きみのお祭り

死ぬまで盛り上がっていけ

diary_20180107

 

 したいことをしたいと思っているうちにやる、というのは、今年のひとつの目標。そもそもしたいことをできないときというのは、心身の健康か時間のどちらかを欠いているときであって、それをなんとかしようと格闘しているだけで消耗する。そして年末になって「ああ、これやりたいと思ってたのに結局できなかったなあ」と思うのも、なかなかどうして気持ちに鈍い負荷をかける。冬の朝に布団から出るのと同じで、とりあえずやりはじめてしまえば細々続けるのは苦にならないし、三日坊主でやめてしまったのであれば、それはそもそもしたいことだったのではなく「それをしている自分なんとなくカッコ良さそう」みたいな憧れに過ぎなかったのだと思う。

 

時間が有限で人生も有限だということを、最近あまりにもひしひし感じる。24歳になるまでとうとう残り1ヶ月を切った。師走が文字通りあっという間に走り去ってしまったように、きっと24歳もすぐにやってくる。そしてすぐに去っていく。思えば20代とは掛け値なしで「若い」と言われる年齢であって、実際、若さゆえに許されることがたくさんある。実験室で得体の知れない液体を混ぜ学校ごと爆破したいなら、いましかない気がする。無礼無法をはたらいてよい、という意味ではなく、何かをやらかしても「まあ、若いし」と周囲の大人たちが笑って許してくれやすい。いや、ほんとうは何歳になってもそうやって笑って許されるべきなのだろうけれど、ことのほか20代は「若さ」という非常に曖昧な何かを錦の御旗として掲げても「どうぞどうぞ」と言ってもらえるので、何も気にせず好きなことをしていい気がしてきた。

 

主観から見える世界はすべて思い込みでできている。なので、もう何かに苦しむのいい加減やめたい。やめよう。「世間の目が許してくれない」「家族が許してくれない」のではない、あなたがあなたを許していないだけだ。ほんとうのほんとうにあなたのことを拘束できるのはこの世であなたしかいない。不幸になるために生きているわけじゃない。

 鎌倉時代にみんな還ろう。「なむあみだぶつ」と唱えていればあとはぜーんぶ仏様が一切衆生を救ってくれたのだ。善人も悪人もひとしく救われる。どんなにダメでバカでどうしようもなくても、仏性はすべてをすくいとってくれるのだ。柳宗悦の「美の法門」とか小林秀雄の「無常ということ」読んでみて。やばいな、言いたいことがまとまらなくなってきた。今年は宗教の勉強を少ししようと思います、俯瞰的に。特定の宗派によることなく。