きみのお祭り

死ぬまで盛り上がっていけ

3万回/日の雑踏のなかに

ときどき、めちゃくちゃにカロリーの高いものや、ジャンクなものが食べたくなる日がある。

かと思うと、あと1週間は水と大豆だけで過ごしていきたいと思う日もある。

急にどこから湧いてきたのか思うほどの忙しさに包まれて、楽しい楽しいと毎日夢中で這いつくばっているうちはいいけれど、ある瞬間に、あわただしさの興奮や酩酊とは遠くはなれているように思われる生活の小さな凹凸に足をとられて転んで、ものすごく気分が落ち込むこともある。

 

赤信号だって踏切だって、人が死なないために作ってあるのだから、車や電車が通っていなければ渡っていいと思っているし、何も来ないのにぼけっと待っているほうが間違っている、と思う。生活も同じで、(これは決して刹那主義、快楽主義的な考えではなく、生まれてから死ぬまでという意味で)自分がハッピーにエキサイティングに過ごせればそれで一番いいわけで、だから、その実現のためにどんな手段を用いようとも、どんな経緯を辿ろうとも、他人にあまり迷惑をかけさえしなければそれでいいと思っている。もし自分があまりにもつらい現実にいじめられすぎて精神病になってしまったとして、でもその「精神病」と呼ばれる状態の中で、現実世界では実現できなかった幸せな夢と幻覚を見続けていられるのならば、わたしは死ぬまで精神病でいたい。それを健常者のひとが「かわいそう」「頭が少し変になってしまったんだ」と言おうとも、自分の手の内にあるあるものに納得ができていれば、それが一番ハッピーです。踊る阿呆に見る阿呆?ちょっと違う?でもわたしは踊っていたい。他人の踊りを見ることの阿呆は、どうしたって何か余計なことを喋りたくなってしまうこと。自分が踊ることの阿呆は、誰かに後ろ指をさされても気が付かないかもしれないこと。でも、いいじゃん。どっちも阿呆なんだから。盆踊りのうちわが高円寺の薄暗い高架下に打ち捨てられている午後9時。

 

アイスクリームかと思ったら、鉛筆で精巧に書かれたデッサンでした。その横にはスパナと、バスタオルがありました。形はもちろん、濃淡も陰も大きさもすべてが違うこれらですが、すべては、炭素で描かれて、すべては炭素に分解できます。これらは炭素でしかできておらず、炭素によってのみ紙のうえに存在し。

 

子供の頃は大人が怖くて仕方なかったけれど、成人して分かりました。大人は最初からこの世に存在しませんでした。

  

俳句は五七五。でも、両手で机をトコトコ叩きながら、そのリズムに合わせて「古池や 蛙飛び込む 水の音」と言うと、「や」のあとに3つの音が、「む」のあとに1つの音が、「と」のあとにも3つの音が隠れていることを知る。文字や声にならない音が、言葉の隙間にはたくさん隠れている。文字と文字、呼吸と呼吸の隙間が、俳句を俳句たらしめていることを知る。今から102年前の今日、森永ミルクキャラメルが初めて発売されました。