きみのお祭り

死ぬまで盛り上がっていけ

「バーニラ、バニラ、バーニラバニラ 後ろの正面、だーれ?」

デスクトップに常時開きっぱなしにしているstoneに、毎日ちょこちょこ何かを書きつけている。ほんとうに、気づかないうちに。そしてはっと気づいたら窓がいっぱいになっていたので、ひとまず並べておく。メモを書きつけている感覚だったけど、日記なんだなこれは。頭のなかのメモリを開放するためには、やはり日記を書くのがいちばんいい。このタイトル、何も考えずに浮かんだ七五調。なのになぜか、どこかが怖い。意味わからん。

 

stone

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 stoneはものを書くひとみんなにオススメ。

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20181130 

田舎にふらりと逃げ出すことがある。仕事が詰まりすぎたときとか、じぶんが何を考えているかよくわからなくなっちゃったときとか。けれども、すこしすればまた東京に帰ってくる。車窓から山が消えて、緑が消えて、四角い建物が増え、電線が少しずつ空を細切れにしていく。そうやって東京に近づくたびに、わたしは、じぶんの時間が東京の速度へと近づいていくように感じられる。耳鳴りが響くみたいに視界の幅がどんどん狭くなって、両端に高い壁がそびえるような。目まぐるしく流れる空気を何よりも嫌っているのに、気づくと、ビー玉のように生気のないわたしがその流れのひとつになって。こうして人は東京の空気を対流させていくのだなあ、と思う。

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20181127

どうして、言葉を手にする必要があったんだろう?

なにか、歳を重ねるごとに誤解を深めていっているような気がしてならない。ひとはもともと、じぶん以外のひとの考えていることや思っていることなんてどうしたって知りようがない。知りようがないのは、知る必要がないからなのだと思う。

けれども、まるで他人の考えていることをすべてわかっているように勘違いしてしまうことがある。それも、割とよく。「じぶんが考えるAさんの考えているであろうこと」を「Aさんが考えていること」にすり替えてしまうのだ。そのせいで無駄に悩んだり落ち込んだりすることさえあって、振り返ると「あれは無駄な時間だった……」と苦笑いをしたこと、きっとわたし以外のひとにもあるんじゃないかな。

他人の考えていることなどわかるはずがないし、知りえるはずがない。その事実をときどき、ちゃんと思い出す必要がある。

そういう意味で、「予想外のひと」というのは、案外心の健康にいいのかもしれない。「なんで?」「どういうこと?」と問いかけたくなるような言動を連発するひとは、一周回って「そういえば、他人とはそもそも理解し得ないものだった」ということを、非常にわかりやすく、気持ちよく教えてくれる。言葉や態度で「示して」くれるのではない。そのひとの生き様そのものが、わたしのなかから、忘れかけていたかたちを掘り起こして気づかせてくれるのだ。

仕事ばかりしていると頭がどうしても合理性の方に寄りがちだけど、利害関係の絡まない生活で「予想外のひと」が突然現れるのは、実はとてもありがたいことなのかもしれない。ギフト。すごいギフト。

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20181125 

一人でいるときに感じる孤独より、二人でいるときに感じる孤独のほうがずっとさみしく、根が深い。

他者がいなければ、ひとりにすらなれない。

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20181120

秋から冬に変わる季節の空は、14時頃がいちばんさみしい。真っ青でも、どこかがいつも白くて、くしゃみが出る。

日課のランニングの時間が、ずいぶん早くなってきた。わたしが毎日夕方に走るのは、時間の境目をじっくり眺めていたいからだ。そのなかを走り抜けたいからだ。

16時にはもう凛と冷えた空気が張りつめ始め、夜がそこへしとしと落ちてくる。その一瞬の特別な時間の中を泳ぐようにして、西の空を横目に見ながら走るのがたまらない。冬が来る。それがとても嬉しいことだったと思い出す。

そして、夜は北から走ってくる。太陽は西に沈むのだから、道理では東から夜が始まりそうなものだけれど、いつも北の空にはまっさきに暗さが滲み出す。

 

 

死ぬのって、夢から覚めるみたいなもんなのかな

 

眠っているときに見ている夢のなかって、現実世界ではありえないような出来事やシチュエーションをいつの間にか当たり前のものとして受け入れてストーリーが進んでいく。あれ、目が覚めたあといつも不思議だなあと思うんだけど、ほんとうに違和感なく「そういうもの」として受け入れて進んでいくよね。たとえば死んだ人が出てくるとか、小学校の頃の名前も覚えていないような同級生と今の仕事仲間の人とじぶんがめちゃくちゃ仲良しとか、空を飛んでいるとか。

 

ふと思ったんだけど、人生もそんな感じで、この世で心臓が止まって脳が死んだ瞬間、別の世界のじぶんがどこかでぱちっと目をさますんじゃないだろうか。

 

「はいお疲れさまでした〜」
「いや〜今回の人生はけっこう長かったね、特に最後30年くらいは医療の進歩すごかったもんね」
「長かったけどまあまあハッピーライフだったから終わったら一瞬だった」
「失恋からの失職からの家族騒動の回やばくなかった?32のときの」
「あれはな〜人生じゃなかったらありえないよねwww人生でよかったわwwww」
「でも奥さんすごくきれいな人だった!」
「ね!一緒に目覚めたかったけど、まだ人生もうちょっと残ってるっぽい」
「いやでも人生ほんとありえないことめちゃくちゃ起こるよね、人生だから変だなって思わないけど、人生じゃなかったらもうパニックだと思う」
「あ、葬式の中継見る?」
「参列してるwwwこの人www誰wwww全然知らないwwwww葬式で初めて顔知ったわwwwwwww」

 

みたいな、そんなやりとりが、わたしたちが天国と呼ぶ場所のどこかでなされていたりして。

 

今日の明け方の夢で、死んじゃった犬の夢を見た。まごうとなきわたしの犬。家のフローリングを歩く足音が元気そうで、すごくよかった。犬は爪を切るのがきらいだったから、歩くと「シャカシャカシャカ…」と、控えめでとてもかわいい足音がする。

わたしがリビングでひっくり返ってのびていると、どこからともなくシャカシャカシャカ…は近づいてきて、だいたい脚や腰のあたりにじぶんの尻をくっつけて寝ていた、犬。けっしてかまってほしそうな素振りは見せないし、かまうと嫌がってすぐ逃げてしまう。けれど知らんふりをしてひっくり返っていると、やつはかならず近寄ってきて、体のどこかにお尻をくっつけて寝ていた。そういう距離感もすごくすきだったな、と思い出した。夏は冷房の下で、冬は床暖房の上でふたりでひっくり返っては、床の硬さに身を任せてぼーっとしていた。何を考えるでもなく、時が流れていることをふたりでただただ感じているだけの優しい時間。

 

犬と人の間に流れる時間には7倍の差がある、と聞いたことがある。本当かどうかは定かではないけれど、もし本当だとすればつまり、わたしにとっての1分は犬にとっての7分で、わたしにとっての1年は犬にとっての7年だったのだ。床でふたりでひっくり返っていたとき、わたしと犬のあいだには、ぜんぜん違う速度で時間が流れていたのかと思うと、なんだかおかしい。同じ場所にいて同じ時間を過ごしたのに、なにひとつわかりあえないもんだ。けれども彼がこの1月、ここではないどこかで目を覚ましたとき、「悪くなかった」と思えるような、そんな時間をわかちあうことはすこしだけできたんじゃないかな、と思う。

 

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高貴なコンビニサラダと、わたしの抱えるカルマについて


その日、昼食を食べそこねたわたしは、狂ったようにローソンの海藻ミックスサラダが食べたかった。16時。もう、狂おしいほどに。

 

昔から、お腹が減ると人はイライラするのが世の常とされていますが、加えてわたしは大変厄介なカルマを背負っている。お腹が減っているときに「これが食べたい」と思った以外のものをぜったいに口にしたくないのだ。もう、ぜったい。何が何でも。何が何でもそれが食べたい。それしか食べたくない。それを食べなくてはならない、という強迫観念に苛まれすらする。いや、決して冗談ではなく。

「それ」は空腹のたびにくるくる変わるけれども、蓋をあければなんてことはない、ファミマのアメリカンドッグとか、成城石井のエビ生春巻きとか、サーティーワンアイスクリームのロッキーロードとか、ミスドのオールドファッションとか、そんなもんだ。それがその日はローソンの海藻ミックスサラダだった。

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皆さんはコンビニサラダにどのような感情を抱いているだろうか。抱いていないと思う。わたしも特に感想はない。

 

彼らには士農工商よろしく身分がある。一番格下のサラダは、キャベツの千切りや玉ねぎなんかを混ぜたのがそのままスナック菓子のように袋に入っている。およそ130円程度。ポテチよろしく袋の口をあけ、中にドレッシングを注ぎ、よく揉んで、食べる。ディストピア飯の3歩手前のビジュアルだ。パンクな気分に効く。

 

真ん中の身分は、プラスチックの容器に入っている。皿に入れられているという時点で格下とは違うのだ。価格帯はだいたい150円から299円ほど。袋サラダに少し彩りが足されたようなシンプルなものから、なめこや山芋やオクラが乗って「ネバネバサラダ」と明確なコンセプトを持つものまで多種多様だ。ときどき有名シェフや有名企業とコラボをしたものもあるけれど、そういうものは値段の割に量が少ないので少しガッカリする。ブランドとは要はドレッシング代である。

 

一番高貴なサラダは、少しおしゃれな底の深い丸い容器に入っている。398円から498円。鶏胸肉やエビ、アボカド、10種類の雑穀などがバランスよく散りばめられており、「じぶんたちは料理として完成されているのだ」という矜持を感じさせる。真ん中の身分のサラダと違い、高貴なサラダはコンセプトにとどまらずストーリーを持つ。きっとこういう人がこういうシーンで買うんだろうなあというストーリー。鶏胸肉サラダを選ぶウーマンはジム通いが趣味で、20時のワークアウトを終えたあとに胸肉サラダを手に取るだろう。押し麦や雑穀のサラダを選ぶウーマンはミラーレスカメラで写真を撮るのが趣味で、雑誌出版社でのミーティングに押されて遅めになったお昼に雑穀サラダを手に取るのだろう。高貴なサラダを考える人々は、それを手に取らせたい人を完全に狙いにいっている。袋に印刷されたフォントや器のテクスチャを見てみろ。マジだから。それを手に取るウーマン、目に見えるから。

 

さて、わたしは海藻ミックスサラダが食べたかった。猛烈に。ローソンの、海藻ミックスサラダが。そのときはもうあれ以外のことがなにも考えられなかった。

ちなみに、高貴なサラダを食べたことはほとんどない。同じ額を払うなら断然サブウェイだ。死ぬほど飢えているときでも、5メートル先の高貴なサラダを売っているコンビニと2キロ先のサブウェイなら、迷わずサブウェイを目指す。コスパの悪さはディーゼル車に負けずとも劣らない。なぜ?と訊かれても、それはそうと決まっているからとしか言えない。高貴なサラダよりぜったいにサブウェイ。

 

その日は4時間ぶっ続けのミーティングだった。それも運の悪いことに12時から16時まで、4人のクライアントと1時間ずつ。大変厄介なカルマその2を背負っているので、12時より前にランチを食べられない。「ランチは12時以降15時前」と頭がセットされているせいで、そこ以外の時間に食べてもそれをランチと認識できず、結果「わたしは何を食べたんだろう……?」と考え続けてしまいイライラする。自分でも書いていてわけのわからない理屈だなと思うが、わかってほしい、この気持ち。ちなみにカルマはすべてで1500ほどある。

 

もちろん休憩など差し挟む余裕もなく、最後の1コマはもはや緊急用のエネルギーをフルに回していたような感じだった。荒廃した精神に天啓のように与えられた「いま食べるべきもの」は、海藻サラダの形をしていた。ローソンだ……。この海藻の配置は……ローソンだ………。
同じコンビニサラダといえど、セブンファミマローソンサンクスサークルKミニストップ、すべて種類は違う。海藻サラダももちろんコンビニの数だけあり、その日わたしの頭に浮かんだのはまごうとなくローソンの海藻ミックスサラダだった。

 

しかし運の悪いことに、打ち合わせ場所の周辺にローソンはなかった。爆速でグーグルマップを立ち上げる。乗り換えの駅から次の目的地周辺をくまなく調べる。あった。飯田橋駅南北線乗り換え改札。駅構内だからなどと言ってられない。考えつく限り最速で海藻ミックスサラダに辿り着くにはそこしかない。南北線に飛び込む。飯田橋駅で飛び降りる。早足にエスカレーターを登る。なんと改札の目の前。駅ナカローソン。尊い。海藻ミックスサラダ、ある。すごい。青じそドレッシングも買う。ファビュラス。イートインなど無い。店の前で改札口を行き交う人々には目もくれず、海藻ミックスサラダの袋を慎重にあけ、無心で食べる。傍目から見れば「なぜこんなところで立ってサラダを食べているんだ」と思われても仕方ないポジションで海藻ミックスサラダをむさぼる24歳。しかしここで正気を取り戻したら負けなのだ。「いったいなぜこんなところで…?」という視線を向けられている、なんて予想してはいけない。周りを見てはいけない。自分と海藻ミックスサラダしかこの世にはいない。羞恥心を知ったら負けである。あのときのわたしは、林檎をかじるまえのイヴだった。

 

さて、わたしは高貴なサラダをすこし斜に構えた目で見ている。いかにもおしゃれを装ったふうでありながら、ダイスカットされたかぼちゃがしなびて小さくなっているところとか、蒸された胸肉がシーザードレッシングの下で鳥の死体のごとくダラリとしているところなどが、どうも信用ならない。この野菜たちに栄養がちゃんと詰まっているのか、ちょっと不安になってしまう。東京の俗な繁華街で売っている激安のおしゃれ雑貨にちょっと似ているかもしれない。本物感のない本物。

 

わたしの頭の中では、コンビニサラダは料理ではなく、コンビニサラダというひとつのカテゴリーなのだ。味、悪くない。栄養価、謎。ビジュアル、壊滅的。しかしそれでいい。なぜならそれはコンビニサラダなのだから。野菜を食べているという満足感をそれなりに得て、いっときの空腹を満たすためのものでしかない。コンビニサラダと料理のどちらが高尚であるかなど、そもそも比較はできないのだ。それが、高貴なサラダは変に料理側に寄っているから、「料理と呼ぶにはニセモノすぎる」と感じてしまうのでしょう。適切なカテゴリーの中で技を磨いて質を高めていくほうが、別のベクトルを持つ質のものに勝ちにいくよりもずっと大切です。これは、サラダに限らない話。

「もっと甘えてよ。弱い姿、見せていいんだよ?」「ご冗談を……」

 

「もっと甘えてほしい」「弱い姿を見せてほしい」とか言われると、すごく困る。だって、誰かに「甘えて」救われた経験なんて、ただの一度もないので。

 

「甘える」とは一体どういうことなのか。いまだによくわからない。「お言葉に甘えて」「彼女は甘えた声を出して」「赤ちゃんみたいに甘える」コーパスはたくさん出てきますが、こと恋愛っけのある相手から発される「もっと甘えて……」には困惑しっぱなしの人生でした。だって、なに?それ……。よくわからない……。

 

「ごろごろニャ〜ン♡」みたいなテンションのことだろうか。それとも「ね〜さみしいの〜かまって〜♡」というテンションのことだろうか。それとも「バブー!ウキャキャ♡」というテンションのことだろうか。どれもご遠慮願いたい。

 

だいたいこれまで異性から発される「甘えてほしい」という言葉は「弱い姿」とセットになっていたように思う。

 

わたくしは、外側から見るとえらくキビキビハキハキしていて隙がないらしい。オフの日などは内臓が喉から見えるほど脱力しているにもかかわらず。だから、そういうわたしを見た男性が「この子はきっといつもすごく頑張ってるんだろうな」「だけどたまには肩の力を抜かなきゃだよ」「ほら、甘えて?」になるんだろうな。それも「自分にだけ甘えてくれる」というのがどうやら良いらしい。俺にしか見せない顔。俺にしか見せない本音。そういう「人間くささ」みたいなのをじぶんだけが知っている、ということに、嬉しさとちょっとの優越感を覚える、らしい。そういう生きものは。

 

わたしは他人にそうした「弱い姿」を見せて気持ちが楽になった経験などほとんどない。むしろじぶんの弱さを言語化して理解できているのであれば、他人に頼らずとも自力でたいてい解決できる。でも雰囲気を壊すと悪いので、その場では「うーん」とか言って最近の悩み事を軽く話してみたりもするが、それへのレスポンスは経験上100%役に立たないし何かを癒やしてくれたりもしない。「俺に甘えてほしい」というリクエストを満たすためにそれらしき顔でそれらしく応えてきてみたが、近頃はバカバカしくなって、そういうことを言う人に対して「そういうことを言われるのは好きではないし、困るし、あなたにしか見せない顔はない」と宣言する。ほんとうのことです。ほんとうの。

 

癒やしとは、どこにあるのか。わたしは、他人に対して「弱っている自分に手を差し伸べてほしい」とはほとんどの場合思わない。あなたが発する光を浴びて勝手に目を覚ましたい。夢見心地で答えの出ない沼に倒れ、いままさに口と鼻をふさがんとしている泥の視界に、強烈な光を放つ人がいてほしい。わたしという対象に向かって何かをはたらきかけてくれる必要などない。勝手に楽しく、激しく、あざやかに生きていてくれ。その姿を捉えたとき、「わあ」と歓声をあげて立ち上がるから。それこそがわたしにとっての癒やしです。十全に、十分に、光を放って強烈に生きていてください。それだけです。他人に求めることは。

 

さみしさとは空腹のこと/霧みたいなルームメイトが欲しい

さみしいと、お腹が減った気がする。食欲の秋とはさみしさの秋だ。肉体から発される空腹とさみしさから生まれるまやかしの空腹が綯い交ぜになって、体の力が抜けてしまう。それが秋。秋という季節。

 

さみしくて仕方ない。理由はない。人間は理由なくさみしいと感じるようにプログラムされた生きものです。されど人のいるところやザワザワしているところに行くとすぐに調子が悪くなるので、うかつに外を出歩きすぎたくない。2日連続で都心に出ると、3日目の朝にはかならず熱が出る。まったく難儀だね。でもさみしいという感覚はたしかに内側にあって、それを満たすためにお腹が減ってしまうのだ、やたらと。

 

完全フリーランスで仕事を始めて半年が経ち、気づいた。書きもの仕事をしていると、基本的に家から出ない。誰ともしゃべらない。初めは静かでいいのだけれど、数日経つとすこしずつおかしくなっていって、気づくと膨大な空腹感に押しつぶされている。しかしまだ理性が働くので、大量の白湯などを飲んでごまかせる。それでもやはり何かを口に入れやすい環境ではあるので、アイスクリームやチーズ、カフェオレをちょこちょこ摂っては腹回りにさみしさの贅肉ができあがっていく。そろそろこの渇望感、断ち切りたい。

 

どうしたらいいんでしょうね?現在実家ぐらしですが、生活環境がもとより少し特殊なので、ほぼ一人暮らしのようなものです。だから実家を出ても出なくても良いのだけど、まあ出る方に傾きつつあります。なんとなく。飽きました。

 

ルームシェアなども考えたけれど、テリトリー意識が強い上にちょっと神経質なので、他人と共用スペースが多いとまず間違いなくお互いに精神が破綻するのではないかと危惧している。お手洗いは共用でもいいけれど、キッチンは広くないと共用じゃ嫌だ。冷蔵庫はまあ共用でも良いでしょう。お風呂と洗面所は私用がいい。わからない、住み始めてみたら案外妥協できるものかしら。お風呂掃除の仕方とか、食器の洗い方とか、洗面所の使い方とか、洗濯かごの使い方とか、気になっちゃう。潔癖症の人とはたぶん暮らせるんじゃないだろうか。潔癖症で几帳面だけど人と住みたい人とか、ルームメイトとして理想かもしれない。あと、話し声と足音が静かだったらパーフェクト。気配は極力消していてほしい。わたしも消しているから。けれど週に2回くらいは夕ご飯を一緒に食べたり、仕事の合間のティータイムにときどきおしゃべりしてくれたらうれしい。霧や蜃気楼と同居するしかないのだろうか。

 

住まいとしていちばん理想的なのは、ビジネスホテルのような住まいに各々のキッチンと、コワーキングスペースがついているようなところ。アパホテルコワーキングスペースと私有キッチンがあればちょうどいいと思う。月10万なら契約したい(ベッドメイキングと清掃、洗濯はもちろん各自)芙美子社長、いかがですか。

 

わたしにはとにかく「じぶんルール」がものすごくたくさんあって、そのルールをひとつひとつ守って生活をすることが大好きだ。逆にそれを守れないとすぐに気持ちや体がダメになる。超・わがままボディ。まあ、いいでしょう。貴族のお姫様のようなものです。

読書メモの効率的なとり方を知りたい

仕事上、分野横断的に本を読むことが多い。種類や領域はなんとなく似通っているけれど、歴史や文脈はまったく違う種類の本を大量に読むことがしばしばある。たとえば最近だと産学官連携、大学入試、英語外部試験、教育改革、発想法あたりかなあ。

一冊一冊から必要な情報を抜き出しその都度手でアウトプットするという作業の煩雑さもさながら、アウトプットした情報の管理も非常にむずかしい。大学1年生の頃読んだ外山滋比古氏の思考の整理学ではカード上のものに情報をストックすることのメリットが語られていたし、最近だとpha氏が知の整理術のなかでノート上での読書メモとオンラインサービスを利用した読書メモの2つの使い分けを提唱していたけれど、いずれの方法も手馴染みがわるくあまり長続きしなかった。

というのも、カードに関しては、あらかじめカード上の書けるスペースが限られているため、重要だと感じた情報をそこまで多く書けないことと、その分カードを増やしていくと今度は失くしたり順番がわからなくなったりするなどのトラブルが多発する。ノートやオンライン読書メモに関しては、「どのページに何を書いたかわからない」「ある程度近い分野の本同士はノート上で分類をしたい(たとえば、ここからここらへんまでは産学官連携、ここからここらへんまでは大学入試)が、一度書き込んでしまうと順番を入れ替えることが不可能」などの理由が挙げられる。そしてやはり、活字として印刷されているものをもう一度じぶんの手でどこかに移植するという効率のわるさに、どうしても居心地の悪さを感じてしまう。たとえばこれが座右の銘とか、人生観にかかわる大切にしたいフレーズなどであれば、手書きで日記などに書いておくことは全然オッケーなのだけど……。大量に情報をインプットしそれらを相互に関連付けたり、そこからなにか発想を生み出したりしようと目的で読書をしているものは、読んで手で書き直す暇すら惜しい。要約して極限まで文字数を減らしてアウトプットすることは可能であれど、その先には管理の手間という壁がそびえている。

読書メモ、どうとるのが効率的なのでしょうね。どのようなことについてメモを残しておきたいかというと

  • ある分野において時系列的に起こった変化や出来事。中でも特にインパクトの大きいイベントについては、その関係者と原因と結果について。
  • 複雑な、あるいは新しい概念や定義について、その内実とそれが生まれるまでの経緯。
  • ある抽象的な概念や定義の具体例。
  • 使い慣れていくことでより使い勝手の良くなる手法や思考法。

もうすこし深掘りすればいろいろと細分化できそうだけど、ひとまずはこんな感じ。これらを「アウトプットと管理の手間がなるべくかからない形」で残したい。贅沢でしょうか。でも絶対あると思うんだよなあ、なにかいい方法が。皆さんの読書メモのとり方、ぜひ教えてください。

そろそろトラウマを手放さなくてはならない

 

トラウマと位置づけてしまっている記憶は、なかなか手ごわい。
その記憶はいまこの瞬間のじぶんを傷つけているわけではないのに、ときどき生々しく「そのとき」を再現しては全身をヒリヒリさせる。目を瞑って眉間にしわを寄せて、しばし耐える。過ぎ去る。はーっとため息が出る。アーと誰に宛てるでもない声が出ることもある。

 

ほんとうに、ふしぎだ。トラウマはいまこの瞬間のじぶんを何も傷つけやしないのに、いつまでもその経験がいまのじぶんを不幸にする。思い出したくなどないのに、ときどきうっかりその再生ボタンを押してしまう。
経験の意味づけはじぶんしかできないし、わたしたちは主観的に意味づけられた世界にしか生きられない。「幸せでありたい」という普遍的な願いを誰もが持っていて当たり前だと皆思いこんでいるのに、ときどき、ほんとうに幸せでありたいのかわからないような行動をとってしまう。トラウマを「作る」ことは、その代表的な行為のひとつだ。

 

幸せであるために、不幸や苦痛の記憶との向き合い方には二通りある。ひとつは、それらを完全に抑圧しダストシュートへ放り込んでしまうこと。いわゆる「忘れる」というやつ。しかし賢明な皆さんはお分かりかと思うが、これは何の解決にもならないし、向き合うというよりは逃げである。逃げるのもいい。目の前の現実に手一杯なときは、忘れて逃げるしかないということもある。けれど、逃げ続けていると死ぬまで追われるので厄介だ。なにより「これは逃げだ」と自覚しながら生きることほど、息苦しく後ろめたいことはない。

 

もうひとつは、その経験に不幸や苦痛という意味づけをしないこと。それは「あのときはああいうことがあって、そのときのじぶんはこう感じていた、こう思った、つらかった、苦しかった」と認めたうえで「でも、いまのじぶんはそれに苦しめられているわけではない」と、過去といまを切り離してしまうこと。これは至極当たり前なのだけど、心に一時的にものすごい負荷をかけたときの状況や人はいま目の前には存在していないわけで、少なくとも「過去」は苦しかったとしても、「いま」は苦しくない。過去の経験がいまのじぶんに影響を与えていたとしても、それがいまのじぶんを苦しめるかどうかは、実はじぶんで決めることができる。苦しみたいのなら、苦しめばいい。苦しみたくないのなら、手放せばいい。それだけだ。

しかしこう書くと「手放せるものならとっくに手放している」「お前は本当の地獄を知らないからそんな悠長なことが言えるのだ」というお叱りが飛んできそう。ええ、確かに。わたしが経験したことなぞ、本当の地獄と比べたら大したことはないかもしれない。けれども、それなりにつらかったことはあったし、いまも手放せないまま苦しいと感じることがいくつもある。

 

なぜ、焼けた石を飲み込んでしまったかのように、苦しい記憶をいつまでも手放せないのか。考えて、考えて、考えてみたけれど、やはり最終的には、じぶんがそれを手放すことを望んでいないからなのだろうな、と思う。

 

苦しい記憶は、アイデンティティとつよく結びつくことがある。あの辛酸を嘗めた経験がいまのじぶんを形作っている。あの苦痛を乗り越えられたのだから、ちょっとやそっとじゃ折れやしない。そういう矜持を、わたしは実はたくさん持っている。けれど反面、そのときの感覚は鮮やかな写真のようにしっかりと全身に刻み込まれ、すこし弱気になるとすぐにこちらを脅かしてくる。

これがおそらく、わたしのトラウマの正体。苦しさを手放して幸せになるよりも、つらさをガソリンにどこまでも走り続けることを選んだ。けれどほんとうのところ、何かが違うとじぶんがいちばんよくわかっている。こんなことをしていても、ほしいものは手に入らない。どころか、幸せであるためには何が必要であるのか、実はまじめに考えたこともあまりない。ただただ強くあることが不幸を追い払い前進させてくれるはずだという一握の希望だけに突き動かされてきた。では、進んだ先には何があるのか?光り輝く未来か、それとも、殿上人の極楽か。わからない。知らない。走り続けることで何が幸せであるかを考えることから逃げてきた。

 

幸せでありたいのであれば、まずは、手放さなくてはならない。じぶんの記憶に「苦しい」という意味づけをやめ、「苦しかったが、いまは苦しくない」ということをわかる必要がある。そのうえで、じぶんが手に入れたい幸せとはどのようなかたちをしているのか、それを手に入れるためには何が必要であるかも考える。不必要なものは順次手放していく。これしかない。これしかない、ということに気づくのにも、ずいぶん時間がかかってしまった。

 

たぶん、わたしは幸せになりたい。「いまを乗り越える」だけでなく、いまを乗り越えてどうしたいのかを考えなければ、一生ゴールのないマラソンを走るハメになる。どこへ向かって走っているのか、そもそも走る必要があるのか、だんだんわからなくなってきた。何からやれるか、どうやれるか、わからないけれど、まずは一旦足を止めて、トラウマをトラウマから解放することから始めようと思う。

 

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夏の空 カモメ