きみのお祭り

死ぬまで盛り上がっていけ

20180405_深夜腹ペコのdiary

2月と3月と4月のあいだに、今年は境目がなかった気がする。つめたい風が吹いて、梅が散る。すこし晴れ間がのぞいたら、見る見る間に木蓮の蕾がうごめいて、はじけて、空に真っ白い花びらが溶けた。春の雪が桜の目覚めを誘ったかと思えば、並木道は一瞬の生殖爆発を起こし、あっという間に風がすべてを攫っていった。
ほんの短い映画のような冬の終わりと春の始まりだったな。今年は。

湯船に浸かっているときは書こうと思っていたことがあったんだけど、何だったかなあ。忘れてしまった。

最近「文章を書くことは好きですか?」と訊かれて、「ぶっちゃけわからないです」と答えた。カッコつけたかったわけでも何でもなく、本当にわからない。目的を持って何かを達成するために書くことも、目的なくこうやって何かをダラダラ書くことも、両方ぜんぜん嫌いじゃない。嫌いではないけれど、じゃあ好きですか?と言われると、それはすこし違うなと思う。マグロのお刺身のほうが好きだよ。「あれですか、呼吸や水と一緒みたいなもんで、”あるのが当たりまえ”ってやつですか?」と自分に問うてみたけれど、別にそういうわけでもない。ハーめんどくさいな、とかよく思っている。いまだって手を付けなきゃいけない原稿が一本そのままになっている。明日の朝起きたら完成してないかな、これ。くらいに思っている。
でも、これくらいの距離感で付き合い続けられる営みが他にあるか、って訊かれたら、まあ、書くことしかない。距離感がちょうどよくやれるからなんとなく続いている、というのがいちばん正しいのかもしれない。距離感は大事。他人とも、非生物とも、概念とも、場所などとも。

友人とガパオライスを食べながら「ひとつの集団に居続けるのはマジできつい」みたいな話をした。集団へのコミットは、消極的な宗教にいつの間にか入信しているみたいなもんだと思う。集団内で共有される話題とか、空気とか、おもしろいとされるものとか、そういうのがだいたい均質的になっていくし、その均質になっていくことを別に変だと思わない。変だと思わない、というのがいちばん怖いところで、「自分の見ているものや感じているものが当たり前」であるという感覚が拡張していくと「自分の見ているものや感じているものは他の人も同じように見たり感じたりしているはずだ」になる。会社の中ではわりと起こりづらいところもあるが、大学のサークルとか高校の部活とかはまさにそうなんだと思う。狭い空間に人間を複数入れておくとろくなことが起きない。と思いながらガパオライスの黄身をつついた。次はパッタイ食べてみタイ。