きみのお祭り

死ぬまで盛り上がっていけ

かつて、自罰は苦しみと救いのあいだにあった


その昔、まだ女子高生で、膝上15センチのスカートをひるがえして毎日往復14キロの道を自転車でぶっ飛ばしていた頃、わたしは過剰にストイックだった。そして、ものすごい自罰主義者だった。
おそらくもともとの性格によるところが大きいのだけど、たとえば毎日決めた数の英単語をひとつでも時間内に覚えきれなかったら死ぬほどイライラしたし、98点のテストが返されたら悔しくて仕方なくて、その2点が取れなかった原因を徹底的に潰した。対人は不器用の3乗で、「迷惑をかけてしまった!」と自覚した日や、なぜかわからないけれど人とコミュニケーションがうまくいかなかった日には3日くらい立ち直れなかった。そしてひたすら、自分を責めた。お前なんて死んでしまえという生産性のない暴言が頭のなかで鳴りやまないこともあれば、ただ延々と「次に同じ場面に遭遇したら相手に対してなんと声をかけてどんな表情でどう喋るか」をロールプレイングしたこともあった。はたから見ればアホである。人生そんなロールプレイング通りにいくかよ。7年前は根がド真面目な上に強迫観念がすごかったので仕方ないけれど。


最近ツイッターで「メンタルやばいときって他人と関わるの死ぬほどつらいし自分のことだけでいっぱいいっぱいだよね」みたいな主旨を呟いたら、5万人以上のひとがリツイートしてくれた。そこにたくさんのリプライをもらったり、引用リツイートをしてくれたひとのコメントを読んだり、はたまた質問箱(匿名で相談や質問が投げられる例のアレ)やDMに色々な相談をもらったりして、おそらく100人以上のひとたちの声を聞いた。これまで、こんな短期間でこれほど多くのひとたちの心にしまってあるつらさに触れたことがなかったのですごく新鮮だったし、自分と同じように感じている人もいるんだなとわかったことがとても励みになった。ありがとうございました。

 

で、そのツイート経由で知らないひとから心や人間関係に関する相談事を持ち込まれることがすごく多くなったんだけど、それらを拝見する限り「アレ?」と思うことがあった。

相談してくるひと、9割方めっちゃストイック。なんなら超自罰主義的。似ているのだ、かつてのわたしに。
さっきから使っているこの「自罰主義」という言葉は、2秒くらいで考えた。自罰は自罰的という形容動詞がもとのかたちで、何かをやらかしたときに原因を自分に求めて自らを罰すること。主義はプリンシパルですね。自罰と自省は少し違って、自省はただ反省するだけなんだけど、自罰はそれに加えて「罰する」こと。

元・自罰主義者だったからわかるのだけど、自罰主義の厄介なところは「罰されないと苦しみに終わりがこないところ」だと思う。単純に反省して次からこうしようって思って終わりにしていいはずなのに、自分を過剰に責めてしまう。責めないと気が済まないし、それでどんどん苦しくなっていくのは自分だとわかっているはずなのに、やめられない。その姿を他人に見せることがそのひとを苦しめるということもわかっているのに、やめられない。はたから見れば、マゾヒストにもほどがあると思う。

わたしもとにかく過剰に自分を責めた。苦しくて仕方ないのに、どうして頭の中の声が鳴りやまないのかぜんぜんわからなかった。100人のひとが「きみは悪くないよ」と言ってくれたとしても、わたしは「お前が悪い」と言ってくれる101人目を探した。
質問箱に寄せられた相談を見ていると、あの頃の鳴りやまない罵声が思い出されて、懐かしいようなかなしいような変な気持ちになった。


どうしてああも自罰主義者であったのかをあらためて考えてみると、責めることとか、「お前が悪い」と自分に言い続けることが、わたしにとって救いだったような気がする。生きていれば「誰も悪くないんだけどタイミングが悪かったよね」とか「相性の問題だよね」というアクシデントは当たり前に発生するということが追々わかったわけだけど、16歳のわたしには、世界やコミュニティというものがものすごく不条理に見えて、ぜんぜんわけがわからなかった。年相応の物分りの良さと諦めが欲しかった。けれどそれらはそのときどうしても手に入らなくて、「なんでかわからないけどまたうまくいかなかった」という失敗ばかりを繰り返した。そしてその学習能力のなさにがっかりし、何もかもを受け入れられない自分は視野が狭くてつまらない人間なのだと思った。そう思うことでしか、自分のなかに起こっているかなしい気持ちやつらい思いに説明がつけられなかった。

かなしい気持ちやつらい思いに説明がつかないこと、それがいちばん苦しかった。この気持ちはどこから来るのか、この気持ちは一体何なのか、どうしてこんな気持ちが生まれるのか。16年しか生きていなかったからわからなかったし、「すぐにはわからなくてもいい」ということもわからなかったし、根がばかみたいに真面目だったわたしは、説明できないものを何よりも嫌った。だから、「お前が悪い」と自罰をすることでしか、それらの説明できないものを消化できなかった。自罰をすれば、それらはすべて綺麗に収まった。どうして苦しいの?だってあなたが悪いんだもの、と。 罰されれば、苦しみを感じることが許されるような気がした。自罰は、飲み込むことも吐き出すこともできない何かを噛み締めなくてはならない痛みを癒すための、唯一の手段だった。


他人が悪いとか、環境が悪いとか、そういうことはなるべく思いたくなかった。嫌われることが怖かったのではなく、その先の人生に絶望したくなかったからだ。悪いのはわたしのほうで、それをなんとかすればきっと世界は楽しくて明るくて豊かで、みんなと平和に調和していけると思いたかった。どこまでも期待したかった。いつか夜が明ければすべてがうつくしく見えると信じていたかった。そうでないと、この先もそんなおそろしいものに囲まれて生きていくことに耐えられないように感じられた。
16歳の自罰主義者に足りなかったのは、ありのままの外の世界のすべてを受け入れる勇気だったのだと思う。

 

24歳を2週間前に控えたいまは、外の世界のことを少しずつ冷静に受け止められるようになった。良くも悪くも信じられないような偶然が起こることや、誰も悪くないのにみんながかなしい思いをすることもこの世には当たり前に存在するし、誰かや何かを責めても責めなくても、おなじように朝が来ることを知った。
わたしがいまこれを書いているのは、かつてのわたしのようにいま自罰で苦しんでいるひとに「目をひらいて」と伝えたかったから。「あなたは悪くない」とか「ちょっと冷静になって考えてみようよ」なんて言ったって、きっとあなたには届かない。あなたの痛みは、たとえ歪んだ認識から生まれたものであったとしても、間違いなく本物で、いまもあなたを苦しめている。だからわたしはこうして、手紙のようにあなたに書くしかない。目をひらいて、と。目をひらいたわたしを見て、と。言われたってわからない。気付くことでしか得られない。こればかりは。だから、わたしを見てください。目をひらいたら、まあそれでも受け入れられないことは星の数ほどあるけれど、なんとか生きてこられました、少なくとも7年くらいは。「生きてこられた」なんて大嘘で、ほんとうは「生かされていることを知った」なんだけど、それは長くなるのでまた別の機会に。

 

あなたの苦しみに、いつかやわらかな陽が射し込みますよう。