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羊とメトニミー

伏流水のなかに棲んでいる

花になる -「見る」ということ

 

 

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花の写真を撮るのが好きだ。熱中するうちに花と自分の境目を忘れて、わたしそれ自身が花や春になるのが好きだ。けれどときどき、自分の「見ている」に自信がまったく持てなくなる。

 

何かを見ている。目でかたちを見ている。風を耳で感じている。香りを鼻で感じている。温度が複雑に入り混じった季節の兆しを頬で感じている。樹皮の凹凸や花びらの冷たさを指で感じている。朝起きて覚醒してから、わたしたちは五感よりはるかに多くの感覚器官で時間を感じ続けている。多くの感覚器官から得られた小さな情報たちを頭がつなぎ合わせて、さらに何倍もの感と動をこころや内臓が受けとめる。受けとめた諸々に、さまざまな気持ちが生まれて溢れ出す。春だなあとか、あの人は元気にしているかなあとか。

 

写真を撮るとき、目でかたちを見ている。風を耳で感じている。鼻先で、唇で、指先で、春の温度と光を味わっている。けれど写真には、かたちと光と影しか写せない。何十枚も、何百枚も花の写真を撮っても、かたちと陰影ばかりが掬われる。花のいのちに届かない。春の光に触れない。頭でものを考えてしまうから、構図とか、色とか、明るさとか、場所とか、そういう「かたちの撮り方」に気がそれて、どうにか「わたしの見た春」を無意識に撮ろうとしてしまうから、花を見逃す。春を見失う。花のかたちを撮ることはできても、花のいのちはまるで写せない。たまにうまくいくこともあって、そういうときはびっくりするくらいうつくしい花のいのちが写る。撮る、のではなく、ただ写っている。

 

いのちのないかたちはただのモノやシンボルでしかないが、かたちがなくては、いのちは撮れない。だから写真を撮りつづけている。何枚も何枚も失敗して、見て、見て、見て、ようやく花を見つけたと思ったら、また頭が邪魔をして花を見失う。かたちにばかり気をとられ、花の前にひざまずき、そのうつくしさや花それ自体を見つけることを忘れる。まずは心臓をひらいて花から降り注がれる光を胸いっぱいに流し込まなければ、なにも見えない。けれどそうするには時間がかかる。春がきたのに、じれったい。そうやって焦ると、すぐにかたちだけの写真が何枚も撮れる。待たなければならない。今日は久しぶりの太陽にわくわくしてなかなか待てない日だったけれど、時間をかけてじっと春を浴び続けていたら、少しだけ、かたちではない花が写った。

 

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