きみのお祭り

死ぬまで盛り上がっていけ

樹木病棟

夢十夜第一夜をオマージュした短いお話を書きました。

***

「もうそろそろ、ぼくは死ぬよ」
半分目を閉じかけて、おだやかな声で有紀はそう言った。静かだけれどしっかりとした声で、死ぬんだ、と酸素マスク越しにもう一度つぶやいた。
「どうして?」
「分かるんだ。芽が、食道のほうまで伸びてきているのが分かる。あと少ししたら、ぼくは声を失って、そして死ぬだろう」
「そう」
有紀はもう長いこと、この病棟で暮らしている。季節は風に連れられ、雨に溶かされ、蝉に見送られ、雪に削られ、そうして今、この病室は3度目の春を迎えようとしていた。有紀は雪の季節に生まれ、13回春を迎え、そして14回目の蝉の季節にむずかしい病気にかかった。それからいくつもの病院を転々としたが、誰もその病気を治すことはできなかった。そして15回目の雨の季節の頃、有紀はこの樹木病棟に居場所を決めた。
「どうしても、死ぬの?」
「そうだね。生き物だから。しかたがないよ」
有紀の白く細い腕には数本の蔦が絡まり、鼓動と呼吸に合わせて脈を打っている。病室の窓からは、東の空が真っ赤に染まり、雲が薄紫色に連なっているのが見える。わたしたちは、何も言わずにしばらく窓の外を眺めていた。
「死んでも、またきみに会いに来るから」
二つの目がわたしをじっと見つめる。
「待っていてほしいんだ。必ず会いにくる」
「どれくらい待てばいいの?」
有紀はまた視線を窓の外にずらした。真っ赤に溶けた太陽は山の際から零れ落ちそうな光を放っている。
「百年」
「百年」
「百年、待っていて。そしたら必ず会いに来るから」
「分かった。百年ね」
「約束だよ」
「約束する」
「ありがとう」
有紀はやさしく微笑んで、またわたしをじっと見つめた。太陽がいよいよ雲の隙間から顔を出し、わたしたち二人と病室を燃えるように染めている。きらきらと、二人の瞳に朝日が反射した。
「ありがとう。さよなら」
有紀はそうつぶやくと、朝日よりもきらきらと光る涙をこぼし、両の目を閉じた。そして呼吸がとまり、次の瞬間、もう死んでいた。
わたしは有紀の酸素マスクを外してやった。まだあたたかい頬と、かたちの良い唇。その唇をそっと親指で撫でると、わずかに隙間がひらき、そこから百合の芽がふたつ、顔を出した。きっとこの百合は、有紀に似て真っ白できめの細かい、ほっそりとした大きな花をつけるだろう。そしてこの花が枯れたら、有紀の身体は樹木病棟に少しずつ吸収されていって、樹木病棟とひとつになる頃、病棟の屋根には真っ白な綺麗な花が咲くだろう。そのあとにできた果実をもいで、植えて、そうして何度も季節が巡るあいだ、わたしは有紀の樹を大切に育てて百年を待つだろう。
「さよなら、有紀」
わたしは小さくつぶやいて、有紀の顔に自分の顔を近づけた。美しい顔。もう死んでしまった。わたしは有紀の唇を自分の唇でふさぎ、百合の芽をひとつ噛みちぎった。有紀とわたしの、積み重ねた時間への餞に。それをよく咀嚼して飲み込み、わたしはもう一度、頬を撫でた。頬に触れた指先からかなしみが水のように流れ込み、わたしの全身を巡りはじめた。百合の芽の苦さが口いっぱいに広がり、涙がこぼれた。気がつけば、もう有紀の腕と足には無数の細かい蔦が伸び、足首のあたりには小さなふたばが芽吹いている。有紀は死んでしまった。さようなら。有紀。百年、わたしはあなたを待っている。
病棟を出ると、朝日はもう雲をずっと高く追い越して、金色の光を病棟にそそいでいる。樹齢八万年と推定されるこの樹木病棟は、大きな樹木そのものだ。この中で死ぬと、死んだ人はこの樹木病棟に吸収され、養分となり、そうやって病棟は何年も、何万年も育ち続ける。次の蝉の季節の頃には、きっと有紀の花が咲くだろう。
わたしは高く聳える病棟をしばらく見上げたあと、うつむきひざまずいた。
「さよなら、さよなら、有紀」
そうつぶやいて、わたしはぽたぽたと涙を樹木の根にこぼした。少しでも早く、有紀の花が咲きますように。そしてその花が早く実になりますように。有紀の樹が、わたしに百年を忘れさせてくれますように。
わたしは樹木病棟に背を向けて歩き出す。春はまだ遠い。冷たい風が朝日に照らされた樹木病棟の葉を揺らし、マフラーをたなびかせた。樹は泣きも笑いもせずに、じっとわたしの後ろ姿を見送っていた。