 

どうか、つまらない揚げ足取りの悪意などに負けず、自作自演の自問自答をじゃんじゃんやってくれ。そして質問箱運営サイド、てめーは自転車のペダルに向こうずねを思いっきりぶつけろ。わたしはこれからも皆さんからの質問をいつでもお待ちしております。

peing.net

 

 

 

かつて、自罰は苦しみと救いのあいだにあった


その昔、まだ女子高生で、膝上15センチのスカートをひるがえして毎日往復14キロの道を自転車でぶっ飛ばしていた頃、わたしは過剰にストイックだった。そして、ものすごい自罰主義者だった。
おそらくもともとの性格によるところが大きいのだけど、たとえば毎日決めた数の英単語をひとつでも時間内に覚えきれなかったら死ぬほどイライラしたし、98点のテストが返されたら悔しくて仕方なくて、その2点が取れなかった原因を徹底的に潰した。対人は不器用の3乗で、「迷惑をかけてしまった!」と自覚した日や、なぜかわからないけれど人とコミュニケーションがうまくいかなかった日には3日くらい立ち直れなかった。そしてひたすら、自分を責めた。お前なんて死んでしまえという生産性のない暴言が頭のなかで鳴りやまないこともあれば、ただ延々と「次に同じ場面に遭遇したら相手に対してなんと声をかけてどんな表情でどう喋るか」をロールプレイングしたこともあった。はたから見ればアホである。人生そんなロールプレイング通りにいくかよ。7年前は根がド真面目な上に強迫観念がすごかったので仕方ないけれど。


最近ツイッターで「メンタルやばいときって他人と関わるの死ぬほどつらいし自分のことだけでいっぱいいっぱいだよね」みたいな主旨を呟いたら、5万人以上のひとがリツイートしてくれた。そこにたくさんのリプライをもらったり、引用リツイートをしてくれたひとのコメントを読んだり、はたまた質問箱(匿名で相談や質問が投げられる例のアレ)やDMに色々な相談をもらったりして、おそらく100人以上のひとたちの声を聞いた。これまで、こんな短期間でこれほど多くのひとたちの心にしまってあるつらさに触れたことがなかったのですごく新鮮だったし、自分と同じように感じている人もいるんだなとわかったことがとても励みになった。ありがとうございました。

 

で、そのツイート経由で知らないひとから心や人間関係に関する相談事を持ち込まれることがすごく多くなったんだけど、それらを拝見する限り「アレ?」と思うことがあった。

相談してくるひと、9割方めっちゃストイック。なんなら超自罰主義的。似ているのだ、かつてのわたしに。
さっきから使っているこの「自罰主義」という言葉は、2秒くらいで考えた。自罰は自罰的という形容動詞がもとのかたちで、何かをやらかしたときに原因を自分に求めて自らを罰すること。主義はプリンシパルですね。自罰と自省は少し違って、自省はただ反省するだけなんだけど、自罰はそれに加えて「罰する」こと。

元・自罰主義者だったからわかるのだけど、自罰主義の厄介なところは「罰されないと苦しみに終わりがこないところ」だと思う。単純に反省して次からこうしようって思って終わりにしていいはずなのに、自分を過剰に責めてしまう。責めないと気が済まないし、それでどんどん苦しくなっていくのは自分だとわかっているはずなのに、やめられない。その姿を他人に見せることがそのひとを苦しめるということもわかっているのに、やめられない。はたから見れば、マゾヒストにもほどがあると思う。

わたしもとにかく過剰に自分を責めた。苦しくて仕方ないのに、どうして頭の中の声が鳴りやまないのかぜんぜんわからなかった。100人のひとが「きみは悪くないよ」と言ってくれたとしても、わたしは「お前が悪い」と言ってくれる101人目を探した。
質問箱に寄せられた相談を見ていると、あの頃の鳴りやまない罵声が思い出されて、懐かしいようなかなしいような変な気持ちになった。


どうしてああも自罰主義者であったのかをあらためて考えてみると、責めることとか、「お前が悪い」と自分に言い続けることが、わたしにとって救いだったような気がする。生きていれば「誰も悪くないんだけどタイミングが悪かったよね」とか「相性の問題だよね」というアクシデントは当たり前に発生するということが追々わかったわけだけど、16歳のわたしには、世界やコミュニティというものがものすごく不条理に見えて、ぜんぜんわけがわからなかった。年相応の物分りの良さと諦めが欲しかった。けれどそれらはそのときどうしても手に入らなくて、「なんでかわからないけどまたうまくいかなかった」という失敗ばかりを繰り返した。そしてその学習能力のなさにがっかりし、何もかもを受け入れられない自分は視野が狭くてつまらない人間なのだと思った。そう思うことでしか、自分のなかに起こっているかなしい気持ちやつらい思いに説明がつけられなかった。

かなしい気持ちやつらい思いに説明がつかないこと、それがいちばん苦しかった。この気持ちはどこから来るのか、この気持ちは一体何なのか、どうしてこんな気持ちが生まれるのか。16年しか生きていなかったからわからなかったし、「すぐにはわからなくてもいい」ということもわからなかったし、根がばかみたいに真面目だったわたしは、説明できないものを何よりも嫌った。だから、「お前が悪い」と自罰をすることでしか、それらの説明できないものを消化できなかった。自罰をすれば、それらはすべて綺麗に収まった。どうして苦しいの?だってあなたが悪いんだもの、と。 罰されれば、苦しみを感じることが許されるような気がした。自罰は、飲み込むことも吐き出すこともできない何かを噛み締めなくてはならない痛みを癒すための、唯一の手段だった。


他人が悪いとか、環境が悪いとか、そういうことはなるべく思いたくなかった。嫌われることが怖かったのではなく、その先の人生に絶望したくなかったからだ。悪いのはわたしのほうで、それをなんとかすればきっと世界は楽しくて明るくて豊かで、みんなと平和に調和していけると思いたかった。どこまでも期待したかった。いつか夜が明ければすべてがうつくしく見えると信じていたかった。そうでないと、この先もそんなおそろしいものに囲まれて生きていくことに耐えられないように感じられた。
16歳の自罰主義者に足りなかったのは、ありのままの外の世界のすべてを受け入れる勇気だったのだと思う。

 

24歳を2週間前に控えたいまは、外の世界のことを少しずつ冷静に受け止められるようになった。良くも悪くも信じられないような偶然が起こることや、誰も悪くないのにみんながかなしい思いをすることもこの世には当たり前に存在するし、誰かや何かを責めても責めなくても、おなじように朝が来ることを知った。
わたしがいまこれを書いているのは、かつてのわたしのようにいま自罰で苦しんでいるひとに「目をひらいて」と伝えたかったから。「あなたは悪くない」とか「ちょっと冷静になって考えてみようよ」なんて言ったって、きっとあなたには届かない。あなたの痛みは、たとえ歪んだ認識から生まれたものであったとしても、間違いなく本物で、いまもあなたを苦しめている。だからわたしはこうして、手紙のようにあなたに書くしかない。目をひらいて、と。目をひらいたわたしを見て、と。言われたってわからない。気付くことでしか得られない。こればかりは。だから、わたしを見てください。目をひらいたら、まあそれでも受け入れられないことは星の数ほどあるけれど、なんとか生きてこられました、少なくとも7年くらいは。「生きてこられた」なんて大嘘で、ほんとうは「生かされていることを知った」なんだけど、それは長くなるのでまた別の機会に。

 

あなたの苦しみに、いつかやわらかな陽が射し込みますよう。

 

 

質問箱に答えたよ_20180116

質問箱が相も変わらず大盛況なので、こちらで何名か分まとめて答えました。答えられなかった方、ごめんね。また今度やるね。

 

 

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個人的には恋人って家族みたいなものだと思っていて、恋人/家族という分け方は何か大切な軸を見落としかねないと思う。生まれ育った家族を優先することと今付き合っている恋人を優先すること、それぞれの自分にとっての意味とメリットをよくよく考えてみては。

 

 

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そもそも「本当のもの」がこの世にあると思い込んだ時点で苦しくなるに決まってる。だってそれが本当に本当に本物であるかどうかなんて、誰も判断できないから。そして、たとえそれが本物だろうと、本物を手に入れたからと言って幸せになれるとは限らない。

どういうことかっていうと、つまりは恋とか道徳とかが本物だとか偽物だとかそんなことに大した意味なんかなくて、一番大切なのは、あなたがいましていることや考えていることはあなたを幸せにしているかということ。幸せじゃないなら、いますぐ自分を幸せにしてやって。

 

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愛を失う怖さゆえに愛する相手を傷つけ始めたら重い

 

 

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恋と愛を分けるのが賢明では。愛されたことがないなんて嘘だよ。愛されていることに気がついていないだけだよ。人間誰にも愛されずに生きてこられるはずがないんだよ。恋が難しいなら、まずは愛から始めてはどうですか。あなたをこれまで愛してくれたすべての人について、真剣に考えたこと、ありますか。

 

 

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何歳でも怖いものは怖いから気にしないで。わたしあと2週間で24歳になるけど、電車に乗るのと目のでかいチワワが怖くてしょうがない。

上から目線な言葉になってしまって申し訳ないけれど、「うまくやろうとしても絶対うまくいかないから、誰かに気に入られようとせずに自分がかっこいいと思う自分だけをやっていってください」です。

 

 

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物理的には不自由してないかもしれないけれど、満たされていないのならそれは不自由しているということなのかもね。豊富に与えられることだけが豊かさではない、ということに気がつけるチャンスをその歳で得られるのはすごいと思う。このさき運が良ければ何十年かは生きると思うけれど、案外すぐ死ぬし、明日自分が無事である保証もないし、今のうちにいっぱい思い出作りしておきなね。

 

 

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あなたが親にどう育てられたかとあなたがどういう人間であるかは関係ない。きびしい言葉かもしれないけど。

極端な例を出すと、子どもの頃虐待を受けた人は「子どもを産んだらどう愛していいかわからない、自分も自分の母親のように子どもに手をあげそうで怖い」と言う人と「自分がつらい思いをしたから、子どもには絶対つらい思いをさせない、あたたかい家庭を築く」と言う人にだいたい分かれるの。要は、あなたがどういう人間になりたいかなんじゃないかな。前向きになりたいなら、悔しさをバネにして跳ぶもよし。きっと同じように豪快で明るい人たちが周りに集まってくるはず。ジメジメしたいなら、鬱屈した気持ちをSNSに書き綴るもよし。きっと同じように苦しんだ人たちがあなたに救いを求めてやって来るから、そのときあなたは「自分だけじゃなかった」と救われるでしょう。どうやっていこうといいんです。あなたはどこまでも自由。

 

 

不安定歩行の効用

 

外に出たくない。必要最低限以外の刺激がなるべく少ない日々が必要だ、いまは。他人には見えない冬が永い。

 

自信のないときほど、どうしても外に出なくてはならないときはヒールの高い靴を履いて外出する。「気持ちを上向きに」なんていう洒落た理由では全くない。安定の悪い靴を履くと、否が応でもバランスを取るために集中して歩くようになるからだ。頭がぼーっとしたり、ごちゃごちゃした状態が脳を占拠しているときは、とにかくひとつのことに意識を向けるようにしている。わたしの場合、それは歩くことなのだ。普段ハイヒールを履き慣れていないので、とにかく慎重に、ゆっくり歩くようになる。地面に足の裏が接していない不安定感、バランスを取らないとつまずきそうになる緊張感。たぶん、すごく変な顔をしてすごくゆっくり歩いている人だと思う。はたから見たら。

馴染みのない不安定感や緊張感に身体を少しずつ馴染ませながら、地に足をつけられることのありがたみを感じる。裸足が大好きだ。とにかく頭が先走っていろいろなことを考えすぎてしまうときは、こうやって荒療治のように感官の世界をひらくようにする。ほんとうのほんとうに無理の極みにいるときは、それすらできないんだけど。

 

散歩が好きだ。走りに行くのも好き。スポーツが好きなのではなく、外の空気を吸って太陽にあたり、歩いたり走ったりして身体を適度に緩ませるのが好きなのだ。どんなに調子が悪くても、家から5メートル半径しか歩けなくても、1日一度は外に出るようにしている。空気がつめたい。体が冷える。吸い込む外気が喉を刺す。北風の鱗が頬を殴る。そんな単純なことですら「生きているなあ」という感じがする。それをうれしいと思えるところまで、なんとか回復したい。春がくるまでには。