きみのお祭り

死ぬまで盛り上がっていけ

東京一人暮らし物件探し、結局どこでもオタクは強い


24歳、初の一人暮らし。自立がだいぶ遅れてやってきましたね。実は半年以上前から物件自体は探していて、去年のうちから内見もしていたのですが、年始にちょっと本気を出した結果ほぼ数日で決まりました。めでた〜い。

内見した物件数、28。まわった不動産屋の数、およそ10。物件探し、めちゃくちゃ楽しかった。やれるところまでやった感がある。

以下、東京で初めて物件を探すにあたって、やって良かったことやわかったことなどを備忘録的にレポートします。これから物件探しをする人のお役に立てればうれしいです。

 

 

◆ 事前準備編 ◆

かなめは「条件の絞り込み」と「リストアップ」。この2つをやるだけで、物件探しの効率がまるで違ってくる。

条件はなるべく細かく絞り込んでおこう

希望物件が探しやすくなるのはもちろんのこと、どうしても見つからないときは条件をどれかひとつ変えるだけで、当初の希望になるべく近いまま新たな物件を探すことができる。無限物件探し。初回から「ここまで縛って本当に物件見つかる?」というレベルにまで縛っていい。縛りプレイはお嫌いですか?

今回は

・最寄り駅指定
・南向き
・2階以上
・角部屋
・バストイレ別
・コンロ二口以上
・家賃9.5万以下
・25m^2以上
・駅徒歩10分圏内

で探し、このすべてをクリアする物件を見つけ出した。変えると見つかりやすい条件は「最寄り駅」「家賃」「バストイレ」「広さ」。東京は所狭しと家が建っているので、「25m^2」で探すと「24.98m^2」の物件が取りこぼされたりしている。同じ広さでも間取りによってかなり印象は変わるので、広さの指定はゆるめで探しても良いかもしれない。
そして条件の優先順位づけも非常に大事。今回は挙げた条件を以下のように順位づけた。

 

日当たり・風通しの良さ>キッチンの使いやすさ>綺麗さ≧広さ>家賃>駅からの近さ

 

1. 日当たり・風通しの良さ
自宅で仕事をすることも多いため、必然的に家にいる時間が長い。早起きなこともあり、午前中は陽の光を浴びないとやる気が出ないし、風通しがないと気持ちがしょんぼりする。個人事業主が一番守らなくてはならない心身の健康のためにも、この条件だけはどうしても譲れなかった。

2. キッチンの使いやすさ
料理は趣味というよりも作業療法に近い。どうしてもつらくなってしまったときは、よく延々と煮込みスープを作る。野菜を刻み、肉を焼き、魚を切り、鍋をひたすらかき回しながら何十分もキッチンでぼんやりと過ごす時間なしでは生きていけない体になってしまった。ので、調理スペースの使いやすさはクオリティ・オブ・ライフに直結する。二口コンロ、欲を言えば三口コンロとまな板を横向きに置けるスペースこそが、我がオアシス。

3. 綺麗さ
家をパッと見たときに気分が上がるかどうかはめちゃくちゃ大事だと思う。だって帰ってきたくない家なんかに帰ってきたくない。家は帰る場所だ。いくら家の中を掃除して片付けても、建物そのものがボロボロで改修をされていなかったり、部屋のドアに辿り着くまでが暗くて汚かったりしたら、まあ帰ってきたくないよね。あとボロくて手入れのされていない家は絶対寒いので電気代がやばそう。

4. 広さ
「家の狭さはストレスに直結する」と建築をしている仲の良い人が言っていた。大量の資料や本、山道具、服、タップシューズ、カメラなどがあるため、収納別で最低7.5畳ないと物理的に厳しかった。とは言え年末に大断捨離大会を決行した結果、譲歩の兆しが見えたので、最終的には25m^2が最下限に落ち着いた。先程も書いたとおり、探すときは20で探したほうが楽。

5. 家賃、駅からの近さ
最寄り駅から徒歩10分圏内であれば9.5万までは出すつもりだった。複数ある業務委託先へのアクセスの良さや趣味の場への通いやすさなどをかんがみて「ここしかない」という駅を最初に決めていたので、そこがけっこう楽だった。特に希望がないけれど便利な立地に住みたい人にオススメの最寄り駅は、秋葉原飯田橋、池袋あたりかしら(諸説あり)

希望条件と詳細を物件ごとにリストアップせよ

物件名と物件URL、管理会社、望む条件など物件ごとに表にしてエクセルやスプレッドシートでまとめておくとものすごく役立つ。物件紹介サイトにアクセスして、写真と掲載情報からわかる情報の中で特にチェックしたいものをピックアップして表にしておこう。

今はサイト上で同じ物件を複数の会社が紹介していることもあるので、問い合わせを入れるときにダブりを事前に弾けるし、一度Webでチェックした物件は何が気に入ってチェックをしたのかがすぐに見返せる。

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こんな感じ。「ステータス」は内見可とか、X月中旬空き予定とか。

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条件だけでなく、気に入った点や気になる点も事前に簡単に残しておき、内見時にそこを注意してチェックする。「写真や図面ではここがいいと思ったけど実際行ったらこんな感じだった」「ここがちょっとマイナスポイントかなと思っていたけれど、行ってみたら案外悪くなかった」ということが何度か起こると、新しい物件を見つけ出したときに

「あ、これ前に見たこの物件と間取りが近い。ということは、広そうに見えるけど使い勝手があまり良くないかもしれない」

「駅から家まで踏切と車通りの多い道路をまたいでいるから、駅徒歩10分って書いてあるけど実際は15分はかかりそうだな」

「この間取りだったらこのスペースをうまく活用すればイケるっぽい」

というのがすぐに見抜けるようになる。後になるにつれて「これは進研ゼミでやった問題……!」に近い感覚が生まれて楽しかった。

あと、この表を不動産屋に直接見せると、物件好きな人であれば大抵歓迎してくれるし、より良い物件情報を紹介してもらいやすくなる。逆に引かれたり真面目に見てくれない不動産屋なら、そこはやめたほうが良いと思う。客に真面目に付き合ってくれる不動産屋のほうが良いです。これについてはもう少し詳しく後述します。

 

◆ 内見の心構え ◆

とにかく行け

図面上同じ広さでも、間取りが違うとだいぶ使い勝手が違う。先ほどの建築の人曰く、特別に部屋を区切りたい理由がなければ、壁はなるべく少ない物件のほうがいいとのこと。その分のスペースが使えるから。彼はわたしが持ってきた何枚もの間取り図を見ながら「俺だったらこの壁ぶっ壊しちゃうかな」と物騒なことを言いながら間取りと広さの体感値の関係について教えてくれたので、後半は「これはぶっ壊したほうが良い壁かどうか」という基準で物件を見ることで(良いのかそれは)、同じ広さの物件でも比較がしやすくなった。

慣れていくと、数字上は許容ギリギリと感じる広さでも、間取り図を見て「これなら妥協できそう」というのが感覚的にかなりわかるようになる。

帰ってきたくなる家かどうかを確かめる

条件の「綺麗さ」で言ったことにもつながるが、家は毎日いる場所なので、間違いなく居心地がいいほうが良い。駅から歩いてみて、「毎日この場所にこの道を通って帰ってくるのは嫌じゃないか」とか、けっこう重要な気がする。特に女性は暗い夜道は危ないので、希望度が高い物件はできれば日中と夜間の2回歩いてみるのがオススメ。

内見に行ってみて一番よくあったのが「住民の生活スタイルに引いたパターン」だった。内見を始めてみてからじゃないと気づけなかったけれど、こればかりは本当に出たとこ勝負というか、運。いくら良い条件だったとしても、エントランスに生ゴミの袋が放置されていたり、自転車の止め方がめちゃくちゃだったり、変なお札が大量にドアに貼ってあったりしたら、中を見ずともその場で「ここはないな」と早々に心が決まった。住環境が悪いと本当につらいと思うので、特に早く帰れる仕事に就いている人は、近隣住民や環境が嫌じゃないかはしっかり確認したほうが良い。

ほかにも、窓からの眺望や水回りの掃除のしやすさ、階段の傾斜など、微妙だけどじわじわとHPに影響しそうなところはよく見ておくこと。騒音が気になる人は、建物の音の響きやすさだけでなく、近くに公園や保育園、小学校などがないかも確かめよう。

物件を見に行くときは「超わがままモード」で良いと思う。図面や事前情報上完璧な物件は、何か一つでも不満点を見つけに行くつもりで行け。住む前から「ちょっと…」と思うところは、住み始めたら絶対めちゃくちゃ気になるから。内見に行ってみて「これはやだな」と思った気持ちをメモに残しておくと、言語化されていなかったけれど譲れないものがハッキリ見えてきておもしろい。

 

◆ わかったこと ◆

条件はマジでトレードオフ

駅徒歩分数、日当たり、広さ、家賃。パラメーターはたくさんありますが、やはりトレードオフ。安いけど北向き。広いけど古くて寒い。便利だけどうるさい。もうこればかりは本当に行ってみるしかない。「トレードオフでもこの条件ならまだ許せそうかな」のギリギリを探っていくゲームだった。

直感はほんとうに超大事。街の歩き心地を確かめよ

条件上良くても、行ってみてウーンという物件は多々あった。建物だけでなく、住環境と街の空気が個人的にすごく大事だったのは、内見をしてみての大きな発見。エントランスが汚くて暗いマンションなんかに絶対帰りたくない。車通りが激しい大通りの狭い歩道を5分も歩かされたらめちゃくちゃに消耗する。他の住民の洗濯物がこれでもかと詰め込んで干してあるベランダなんて見たくない。多少家賃が上がっても、ここにいたいと思える自分の城を探す必要があるんだなと実感した。

そのためには、その街をよく歩いて、街の歩き心地を確かめること。道路一本挟んだ反対側は驚くほど静かだったり、イケると思った距離が案外遠くて疲れたりもする。住みたい候補の街は、時間の許す限り歩き尽くしてみよう。帰り道に寄りたくなるお店があるとか、小さいながらも手入れの行き届いたガーデニングをしている家が多いとか、そういうとるに足らないようなことが街の印象を決める。

信頼できる不動産屋を探そう

これが今回の記事のタイトルの所以なのですが、不動産屋は絶対に絶対に物件オタクもしくは土地オタクの方が良い。

昨年から述べ10件近い不動産屋をめぐり、なかには2社から同じ物件の紹介を受けて2回別の不動産屋経由で内見に行ったりもした。無口な人、よく喋る人、営業モード全開の人、素朴な人。いろいろな人がいたけれど、良い不動産屋というのは、不動産や土地の話をするのが好きでたまらない人だ。

結局、オタクは強い。物件や土地が純粋に好きな人はそれだけ引き出しを多く持っているだけでなく、オタクの磨かれた審美眼から物件を勧めてくれる。今回お願いすることにした担当者さんも、わたしが提示するものすごい量の条件を熱心に読み込んだあと、

「あ〜この物件は日当たりの観点から言うとちょっと……オススメできなくはないけど、この値段なら探せばもう少しある……気がします……」

「本棚を最低2基置くのであれば、この物件は図面の広さ的に微妙っぽく見えますけど、置き方次第で問題なく過ごせると思います」

「こっちの物件ってオシャレで立地も便利だし、パッと見良いんですけど、長く住むとなると収納がこの狭さなのはちょっとストレスかもしれないですね……」

など、ときには自社にとって不利ともなりかねないような情報も遠慮なく開示してくれた。オタクのなせる技、すなわち愛である。のみならず、わたしが内見で気に入らなかった物件については

「どこがもっとどうなったら良かったのか」

「この条件はこっちの条件と比較してなぜ大切なのか」

ということをたくさん質問してくれたので、本当に信頼できた。最終的に第一候補となった物件の仮押さえに進むかどうか悩んでいたとき、後押しになったのはこの人の「この物件はオーナーが大手企業なのでトラブルが起こってもすぐに対応してくれますし、入居者審査もしっかりしているので、ここであれば藤坂さんを安心して預けられると思います」という言葉だった。親かよ。最高だ。

自分探しをしたければ家を探すと良い

今回の家探しを通して、あらゆる場面において自分という人間の色々な側面を改めて知った気がする。候補地は最寄り駅を中心として半径2キロ以内を何度も徹底的に歩きまくって、良さそうなスーパーや住みたい・住みたくない地区を徹底的に洗い出したし、条件もかなり厳し目に絞って、たとえ見つからなくても見つかるまで待ったり探したりした。待った結果、数ヶ月前までは譲れなかった条件が譲れるようになったり、逆に新しい希望条件ができたりもしたので、なんというか、成長の軌跡が如実に感じられた。

家探しにかかわる色々な活動をした結果、わたしは超絶わがままで、生活に密着するものに関しては石橋を叩きに叩いて渡らないこともあり、絶対に良いと思ったものだけを選ぶ胆力と、それを探し出すまで諦めないしたたかさがあることがわかった。つよい。これから先、人生の何かにおいて道を見失ったとき、きっとわたしは初めて自分の家を探したときのことを思い出すと思う。住みたい家を自力で探し出せて選ぶことができたという経験は、どこかで効いてくるんじゃないだろうか。

 

◆ その他感想など ◆

 

・「壁はなるべく少ない物件のほうがいい」は間違いなかった。少ないほうがいいです。開放感LOVE人間なので。あと室内の動線を邪魔しないという意味でも。広い部屋だとエアコンがかかりにくいのかもしれないけれど、10畳以内なら問題ないはず。

・高層階はとにかく人目が気にならないことと日当たりと風通しが抜群なので個人的にはオススメ。夏めっちゃ暑かったりするのかな……そこはこれから暮らしてみてですね。
・東京の賃貸に住まうならばロフトベッドが最適解っぽいので買ってみます。

 

 

 

きみを手放したから、もうどこへでも行ける

 出ます出ます詐欺をおよそ1年続け、ほんとうのほんとうに出ます。実家を。1月に。これはマジです。2018年最後につく嘘にしないよう、12月の1ヶ月間をかけて、家中にある所持品の量を半分にしました。


実は15歳か16歳くらいまで、かなり重度のぬいぐるみ依存だった。集めるタイプのではなく、ひとつのぬいぐるみにとことん依存するタイプのほう。

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これはポーちゃん。6歳の頃に動物園で買ってもらって以来、中学を卒業するくらいまで、彼はわたしのすべてだった。いとおしくて仕方なかった。手触り、フォルム、やわらかさがまるでじぶんの心臓のようで、比喩抜きで片時も手放せず、学校にもこっそり連れていき、なんとかかんとか肌身離さずそばに置いておいた。

ポーちゃんと過ごしていた10年間は、家族のことを心配したり、人とうまくコミュニケーションがとれないことで癇癪を起こしたり、常に心のどこかが不安だった気がする。その頃は明確に不安を感じてはいなかったけれど、いま思い返せば、いつもぜったいにそばにいてくれて安心感を与えてくれる、じぶんの激しい感情や行動を否定せずに見守ってくれる存在を心の底から求めていた。それがわたしにとってはポーちゃんだった。ときどきどこかへ置き忘れて見つからなくなると、過呼吸を起こしかねない勢いでパニックになり、泣き叫んで狂ったように探し回った。ポーちゃんがいれば何も怖くなかったし、ポーちゃんがいなくなってしまうことが何より怖かった。ポーちゃんのことはぜんぶから守ってあげたかったし、最上級の愛情表現で包みたかった。だからこんなにもボロボロになってしまって。なってしまって。

 

家を出よう、と決めてから、徹底的にモノを捨てた。断捨離の本を読み、ほんとうのほんとうに断捨離をやった。喜んで使えるもの、気分を上げてくれるもの、付き合いたいもの、じぶんをレベルアップさせてくれるものだけを残し、それ以外はすべて捨てた。いまのわたしが居場所を与えられないものはみんな手放した。手紙も写真もプリクラも服も本も贈りものもたくさん捨てた。これからのことだけを考えるために、もう戻ってこない時間のなかに生きないために、捨てて捨ててとにかく捨てて、廃棄物の量はおそらく80キロを超えたと思う。

 

今日は年内最後の可燃ゴミの日だった。

 

集めるタイプの依存症ではないと言いつつ、家にはそれなりにぬいぐるみが溢れている。そのうちの95%は処分した。ひとつひとつを手に取り、御礼を言ってゴミ袋に詰めて口を縛る。捨てて捨てて、手元に残ったのは、ボロボロになったポーちゃんと、カヤネズミと、ペンギン。カヤネズミとペンギンには、居場所があった。カヤネズミはペーパーウェイトに、ペンギンは本棚に。けれどポーちゃんの居場所は、どうしても思いつくことができなかった。

 

今朝、目が覚めて真っ先に、机の上に置いておいたポーちゃんを手にとった。まだ口を縛っていないゴミ袋が一つ。捨てよう、という決意は特に必要なかった。いくんだね、という気持ちで、あの頃と同じように両手で彼を包んだ。

 

わたしは手が小さい。小学生女児とほとんど同じくらいの大きさしかない。だからポーちゃんの包み心地も、あの頃と全く変わっていなかった。やわらかい綿の心臓。わたしの心臓。毛足はかたまり、灰色が濃くなり、フェルトの足は半分ちぎれ、黒目のビーズは表面が薄く欠けて。いとおしさが寄せては返す。あの頃の不安な気持ちはもうほとんど思い出せなかったけれど、彼を包んだときの「これ」という感覚は鮮明に手のなかでよみがえり、何度も何度もありがとうを言った。

棚にポーちゃんを置いてみる。どう見ても、彼は居心地が悪そうだった。10年前にこの家に越してきたとき、彼はおもちゃ箱のなかにいた。おもちゃ箱を処分するとき、ポーちゃんは鏡台に置かれ、そのまま少しずつ「いてもいなくても変わらないもの」になっていった。いまのわたしの生活のなかに、彼の居場所はもうない。忘れられたまま置いていかれるのは、かなしくてさみしい。人は死ねる。犬も死ねる。花は枯れられる。けれどぬいぐるみは終われない。愛していたから、わたしが終わらせなくてはならない、と思った。

ほんとうにありがとう。と口に出して、ポーちゃんをビニール袋に入れた。犬を火葬へとおくったときとまったく同じ気持ちになった。ほんとうに好きだった。たくさん助けてくれてありがとう。だから、さようなら。口を縛った。手放した途端、比喩ではなく、ほんとうにどこへでも行ける気がした。なんでも捨てられる気がした。2018年最後の、可燃ゴミ収集の日。

 

朝目が覚めて、いくんだね、と思ったとき、わたしはいったい誰と別れたんだろう。じぶんの手で終わりにしたのだから、「さようなら」のほうが正しいのに、どうして「いくんだね」と思ったんだろう。あのとき、透明な誰かと確かに別れた。互いの名前や素性、行き先も知らないままに。

 

年が変わろうと変わるまいと、日々が途切れることはない。毎日が地続きであるように、12月31日と1月1日ももちろん地続きで、そのさきもすべてがずっと地続きだ。1ヶ月後や1年後、3年後、100年後のじぶんは、ぜんぶがいまとつながっている。蛹が蝶に羽化するのは、突然の出来事ではない。硬い殻が割れた瞬間よりもずっと前、この世に生まれ落ちた瞬間から、彼のなかの蝶は始まっている。

2018年12月30日、ポーちゃんを手放し、見えない誰かと別れたのは、殻の割れる最初の音、あるいはかすかなヒビのようなものだったのかもしれない。とても大切な朝だったような気がする。でもきっと、これも忘れていく。それでいいと思う。ありがとう。さようなら。

南青山に児童相談所を建てさせたくない成功者たちは、失う不幸に怯えている

南青山に児童相談所施設などが入る予定の施設が建設されるらしいが、周辺住民の一部がそれに猛反発をしているというニュース。

www.businessinsider.jp

youtu.be

動画は、けっこうキツい。気持ちが弱っている人はあまり長く見ないほうがいいかも。児童相談所にかかわりを持つような子ども=事情を抱えた厄介者、と一括りにしているようなひとも目立つ。土地の資産価値が下がる、イメージが壊れる、南青山という土地に児童相談所はふさわしくない……そのどれもが、「成功を収めこの優雅な土地で誰もが羨む幸福な生活をおくる自分たちに、全く格の違う悪い因子を近づけないでくれ」と言っているかのように聞こえる。

当然、この反対運動に対する批判や非難は各所で起こっている。

ニュースで大声を出して怒る大人たちを見たときに、ほんとうに胸が痛くなった。最初この痛みは、こんなひどいことを言われる子どもたちや関係者の気持ちを想像しての痛みだと思っていた。

けれども、すこし時間と距離を置いてあらためて考え直したとき、わたしが本当に胸を痛めたのは、この怒鳴り声をあげている人たちのことを考えたからだ、ということに気がついた。


ニュースに映る大人たちは、何かをひどく恐れている。児童相談所に来る、名前も顔も知らない人々や、保護される子どもたちを。恐れる成功者にとって、児童相談所とは何か不吉な不幸の輪郭のようなもので、彼らの描く幸福な生活のイメージを曇らせる。自分たちの生活のすぐそばに不幸(だと思いこんでいる何か得体の知れないもの)が影を落とすことが耐え難いのだ。だから、排除しようとする。その根底にあるのは恐れだ。

 

「他人を傷つけるひとが、実は一番深く傷ついている」

 

という言葉を、何かの本で読んだことがある。ほんとうにそのとおりだと思う。恐れる人々は大声をあげて職員に詰め寄り、拳を振り上げんばかりの勢いで「不幸の輪郭のようなもの」と戦おうとする。しかし既に多くの人が知っている通り、児童相談所に来る人々は、不幸でも不憫でもなんでもない。児童相談所にお世話になる人生を不幸とするかどうかを決めるのは、そこに関わっている人自身であって、彼らの人生を誰かが評価することは不可能だ。 

一体何に怯えているのか、恐れる成功者たちよ。児童相談所ができるできないにかかわらず、ほんとうはあなた自身、いまの自分の生活が、いつか何かや誰かに奪われるかもしれない、いつかもろく崩れ去ってしまうかもしれない、そんな思いをどこかに抱えていたのではないか。そんなはずはない、自分はこんなにも大金を稼ぎ、東京の一等地に家を買い、ネギ1本すら紀伊国屋で買い、1600円のランチを毎日当たり前のように食べている。だから自分は幸せなはずだ、成功しているはずだ、だってほら、誰もが自分を羨んでいるじゃないか。でも、どうしてだろう。なぜときどき、ふと不安になるのだろう――そんな思いを心のどこかで抱えながら、抱えていることすら忘れておくる南青山の生活は、あなたにとって本物の幸福か?

ほんとうの意味で成功しているひと、ほんとうの意味で幸福な生活をおくるひとは、恐れる必要がない。なぜなら、自分の幸いは決して失くしたり奪われたりしないところにあることを、心の底からよく理解しているから。目に見える華やかさや高い値段のついているものにほんものの幸せが宿ってはいないことを、幸せなひとは知っている。

恐れる成功者よ、あなたが人生でいつかほんものの幸いを見つけられますよう。肩書の強さや土地の値段、身につける宝飾品や服の価値、資産の大きさなんかよりもずっと確かで失くすことのない幸福を知ることができますよう。

 

椎名林檎ありあまる富

youtu.be

僕らが手にしている 富は見えないよ
彼らは奪えないし 壊すこともない
世界はただ妬むばっかり

もしも彼らが君の 何かを盗んだとして
それはくだらないものだよ
返して貰うまでもない筈
何故なら価値は 生命に従って付いてる

彼らが手にしている 富は買えるんだ
僕らは数えないし 失くすこともない
世界はまだ不幸だってさ

もしも君が彼らの 言葉に頷いたとして
それはつまらないことだよ
なみだ流すまでもない筈
何故ならいつも 言葉は嘘を孕んでいる

君の影が揺れている 今日限り逢える日時計
何時もの夏がすぐそこにある証
君の喜ぶものは ありあまるほどにある
すべて君のもの 笑顔を見せて

もしも彼らが君の 何かを盗んだとして
それはくだらないものだよ
返して貰うまでもない筈
何故なら価値は 生命に従って付いている
ほらね君には富が溢れている

 

みやかわくんとぼくりりが歌うaNYmOREは生々しさの種類がぜんぜん違うという話

ぼくのりりっくのぼうよみ、引退しちゃいますね。あと一ヶ月半。

引退発表をツイッターで知り、エエエエ〜〜〜〜〜〜!!!!!!と叫びながらその場でチケットぴあのサイトに音速でアクセスし、直近のライブチケットを光速で取って名古屋まで追いかけていったのが10月のこと。sub/objective時代からのファンだったので心底残念だけど、名義変えてまだ音楽を続ける気配がバリバリあるのであまり寂しくはない。もっとダサくて長い名前になっても変わらず応援している。死ぬまで応援してる。ちょう応援してる。

 

ラストアルバム「没落」が12月12日リリース。今も聴きながらこれを書いてます。曲は全体的に「ぼくはもう……」のライブで見たぼくりりみが強い。墓場でミラーボールが黒くビカビカ光ってて、ときどき土の下から腐りかけの腕が生えてきてうめいてる、みたいな。とりあえずみなさんも聴いてみてください。

没落での初出で個人的に気に入ったナンバーはもちろんいくつかあるんだけど、印象的だったのが「aNYmORE」。下記動画の2:40あたりから始まる曲です。

 

www.youtube.com

 

iTunesからはこちら

aNYmORE

aNYmORE

  • provided courtesy of iTunes

 

作詞作曲はぼくりりが担当、歌っているのはみやかわくん。ぼくりりの動画時代からの友だちだったとかそういうわけではないみたいで、今年の6月末にリリースされたaNYmOREの提供が初コラボっぽい。

 

この曲は、女の人が浮気した自分の恋人を刺し殺す歌なんだけど、みやかわくんのaNYmOREは、女の人が拘置所で刺しちゃったときのことを思い出してる感じ。若干ノスタルジーがかかっていて、記憶の靄をまとっている。その曖昧さがなんとも色っぽい。刺したときの手の感触ははっきり覚えているけれど、そのときの自分が何を考えて感じていたかはぼんやりと思い出せない。歌声とミュージックの調和から「生々しさが消えたあとの生々しさ」が完璧に再現されていて、初めて聴いたとき、みやかわくんほんとに人刺したことあるのでは?と思った。

 

で、没落に収録されているaNYmOREはぼくりり自身が歌っている。

aNYmORE

aNYmORE

  • provided courtesy of iTunes

 

ぼくりりの歌うaNYmOREは、なんというか、刺したてほやほや。目の前に男の死体、転がってる。手、血でべとべと。汗、頭からびっしょびしょ。息、めっちゃあがってる。刺し殺した恋人を目の前にして、これまで心の奥に埋めていた感情や見たくなかった光景を一気にバーストしてる感じ。

みやかわくんのは「刺し殺しちゃったけど、ほんとうに好きだった」という思いが混じっているのに対して、ぼくりりは「絶対殺す。もう、絶対殺す」という気持ちに満ち満ちている。なんという殺意……。

 

みやかわくんの歌声は確かに色っぽくて、ハイトーンが女性らしさを感じさせるんだけど、男性のなかにある女性らしさの、特につややかで湿った部分が全面に押し出されてこのかたちになっている感じがする。対してぼくりりは、男性とか女性とかではなく、歌によって彼の性別そのものが自在に変わる。これはaNYmOREに限らずなんだけど、ぼくりりはほんとうにそう。この曲は紛れもなく女性のぼくりりが女性としての心象を歌っていて、だからこそこの臨場感、という感じがした。

 

原曲とカバーを聴き比べて楽しむ、ということはよくやるけれど、音楽からビジュアライズされる情景にここまで両方生々しさが詰まっているのはあまり聴いたことがなかったのでめちゃくちゃ印象的でした、というお話。アレンジや歌い方が出来上がる情景の違いを生むのだろうけれど、歌う人の記憶とか、経験とか、人格とか、そういうのって歌声にどれくらい、どう影響するんだろう。こればかりは生身の人間で計測のしようがないのでわからないけれど……。

 

1月28日のラストライブ「葬式」、参列予定です。楽しみ。

「バーニラ、バニラ、バーニラバニラ 後ろの正面、だーれ?」

デスクトップに常時開きっぱなしにしているstoneに、毎日ちょこちょこ何かを書きつけている。ほんとうに、気づかないうちに。そしてはっと気づいたら窓がいっぱいになっていたので、ひとまず並べておく。メモを書きつけている感覚だったけど、日記なんだなこれは。頭のなかのメモリを開放するためには、やはり日記を書くのがいちばんいい。このタイトル、何も考えずに浮かんだ七五調。なのになぜか、どこかが怖い。意味わからん。

 

stone

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 stoneはものを書くひとみんなにオススメ。

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20181130 

田舎にふらりと逃げ出すことがある。仕事が詰まりすぎたときとか、じぶんが何を考えているかよくわからなくなっちゃったときとか。けれども、すこしすればまた東京に帰ってくる。車窓から山が消えて、緑が消えて、四角い建物が増え、電線が少しずつ空を細切れにしていく。そうやって東京に近づくたびに、わたしは、じぶんの時間が東京の速度へと近づいていくように感じられる。耳鳴りが響くみたいに視界の幅がどんどん狭くなって、両端に高い壁がそびえるような。目まぐるしく流れる空気を何よりも嫌っているのに、気づくと、ビー玉のように生気のないわたしがその流れのひとつになって。こうして人は東京の空気を対流させていくのだなあ、と思う。

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20181127

どうして、言葉を手にする必要があったんだろう?

なにか、歳を重ねるごとに誤解を深めていっているような気がしてならない。ひとはもともと、じぶん以外のひとの考えていることや思っていることなんてどうしたって知りようがない。知りようがないのは、知る必要がないからなのだと思う。

けれども、まるで他人の考えていることをすべてわかっているように勘違いしてしまうことがある。それも、割とよく。「じぶんが考えるAさんの考えているであろうこと」を「Aさんが考えていること」にすり替えてしまうのだ。そのせいで無駄に悩んだり落ち込んだりすることさえあって、振り返ると「あれは無駄な時間だった……」と苦笑いをしたこと、きっとわたし以外のひとにもあるんじゃないかな。

他人の考えていることなどわかるはずがないし、知りえるはずがない。その事実をときどき、ちゃんと思い出す必要がある。

そういう意味で、「予想外のひと」というのは、案外心の健康にいいのかもしれない。「なんで?」「どういうこと?」と問いかけたくなるような言動を連発するひとは、一周回って「そういえば、他人とはそもそも理解し得ないものだった」ということを、非常にわかりやすく、気持ちよく教えてくれる。言葉や態度で「示して」くれるのではない。そのひとの生き様そのものが、わたしのなかから、忘れかけていたかたちを掘り起こして気づかせてくれるのだ。

仕事ばかりしていると頭がどうしても合理性の方に寄りがちだけど、利害関係の絡まない生活で「予想外のひと」が突然現れるのは、実はとてもありがたいことなのかもしれない。ギフト。すごいギフト。

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20181125 

一人でいるときに感じる孤独より、二人でいるときに感じる孤独のほうがずっとさみしく、根が深い。

他者がいなければ、ひとりにすらなれない。

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20181120

秋から冬に変わる季節の空は、14時頃がいちばんさみしい。真っ青でも、どこかがいつも白くて、くしゃみが出る。

日課のランニングの時間が、ずいぶん早くなってきた。わたしが毎日夕方に走るのは、時間の境目をじっくり眺めていたいからだ。そのなかを走り抜けたいからだ。

16時にはもう凛と冷えた空気が張りつめ始め、夜がそこへしとしと落ちてくる。その一瞬の特別な時間の中を泳ぐようにして、西の空を横目に見ながら走るのがたまらない。冬が来る。それがとても嬉しいことだったと思い出す。

そして、夜は北から走ってくる。太陽は西に沈むのだから、道理では東から夜が始まりそうなものだけれど、いつも北の空にはまっさきに暗さが滲み出す。

 

 

死ぬのって、夢から覚めるみたいなもんなのかな

 

眠っているときに見ている夢のなかって、現実世界ではありえないような出来事やシチュエーションをいつの間にか当たり前のものとして受け入れてストーリーが進んでいく。あれ、目が覚めたあといつも不思議だなあと思うんだけど、ほんとうに違和感なく「そういうもの」として受け入れて進んでいくよね。たとえば死んだ人が出てくるとか、小学校の頃の名前も覚えていないような同級生と今の仕事仲間の人とじぶんがめちゃくちゃ仲良しとか、空を飛んでいるとか。

 

ふと思ったんだけど、人生もそんな感じで、この世で心臓が止まって脳が死んだ瞬間、別の世界のじぶんがどこかでぱちっと目をさますんじゃないだろうか。

 

「はいお疲れさまでした〜」
「いや〜今回の人生はけっこう長かったね、特に最後30年くらいは医療の進歩すごかったもんね」
「長かったけどまあまあハッピーライフだったから終わったら一瞬だった」
「失恋からの失職からの家族騒動の回やばくなかった?32のときの」
「あれはな〜人生じゃなかったらありえないよねwww人生でよかったわwwww」
「でも奥さんすごくきれいな人だった!」
「ね!一緒に目覚めたかったけど、まだ人生もうちょっと残ってるっぽい」
「いやでも人生ほんとありえないことめちゃくちゃ起こるよね、人生だから変だなって思わないけど、人生じゃなかったらもうパニックだと思う」
「あ、葬式の中継見る?」
「参列してるwwwこの人www誰wwww全然知らないwwwww葬式で初めて顔知ったわwwwwwww」

 

みたいな、そんなやりとりが、わたしたちが天国と呼ぶ場所のどこかでなされていたりして。

 

今日の明け方の夢で、死んじゃった犬の夢を見た。まごうとなきわたしの犬。家のフローリングを歩く足音が元気そうで、すごくよかった。犬は爪を切るのがきらいだったから、歩くと「シャカシャカシャカ…」と、控えめでとてもかわいい足音がする。

わたしがリビングでひっくり返ってのびていると、どこからともなくシャカシャカシャカ…は近づいてきて、だいたい脚や腰のあたりにじぶんの尻をくっつけて寝ていた、犬。けっしてかまってほしそうな素振りは見せないし、かまうと嫌がってすぐ逃げてしまう。けれど知らんふりをしてひっくり返っていると、やつはかならず近寄ってきて、体のどこかにお尻をくっつけて寝ていた。そういう距離感もすごくすきだったな、と思い出した。夏は冷房の下で、冬は床暖房の上でふたりでひっくり返っては、床の硬さに身を任せてぼーっとしていた。何を考えるでもなく、時が流れていることをふたりでただただ感じているだけの優しい時間。

 

犬と人の間に流れる時間には7倍の差がある、と聞いたことがある。本当かどうかは定かではないけれど、もし本当だとすればつまり、わたしにとっての1分は犬にとっての7分で、わたしにとっての1年は犬にとっての7年だったのだ。床でふたりでひっくり返っていたとき、わたしと犬のあいだには、ぜんぜん違う速度で時間が流れていたのかと思うと、なんだかおかしい。同じ場所にいて同じ時間を過ごしたのに、なにひとつわかりあえないもんだ。けれども彼がこの1月、ここではないどこかで目を覚ましたとき、「悪くなかった」と思えるような、そんな時間をわかちあうことはすこしだけできたんじゃないかな、と思う。

 

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高貴なコンビニサラダと、わたしの抱えるカルマについて


その日、昼食を食べそこねたわたしは、狂ったようにローソンの海藻ミックスサラダが食べたかった。16時。もう、狂おしいほどに。

 

昔から、お腹が減ると人はイライラするのが世の常とされていますが、加えてわたしは大変厄介なカルマを背負っている。お腹が減っているときに「これが食べたい」と思った以外のものをぜったいに口にしたくないのだ。もう、ぜったい。何が何でも。何が何でもそれが食べたい。それしか食べたくない。それを食べなくてはならない、という強迫観念に苛まれすらする。いや、決して冗談ではなく。

「それ」は空腹のたびにくるくる変わるけれども、蓋をあければなんてことはない、ファミマのアメリカンドッグとか、成城石井のエビ生春巻きとか、サーティーワンアイスクリームのロッキーロードとか、ミスドのオールドファッションとか、そんなもんだ。それがその日はローソンの海藻ミックスサラダだった。

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皆さんはコンビニサラダにどのような感情を抱いているだろうか。抱いていないと思う。わたしも特に感想はない。

 

彼らには士農工商よろしく身分がある。一番格下のサラダは、キャベツの千切りや玉ねぎなんかを混ぜたのがそのままスナック菓子のように袋に入っている。およそ130円程度。ポテチよろしく袋の口をあけ、中にドレッシングを注ぎ、よく揉んで、食べる。ディストピア飯の3歩手前のビジュアルだ。パンクな気分に効く。

 

真ん中の身分は、プラスチックの容器に入っている。皿に入れられているという時点で格下とは違うのだ。価格帯はだいたい150円から299円ほど。袋サラダに少し彩りが足されたようなシンプルなものから、なめこや山芋やオクラが乗って「ネバネバサラダ」と明確なコンセプトを持つものまで多種多様だ。ときどき有名シェフや有名企業とコラボをしたものもあるけれど、そういうものは値段の割に量が少ないので少しガッカリする。ブランドとは要はドレッシング代である。

 

一番高貴なサラダは、少しおしゃれな底の深い丸い容器に入っている。398円から498円。鶏胸肉やエビ、アボカド、10種類の雑穀などがバランスよく散りばめられており、「じぶんたちは料理として完成されているのだ」という矜持を感じさせる。真ん中の身分のサラダと違い、高貴なサラダはコンセプトにとどまらずストーリーを持つ。きっとこういう人がこういうシーンで買うんだろうなあというストーリー。鶏胸肉サラダを選ぶウーマンはジム通いが趣味で、20時のワークアウトを終えたあとに胸肉サラダを手に取るだろう。押し麦や雑穀のサラダを選ぶウーマンはミラーレスカメラで写真を撮るのが趣味で、雑誌出版社でのミーティングに押されて遅めになったお昼に雑穀サラダを手に取るのだろう。高貴なサラダを考える人々は、それを手に取らせたい人を完全に狙いにいっている。袋に印刷されたフォントや器のテクスチャを見てみろ。マジだから。それを手に取るウーマン、目に見えるから。

 

さて、わたしは海藻ミックスサラダが食べたかった。猛烈に。ローソンの、海藻ミックスサラダが。そのときはもうあれ以外のことがなにも考えられなかった。

ちなみに、高貴なサラダを食べたことはほとんどない。同じ額を払うなら断然サブウェイだ。死ぬほど飢えているときでも、5メートル先の高貴なサラダを売っているコンビニと2キロ先のサブウェイなら、迷わずサブウェイを目指す。コスパの悪さはディーゼル車に負けずとも劣らない。なぜ?と訊かれても、それはそうと決まっているからとしか言えない。高貴なサラダよりぜったいにサブウェイ。

 

その日は4時間ぶっ続けのミーティングだった。それも運の悪いことに12時から16時まで、4人のクライアントと1時間ずつ。大変厄介なカルマその2を背負っているので、12時より前にランチを食べられない。「ランチは12時以降15時前」と頭がセットされているせいで、そこ以外の時間に食べてもそれをランチと認識できず、結果「わたしは何を食べたんだろう……?」と考え続けてしまいイライラする。自分でも書いていてわけのわからない理屈だなと思うが、わかってほしい、この気持ち。ちなみにカルマはすべてで1500ほどある。

 

もちろん休憩など差し挟む余裕もなく、最後の1コマはもはや緊急用のエネルギーをフルに回していたような感じだった。荒廃した精神に天啓のように与えられた「いま食べるべきもの」は、海藻サラダの形をしていた。ローソンだ……。この海藻の配置は……ローソンだ………。
同じコンビニサラダといえど、セブンファミマローソンサンクスサークルKミニストップ、すべて種類は違う。海藻サラダももちろんコンビニの数だけあり、その日わたしの頭に浮かんだのはまごうとなくローソンの海藻ミックスサラダだった。

 

しかし運の悪いことに、打ち合わせ場所の周辺にローソンはなかった。爆速でグーグルマップを立ち上げる。乗り換えの駅から次の目的地周辺をくまなく調べる。あった。飯田橋駅南北線乗り換え改札。駅構内だからなどと言ってられない。考えつく限り最速で海藻ミックスサラダに辿り着くにはそこしかない。南北線に飛び込む。飯田橋駅で飛び降りる。早足にエスカレーターを登る。なんと改札の目の前。駅ナカローソン。尊い。海藻ミックスサラダ、ある。すごい。青じそドレッシングも買う。ファビュラス。イートインなど無い。店の前で改札口を行き交う人々には目もくれず、海藻ミックスサラダの袋を慎重にあけ、無心で食べる。傍目から見れば「なぜこんなところで立ってサラダを食べているんだ」と思われても仕方ないポジションで海藻ミックスサラダをむさぼる24歳。しかしここで正気を取り戻したら負けなのだ。「いったいなぜこんなところで…?」という視線を向けられている、なんて予想してはいけない。周りを見てはいけない。自分と海藻ミックスサラダしかこの世にはいない。羞恥心を知ったら負けである。あのときのわたしは、林檎をかじるまえのイヴだった。

 

さて、わたしは高貴なサラダをすこし斜に構えた目で見ている。いかにもおしゃれを装ったふうでありながら、ダイスカットされたかぼちゃがしなびて小さくなっているところとか、蒸された胸肉がシーザードレッシングの下で鳥の死体のごとくダラリとしているところなどが、どうも信用ならない。この野菜たちに栄養がちゃんと詰まっているのか、ちょっと不安になってしまう。東京の俗な繁華街で売っている激安のおしゃれ雑貨にちょっと似ているかもしれない。本物感のない本物。

 

わたしの頭の中では、コンビニサラダは料理ではなく、コンビニサラダというひとつのカテゴリーなのだ。味、悪くない。栄養価、謎。ビジュアル、壊滅的。しかしそれでいい。なぜならそれはコンビニサラダなのだから。野菜を食べているという満足感をそれなりに得て、いっときの空腹を満たすためのものでしかない。コンビニサラダと料理のどちらが高尚であるかなど、そもそも比較はできないのだ。それが、高貴なサラダは変に料理側に寄っているから、「料理と呼ぶにはニセモノすぎる」と感じてしまうのでしょう。適切なカテゴリーの中で技を磨いて質を高めていくほうが、別のベクトルを持つ質のものに勝ちにいくよりもずっと大切です。これは、サラダに限らない話。