きみのお祭り

死ぬまで盛り上がっていけ

自作自演問答ノススメ

 

 

質問箱という匿名質問投稿サービスがこんなツイートをして炎上している。

 

 

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要は「匿名で質問や相談が投げられる仕組みに自作自演で質問を投げ込んでそれに回答をしている人間が14万人もいるぞ!」というぶっちゃけ。

サービスの作り手としてサイテー(たとえば質屋が店名を掲げた上で「いらっしゃるお客様のうち3割は絵に描いたような成金でございます!」なんてインターネットに書いたらどうだろうか)だなとか個人的な感想はまあ色々あるんだけど、一番あーあと思ったのは、「質問箱での自作自演が運営側にバレている」と周知させてしまったことにより「質問箱を使って自問自答をする人にダメージを与えた」ということ。おそらくこの14万人の中にはそのような使い方をしていた人が少なからず含まれるだろうし、実際にそうした指摘もあったようで、にもかかわらずこの対応だったので余計にがっかりしちゃったんだけど。

 

 

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質問箱の作り手が何を思ってこのツイートをしたのかはわからないけれど、おそらく「自作自演なんて恥ずかしいことをしている人がこんなにいまーーーす!いくら自演しても俺らにはバレちゃってますよーーー!いやあそれにしてもあなた恥ずかしいですね!質問がいっぱいくる人気者気取りですか!顕示欲がすごいですね~〜〜!」ということを言いたかったのかなと思う。あるいは、悪いことしても運営側は見てるよ、なのか。後者だとしたらもっと別のやり方があると思うので、やっぱり前者なんだろうな。

 

端的に申し上げて、「他人の顕示欲や承認欲求をあげつらって笑いものにする」というのは本当に本当に本当にダサい。もうええねんそういうの、と思う。

人には本能として顕示欲やら承認欲求やらが多かれ少なかれ備わっている。「人間の赤ん坊は母親に注目してもらわなければ生命がすぐ危機に晒される。だから大声で泣いてぐずって母親の気をなんとかひいて、自分の要求を分かってもらおうとする」とアドラー先生が言っていたように、他人に注目されなければ生きていけなかった時代の名残として、わたしたちはそれらを持っているのだ。いわばサルからヒトに進化するにつれて尻尾が短くなって尾てい骨になったのと同じように、そうした欲求は泣き声の退化系みたいなものだと思っている。まずはそれを認めてくれ。あなたにもわたしにもあの子にも顕示欲は存在する。そしてそれが外側に現れることだってある。他人に注目されたいことは何もおかしなことじゃない。

あるいは、他人より優れていたい、人気者に見せたいという人が一定数いるのだとして、それが一体なんなんだ。自分を大きく見せることがその人のこれまでの生存戦略だったんだよ。そういう競争環境で何年も育ってしまったから、他人よりなにかの数量で優っていることを自分の価値と考えている人もいるんだよ。それだけじゃん。それでいいじゃん。いい加減ほっといてやれよ。

 

 

で、やっと本題に入ります。自問自答の話。

 

『最果てアーケード』という大好きな短編集があって、そのなかのひとつに、病院の事務室に勤めて毎日それぞれの病室に手紙を配るおじさんの話がある。以下少しネタバレしてしまうけれど、物語の核の紹介。主人公の「わたし」が「おじさんに手紙は来ないの?」と尋ねると「来るよ、ほら。お姉さんがいて、2週間に一度くらい手紙をくれる」と言って、おじさんは引き出しをあける。中には綺麗な字で書かれた手紙がたくさん入っていて、最近はどうしていますか、とか、とりとめのないことが色々と書いてある。「わたし」がそれをじっと見つめていると、おじさんは「実はね、僕に姉はいない。だから、自分で自分にこうやって手紙を書くんだ。寂しい人だと思うかい?」と言う。「わたし」はおじさんに手紙を書くと約束するが、結局一度も書かないまま、母親が亡くなったその病院にも二度と行かなくなってしまう。

 

わたしはこの話がほんとうに大好きで、「自分に手紙を書くように書く」という書き方で日記を書き始めたのは、これを読んだことがきっかけだった。

自分で自分に手紙を書くということは、自分で自分を気にかける、自分で自分に問いかける、とも言い換えられる。お元気ですか?最近お変わりないですか?何か嬉しいことはありましたか?どうしてそんなにかなしんでいるのですか?なぜあなたは今それを選んだのですか?と、自分に問いを投げかけ続けることでしか、わたしたちは自分自身を知り得ない。

自問自答をすることは、言葉を手に取り、自分の中にある目に見えないものに形を与えることだ。言葉にしなければ問いは立てられない。たとえばその手段は手紙かもしれないし、インターネットの匿名質問システムかもしれない。あるいは日記を書くのもいいし、ひとり部屋で壁に向かって喋り続けてもいい。

 

わたしは、自作自演で全然構わないから、多くの人にもっと言葉で問いを投げかけてほしいと思う。自分自身に対して。さまざまな角度から見えないものを形にすればするほど、思考はより研ぎ澄まされていく。言葉を与えなければ、見えないものは見えないままなのだ。形にして初めて事実と推測と感情は切り離され、それらと適切な距離感を測ることができる。

そういう意味で自問自答はより善く生きるために欠かせない営みであると言えるし、それは他人とつながる手段でもあるように思う。問いに対して生まれた解を誰かと答え合わせしてみれば、案外他の人も同じようなことで悩んでいたのだなとわかったり、自分が問いを立てたことそれ自体が「そんな視点からの考え方もあったのか!」と誰かの救いになることもある。自分へ向けているはずの問いが、実は人そのものの根源を問う問いだった、なんていうことがあるのだ。だから、恐れずにたくさん自問自答してほしい。そして問い立てを通してたくさんのひととつながってほしい。

 

どうか、つまらない揚げ足取りの悪意などに負けず、自作自演の自問自答をじゃんじゃんやってくれ。そして質問箱運営サイド、てめーは自転車のペダルに向こうずねを思いっきりぶつけろ。わたしはこれからも皆さんからの質問をいつでもお待ちしております。

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