きみのお祭り

死ぬまで盛り上がっていけ

「もっと甘えてよ。弱い姿、見せていいんだよ?」「ご冗談を……」

 

「もっと甘えてほしい」「弱い姿を見せてほしい」とか言われると、すごく困る。だって、誰かに「甘えて」救われた経験なんて、ただの一度もないので。

 

「甘える」とは一体どういうことなのか。いまだによくわからない。「お言葉に甘えて」「彼女は甘えた声を出して」「赤ちゃんみたいに甘える」コーパスはたくさん出てきますが、こと恋愛っけのある相手から発される「もっと甘えて……」には困惑しっぱなしの人生でした。だって、なに?それ……。よくわからない……。

 

「ごろごろニャ〜ン♡」みたいなテンションのことだろうか。それとも「ね〜さみしいの〜かまって〜♡」というテンションのことだろうか。それとも「バブー!ウキャキャ♡」というテンションのことだろうか。どれもご遠慮願いたい。

 

だいたいこれまで異性から発される「甘えてほしい」という言葉は「弱い姿」とセットになっていたように思う。

 

わたくしは、外側から見るとえらくキビキビハキハキしていて隙がないらしい。オフの日などは内臓が喉から見えるほど脱力しているにもかかわらず。だから、そういうわたしを見た男性が「この子はきっといつもすごく頑張ってるんだろうな」「だけどたまには肩の力を抜かなきゃだよ」「ほら、甘えて?」になるんだろうな。それも「自分にだけ甘えてくれる」というのがどうやら良いらしい。俺にしか見せない顔。俺にしか見せない本音。そういう「人間くささ」みたいなのをじぶんだけが知っている、ということに、嬉しさとちょっとの優越感を覚える、らしい。そういう生きものは。

 

わたしは他人にそうした「弱い姿」を見せて気持ちが楽になった経験などほとんどない。むしろじぶんの弱さを言語化して理解できているのであれば、他人に頼らずとも自力でたいてい解決できる。でも雰囲気を壊すと悪いので、その場では「うーん」とか言って最近の悩み事を軽く話してみたりもするが、それへのレスポンスは経験上100%役に立たないし何かを癒やしてくれたりもしない。「俺に甘えてほしい」というリクエストを満たすためにそれらしき顔でそれらしく応えてきてみたが、近頃はバカバカしくなって、そういうことを言う人に対して「そういうことを言われるのは好きではないし、困るし、あなたにしか見せない顔はない」と宣言する。ほんとうのことです。ほんとうの。

 

癒やしとは、どこにあるのか。わたしは、他人に対して「弱っている自分に手を差し伸べてほしい」とはほとんどの場合思わない。あなたが発する光を浴びて勝手に目を覚ましたい。夢見心地で答えの出ない沼に倒れ、いままさに口と鼻をふさがんとしている泥の視界に、強烈な光を放つ人がいてほしい。わたしという対象に向かって何かをはたらきかけてくれる必要などない。勝手に楽しく、激しく、あざやかに生きていてくれ。その姿を捉えたとき、「わあ」と歓声をあげて立ち上がるから。それこそがわたしにとっての癒やしです。十全に、十分に、光を放って強烈に生きていてください。それだけです。他人に求めることは。

 

さみしさとは空腹のこと/霧みたいなルームメイトが欲しい

さみしいと、お腹が減った気がする。食欲の秋とはさみしさの秋だ。肉体から発される空腹とさみしさから生まれるまやかしの空腹が綯い交ぜになって、体の力が抜けてしまう。それが秋。秋という季節。

 

さみしくて仕方ない。理由はない。人間は理由なくさみしいと感じるようにプログラムされた生きものです。されど人のいるところやザワザワしているところに行くとすぐに調子が悪くなるので、うかつに外を出歩きすぎたくない。2日連続で都心に出ると、3日目の朝にはかならず熱が出る。まったく難儀だね。でもさみしいという感覚はたしかに内側にあって、それを満たすためにお腹が減ってしまうのだ、やたらと。

 

完全フリーランスで仕事を始めて半年が経ち、気づいた。書きもの仕事をしていると、基本的に家から出ない。誰ともしゃべらない。初めは静かでいいのだけれど、数日経つとすこしずつおかしくなっていって、気づくと膨大な空腹感に押しつぶされている。しかしまだ理性が働くので、大量の白湯などを飲んでごまかせる。それでもやはり何かを口に入れやすい環境ではあるので、アイスクリームやチーズ、カフェオレをちょこちょこ摂っては腹回りにさみしさの贅肉ができあがっていく。そろそろこの渇望感、断ち切りたい。

 

どうしたらいいんでしょうね?現在実家ぐらしですが、生活環境がもとより少し特殊なので、ほぼ一人暮らしのようなものです。だから実家を出ても出なくても良いのだけど、まあ出る方に傾きつつあります。なんとなく。飽きました。

 

ルームシェアなども考えたけれど、テリトリー意識が強い上にちょっと神経質なので、他人と共用スペースが多いとまず間違いなくお互いに精神が破綻するのではないかと危惧している。お手洗いは共用でもいいけれど、キッチンは広くないと共用じゃ嫌だ。冷蔵庫はまあ共用でも良いでしょう。お風呂と洗面所は私用がいい。わからない、住み始めてみたら案外妥協できるものかしら。お風呂掃除の仕方とか、食器の洗い方とか、洗面所の使い方とか、洗濯かごの使い方とか、気になっちゃう。潔癖症の人とはたぶん暮らせるんじゃないだろうか。潔癖症で几帳面だけど人と住みたい人とか、ルームメイトとして理想かもしれない。あと、話し声と足音が静かだったらパーフェクト。気配は極力消していてほしい。わたしも消しているから。けれど週に2回くらいは夕ご飯を一緒に食べたり、仕事の合間のティータイムにときどきおしゃべりしてくれたらうれしい。霧や蜃気楼と同居するしかないのだろうか。

 

住まいとしていちばん理想的なのは、ビジネスホテルのような住まいに各々のキッチンと、コワーキングスペースがついているようなところ。アパホテルコワーキングスペースと私有キッチンがあればちょうどいいと思う。月10万なら契約したい(ベッドメイキングと清掃、洗濯はもちろん各自)芙美子社長、いかがですか。

 

わたしにはとにかく「じぶんルール」がものすごくたくさんあって、そのルールをひとつひとつ守って生活をすることが大好きだ。逆にそれを守れないとすぐに気持ちや体がダメになる。超・わがままボディ。まあ、いいでしょう。貴族のお姫様のようなものです。

読書メモの効率的なとり方を知りたい

仕事上、分野横断的に本を読むことが多い。種類や領域はなんとなく似通っているけれど、歴史や文脈はまったく違う種類の本を大量に読むことがしばしばある。たとえば最近だと産学官連携、大学入試、英語外部試験、教育改革、発想法あたりかなあ。

一冊一冊から必要な情報を抜き出しその都度手でアウトプットするという作業の煩雑さもさながら、アウトプットした情報の管理も非常にむずかしい。大学1年生の頃読んだ外山滋比古氏の思考の整理学ではカード上のものに情報をストックすることのメリットが語られていたし、最近だとpha氏が知の整理術のなかでノート上での読書メモとオンラインサービスを利用した読書メモの2つの使い分けを提唱していたけれど、いずれの方法も手馴染みがわるくあまり長続きしなかった。

というのも、カードに関しては、あらかじめカード上の書けるスペースが限られているため、重要だと感じた情報をそこまで多く書けないことと、その分カードを増やしていくと今度は失くしたり順番がわからなくなったりするなどのトラブルが多発する。ノートやオンライン読書メモに関しては、「どのページに何を書いたかわからない」「ある程度近い分野の本同士はノート上で分類をしたい(たとえば、ここからここらへんまでは産学官連携、ここからここらへんまでは大学入試)が、一度書き込んでしまうと順番を入れ替えることが不可能」などの理由が挙げられる。そしてやはり、活字として印刷されているものをもう一度じぶんの手でどこかに移植するという効率のわるさに、どうしても居心地の悪さを感じてしまう。たとえばこれが座右の銘とか、人生観にかかわる大切にしたいフレーズなどであれば、手書きで日記などに書いておくことは全然オッケーなのだけど……。大量に情報をインプットしそれらを相互に関連付けたり、そこからなにか発想を生み出したりしようと目的で読書をしているものは、読んで手で書き直す暇すら惜しい。要約して極限まで文字数を減らしてアウトプットすることは可能であれど、その先には管理の手間という壁がそびえている。

読書メモ、どうとるのが効率的なのでしょうね。どのようなことについてメモを残しておきたいかというと

  • ある分野において時系列的に起こった変化や出来事。中でも特にインパクトの大きいイベントについては、その関係者と原因と結果について。
  • 複雑な、あるいは新しい概念や定義について、その内実とそれが生まれるまでの経緯。
  • ある抽象的な概念や定義の具体例。
  • 使い慣れていくことでより使い勝手の良くなる手法や思考法。

もうすこし深掘りすればいろいろと細分化できそうだけど、ひとまずはこんな感じ。これらを「アウトプットと管理の手間がなるべくかからない形」で残したい。贅沢でしょうか。でも絶対あると思うんだよなあ、なにかいい方法が。皆さんの読書メモのとり方、ぜひ教えてください。

そろそろトラウマを手放さなくてはならない

 

トラウマと位置づけてしまっている記憶は、なかなか手ごわい。
その記憶はいまこの瞬間のじぶんを傷つけているわけではないのに、ときどき生々しく「そのとき」を再現しては全身をヒリヒリさせる。目を瞑って眉間にしわを寄せて、しばし耐える。過ぎ去る。はーっとため息が出る。アーと誰に宛てるでもない声が出ることもある。

 

ほんとうに、ふしぎだ。トラウマはいまこの瞬間のじぶんを何も傷つけやしないのに、いつまでもその経験がいまのじぶんを不幸にする。思い出したくなどないのに、ときどきうっかりその再生ボタンを押してしまう。
経験の意味づけはじぶんしかできないし、わたしたちは主観的に意味づけられた世界にしか生きられない。「幸せでありたい」という普遍的な願いを誰もが持っていて当たり前だと皆思いこんでいるのに、ときどき、ほんとうに幸せでありたいのかわからないような行動をとってしまう。トラウマを「作る」ことは、その代表的な行為のひとつだ。

 

幸せであるために、不幸や苦痛の記憶との向き合い方には二通りある。ひとつは、それらを完全に抑圧しダストシュートへ放り込んでしまうこと。いわゆる「忘れる」というやつ。しかし賢明な皆さんはお分かりかと思うが、これは何の解決にもならないし、向き合うというよりは逃げである。逃げるのもいい。目の前の現実に手一杯なときは、忘れて逃げるしかないということもある。けれど、逃げ続けていると死ぬまで追われるので厄介だ。なにより「これは逃げだ」と自覚しながら生きることほど、息苦しく後ろめたいことはない。

 

もうひとつは、その経験に不幸や苦痛という意味づけをしないこと。それは「あのときはああいうことがあって、そのときのじぶんはこう感じていた、こう思った、つらかった、苦しかった」と認めたうえで「でも、いまのじぶんはそれに苦しめられているわけではない」と、過去といまを切り離してしまうこと。これは至極当たり前なのだけど、心に一時的にものすごい負荷をかけたときの状況や人はいま目の前には存在していないわけで、少なくとも「過去」は苦しかったとしても、「いま」は苦しくない。過去の経験がいまのじぶんに影響を与えていたとしても、それがいまのじぶんを苦しめるかどうかは、実はじぶんで決めることができる。苦しみたいのなら、苦しめばいい。苦しみたくないのなら、手放せばいい。それだけだ。

しかしこう書くと「手放せるものならとっくに手放している」「お前は本当の地獄を知らないからそんな悠長なことが言えるのだ」というお叱りが飛んできそう。ええ、確かに。わたしが経験したことなぞ、本当の地獄と比べたら大したことはないかもしれない。けれども、それなりにつらかったことはあったし、いまも手放せないまま苦しいと感じることがいくつもある。

 

なぜ、焼けた石を飲み込んでしまったかのように、苦しい記憶をいつまでも手放せないのか。考えて、考えて、考えてみたけれど、やはり最終的には、じぶんがそれを手放すことを望んでいないからなのだろうな、と思う。

 

苦しい記憶は、アイデンティティとつよく結びつくことがある。あの辛酸を嘗めた経験がいまのじぶんを形作っている。あの苦痛を乗り越えられたのだから、ちょっとやそっとじゃ折れやしない。そういう矜持を、わたしは実はたくさん持っている。けれど反面、そのときの感覚は鮮やかな写真のようにしっかりと全身に刻み込まれ、すこし弱気になるとすぐにこちらを脅かしてくる。

これがおそらく、わたしのトラウマの正体。苦しさを手放して幸せになるよりも、つらさをガソリンにどこまでも走り続けることを選んだ。けれどほんとうのところ、何かが違うとじぶんがいちばんよくわかっている。こんなことをしていても、ほしいものは手に入らない。どころか、幸せであるためには何が必要であるのか、実はまじめに考えたこともあまりない。ただただ強くあることが不幸を追い払い前進させてくれるはずだという一握の希望だけに突き動かされてきた。では、進んだ先には何があるのか?光り輝く未来か、それとも、殿上人の極楽か。わからない。知らない。走り続けることで何が幸せであるかを考えることから逃げてきた。

 

幸せでありたいのであれば、まずは、手放さなくてはならない。じぶんの記憶に「苦しい」という意味づけをやめ、「苦しかったが、いまは苦しくない」ということをわかる必要がある。そのうえで、じぶんが手に入れたい幸せとはどのようなかたちをしているのか、それを手に入れるためには何が必要であるかも考える。不必要なものは順次手放していく。これしかない。これしかない、ということに気づくのにも、ずいぶん時間がかかってしまった。

 

たぶん、わたしは幸せになりたい。「いまを乗り越える」だけでなく、いまを乗り越えてどうしたいのかを考えなければ、一生ゴールのないマラソンを走るハメになる。どこへ向かって走っているのか、そもそも走る必要があるのか、だんだんわからなくなってきた。何からやれるか、どうやれるか、わからないけれど、まずは一旦足を止めて、トラウマをトラウマから解放することから始めようと思う。

 

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夏の空 カモメ

 

深堀隆介氏の「平成しんちう屋」行ってきました

  

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平塚市美術館で展示している「平成しんちう屋」に行ってきました。

透明樹脂にアクリル絵の具で金魚を描くスタイルで一躍有名になった深堀隆介氏。ネットで前々から知ってはいたけれど、なかなか作品を見る機会がなかったので行けてうれしかったです。

 

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市立美術館なこともあり、展示スペースはそこまで広くないけれど、見ごたえは十分。むしろ普段美術館に行くたびに「広すぎて疲れる……」と感じていたので、個人的にはちょうどよかったです。金魚というテーマのミニマルさにもぴったりだった気がする。

  

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 展示室に入る前のスペースに飾ってあったこちらは、先日行われたイベントで深堀自身がその場で描いたライブペインティングだそうな…これをライブペインティングってものすごいな…。

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既に何枚か貼った通り、透明樹脂とアクリル絵の具で生きているかのような立体的な金魚を創る作風がとてもユニーク。金魚酒に代表される枡に入った金魚だけじゃなくて、どんぶりやお弁当箱、筆洗などなど、いろいろなものに金魚が入っているのがおもしろい。2011年を境目に作品の質がガラッと変わっていて、12年以降は立体感がさらに増している。そのあたりの作風の変化を見比べたりしながら行きつ戻りつするのも楽しい。

 

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樹脂の立体作品ももちろん素晴らしいけれど、個人的には平面の絵画がものすごいヒットした。「生きている」というよりも「金魚のかたちで命を与えられたなにかがそこにいる」という生の感触にゾワゾワする。


会場には縦横数メートルにおよぶ絵から数十センチサイズの絵まであったけれど、どれもこれも観察力が常人のそれではない。ヒレや尻尾の透明感とか、目玉のやわらかさとか、鱗のヌメッとした感じとか。

立体作品の中にいる金魚は「華やか」という言葉がしっくりきて、平面の絵画として描かれている金魚は「生きもの」という言葉がしっくり来る。金魚への強い愛を感じたし、その愛を餌にした金魚が優雅に泳ぐ様子がはっきりわかる。

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なんというか、この人は金魚という生きものをじぶんの手で「作り直した」のだと思う。金魚というかたちを保っているし、実際これらは紛れもなく金魚なのだけど、ここにいた金魚たちは深堀氏の手によってしか存在し得ないんだろうな。 

 

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平面の絵画はほとんど撮影できなくて残念。今アップしている写真は、最後の展示スペースにある最新のインスタレーション「平成しんちう展」のもの。ここは自由に撮影OKなので、ぜひカメラを持って行ってみてください。

 

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展示スペースに一歩入ったところはこんな感じ。くわしいコンセプトなどは行ってからのお楽しみ。

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立体も樹脂以外にユニークなものが多くておもしろい。ものすごくおおきな金魚の骨格とか、瓦礫にスプレーで金魚を描いたような作品とか。思うに、この人は興味の方向性が少し違ったらめちゃくちゃイケてる生物学者になったんじゃないかと思う。芸術として表現し直すといういとなみと同じくらい「生きものを捉える」というのがうまい。いのちに対する敬意や畏怖が作品の所々から感じられました。

 

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平日のせいか人はかなりすくなく、館内は静か。教会みたいな雰囲気の美術館だった。東京の商業的な美術館のスタイルを見慣れていたので、こういう雰囲気の美術館に久しぶりに入ってものすごくワクワクする。

 

平塚市美術館は駅からけっこう歩くので、バスで行ったほうが良いです。特にこんな炎天下の日々は……。しかし東京から往復3時間、交通費3000円をかけて行く価値はじゅうぶんにあります。おすすめです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

20180711 慢性的な疲れ

 

慢性的な疲れがずっととれていない気がする。いつからなのかは、正確には思い出せないけれど。

 

疲れると、たいてい寝るとか食べるとか、あるいは体を動かすとか、整体に行くとか、そういうことをしてきた。だけど最近やっと気づいたのは、そういうやつじゃいい加減誤魔化せないってこと。地面の上に「日々の疲れ」がドスンドスンとブロックのように乗っていて、食べる寝る運動整体などをするとそのブロックは消えるんだけど、そもそも地盤がグラグラなのだ。病院に通っても何をしても、ずっとグラグラ。それがおそらく人生をすこし暗いものにしてしまっているのかもしれない、と思う。

 

地盤の歪み。いつからだろう。いつからわたしは「疲れた」と感じるようになったのか。

 

小学生の頃はたぶん、ほとんど感じていなかったと思う。初めて「疲れた」と意識して口にしたのは、中学生の頃だった気がする。そのときはけっこう切実に「生きているの、疲れた」と思っていた。たぶん、あのときからなのかな。ずっと疲れているのは。

 

小学生から高校生が終わるくらいまでにかけて家庭環境がかなり荒れていたなかで育って、そのなかにいることに「疲れてしまったんだ」と気づいたのが14歳くらいの頃のこと。いらい、ずっと居場所がない気がしている。心の休まる場所がどこにもない。誰かと一緒にいるのもすごく疲れる。誰かと付き合っていてもそのひとの隣が自分の居場所だと思えることはほとんどなかった。自室にひとり引きこもっているのがいちばんいい。結婚は同じマンションの中に二部屋とかで、軽い別居婚くらいがいい。

居場所がない、というのは、安心できる場所がないということに等しい。安心できる場所がないと、地盤の歪みはきっと解消されない。ここがわたしの安心できる場所、という場所を見つけられるまで、きっとずっとなんとなくいつも疲れていて暗いままだ。

 

かつて欲しくて欲しくてしかたなかったけれど、結局手に入らなかったもの。このさきどうがんばったってそれは手に入らないし、べつのかたちを見つけて満たしていくしかない。それが「癒やす」ということなのかな。どうしたらこの疲れは、癒やされていくのかな。

 

 

 

unreasonableを忘れてはならない―『聖なる鹿殺し』感想メモ

 

unreasonable―不合理な、無分別な、気まぐれな、非現実的な、筋の立たない、理性に従わない

わたしなら、この単語に「わけのわからない」という訳をあてる。

 

わたしたちは、想像力と言語なしにunreasonableの恐ろしさと向き合うことはできない。unreasonableの恐ろしさとは?理解ができない、法則を見いだせない、予測ができない。だから昔の人々は、神を作り上げることでunreasonableと自分たちとのあいだに線引きをし、ギリギリの防衛をした。言語で名前を与えて線を引き、想像力でunreasonableの存在をさまざまに仮定しなくてはならなかった。なぜ天から滝のような雨が降り、激しい稲妻が走り、河が怒り狂うのか。なぜ子どもの身体が急に熱を持ち、呼吸が乱れ、やがては生命まで奪われてしまうのか。サイエンスが発展していなかった頃の人間にとって、それらはすべてunreasonableだ。理由は誰もわからないし、それらはランダムに起こっては人々にたくさんの痛みを与える。ゆえに、それらに"unreasonable"とラベルを貼り箱に放り込んでしまうしかなかったのだ。

 

サイエンスが昔よりは発達したいまも、わからないことや解決できないことは相も変わらず山積みになっている。世界中の人々と一瞬で通信して、鳥の目から都市を見渡せるようになったわたしたちは万能感に騙されて、実は昔と変わらない態度でunreasonableを自然と遠ざけている、ということを忘れている。

 

引用:http://www.finefilms.co.jp/deer/

 

聖なる鹿殺し』はまさに、人間がunreasonableに正面から直面する映画だった。なぜスティーヴン(主人公)の家族の健康や、平穏な暮らしが刻々と奪われていくのか。なぜたった一人の少年が、恐ろしい呪いをスティーヴンの家族にかけることができたのか。そうしたことに関する説明はこの映画では一切なされない。スティーヴンは、数年前の自身の医療ミスがこの呪いの理由であることを自覚している。自分の過失で他人の家族を奪ったのだから、自分の家族を一人差し出さなければならない。「殺してしまったから誰かを殺さなくてはならない」というunreasonableを、否応なしに主人公も観客も呑み込まざるを得ない。生贄。生死という神の領域に人間である自分が立ち入ってしまったことへの償いなのか、それとも単純に人を死なせてしまったことに対する償いなのか。冷静になってみれば何もかもがunreasonableで、ふつうに話を聞けば「えっ、何それありえなくない?」と受け流してしまうような事態を、当たり前のように観客にすら呑み込ませる。この映画は、unreasonableの見せ方がものすごくうまかったのだと思う。

 

劇中、スティーヴンは気が触れているような行動を繰り返す。入院して食欲のない息子の口に無理やりドーナツを詰め込んで窒息寸前に追いやったり、少年を誘拐して自宅の地下に監禁しひどい暴行を繰り返したり、果てには「生贄」を決めるために家族全員を拘束し、自分も目隠しをして誰かを殺すまで発砲を続けた。

わたしたちは普段、 reasonableな世界のなかで、秩序、ルール、習慣、規則、法則に守られて暮らしているのだ。それらを守っているようでいて、実はこちらが守られている。しかし、ほんのすこしのunreasonableがその影をわたしたちの生活に落としたとき、わたしたちはあっという間にあちら側に飲み込まれていく。

もともとわたしたちは、混沌の中から生まれたのだった。地球上に人間という生命体が誕生したのは、水をいっぱいに張った25メートルのプールに、時計の部品をすべて分解して投げ入れてかき混ぜて、その部品のすべてが時計として完璧に組み上がり、秒針が0から1へと動くのと同じ確率だった、と何かで読んだことがある。つまり、わたしたちはもともとunreasonable側から生まれている。カオスに落ちるのまでに長い時間は必要ない。人が秩序や規則を作ったのは、その上にreasonableという城を築くことで、集団で暮らす知的な生命体として平穏な日常を手に入れるためだ。実はunreasonableのほうがはるかに「自然」であって、reasonableのほうが本来的には不自然なのかもしれない。一瞬でunreasonable側に落ちていく彼らを見て、そう感じた。

 

ゾクッとするのは、unreasonableは意識していないだけでいまも当たり前のようにわたしたちの生活に潜んでいる、というよりも、どの瞬間にもわたしたちはunreasonableと隣合わせであるという事実。そしてそれを忘れてしまっているということ。事件や事故が起こるたびに「なぜあの人が」という声を聞くし、わたしも家族を亡くしたときに、「なぜ」と何度も思った。reasonableな世界の端がめくれ、unreasonableが一瞬顔を覗かせとき、わたしたちは勝手にいろいろな理由をつけてそれらしく納得している。けれどいまだに、人をはじめとした生きものがなぜ死ぬのか、なぜ自分自身が生まれたのか、誰もわかっていない。そして「わかっていない」という事実を忘れている。

 

ほんとうは、毎日のどの瞬間もわたしたちはunreasonableに包まれている。『聖なる鹿殺し』はそれをまざまざと思い知らせてくれた。