きみのお祭り

死ぬまで盛り上がっていけ

困ったら助けるから困ったら助けてください

 

間違えないように、困らないように、困ったらいつでも自分の力で解決できるように。
これまでそうやってがんばってきたけど、そろそろこのスタイル、変えたほうがいいかもなあ、と思った。雨の日の、駅のホームで。

 

外出はサバイバルゲーム。特に雨の日などは体調が悪くなりやすい上に、電車を利用する人が増えるから、外に出るだけで非常に緊張する。取材や仕事の打ち合わせなら集合時間より30分早く現地に着くよう電車に乗るけれど、初めて降りる駅で大きな発車音やアナウンスが鳴っていたり、集合場所に似たような高いビルがドシドシ建っていたりすると、途端に全身の皮膚がゾワゾワ粟立つ。焦ってしまう。さらに雨の日でたくさんの人が駅のホームにいたりなどすると、それはもう、心臓が早鐘のように鳴る。ゴンゴンゴン。どうしよう、だいじょうぶ、またいつものパニックを起こしてしまうのでは?辿り着けなかったらどうしよう、時間に間に合わなかったらどうしよう?そんなとめどない不安が湧いて、口では「落ち着かなきゃ」と言いながら、どうしても挙動不審になってしまう。頭ではわかっているのに、どうにもこうにも体の震えが止まらない。

そんなとき、ときどき親切なひとが声をかけてくれる。気付いたらボロボロ泣いていることもあるわたしにやさしく声をかけ、駅員室まで連れて行ってくれる。少し落ち着いてから事情を説明して、そこで呼吸が整うまで休ませてもらう。駅員さんも皆やさしい。ありがたい。

予期せずしてある意味での弱者となってから、ひとに助けてもらうことのありがたさが身にしみてわかるようになった。声をかけてくれる人や休ませてくれる駅員さんは、みんな名前も顔も知らない赤の他人。名前も顔も知らないままに誰かに手を差し伸べてもらうたびに、「人間ってありがたい」とつくづく思う。思いやりとか、協力とか、そんな名前をつけられるずっとずっと前から、人間には本能として他者にすっと手を差し伸べるちからがそなわっているのだと感じる。それはおそらく、sympathyと呼ばれる。

 

雨の日の駅のホームで各駅停車を待ちながら、ふと、「誰かが困っていたらできるかぎり助けよう」と思った。そして「だから、わたしが困っていたら誰かまた助けてください」とも。それは「〜するなら〜する」という条件付きの人助けへの意志ではない。ヒトといういきものとして在るべき姿を思い出したようなすがすがしさがあった。ずうずうしい、と言われるかもしれない。けれど、それでいいんじゃないか、と思う。

自分の周りに起こるトラブルには、たくさんの種類がある。デキる人というのは、いくつかのトラブルが起こったとしても、すみやかにそれらすべてに対処し、他人に迷惑をかけず解決できる。「まあこういうこともあるよね」とちょっと困ったような顔で、でもニコニコと笑いながら。そういうスマートな人になりたい!と心から思うけれど、現実問題、雨の日に電車に乗るだけで精一杯のわたしには到底無理そうだな、と思う。でもせめて、問題のスムーズな解決は無理だとしても、困った顔でニコニコくらいはできるようになっていたい。なんというか、あの余裕っぽい感じがあれば、このさきもなんとかやっていけるんじゃないか。

ではどうするか?

みんな得手と不得手がかならずある。たとえば雨の日に電車に乗ることが何でもない人でも、地図を読むのがとても苦手なことがあるかもしれない。大きな音を聞かされるのが平気な人でも、気持ちを口にすることがとても苦手なことがあるかもしれない。そういう「困った」になっている人を見たら、わたしはその人を助けようと思う。「苦手なことってすごく困りますよね」って、笑いながら。それで、わたしが駅や街で困ってしまったときは、困っていますと知らない誰かに言うことをおそれないようにしようと思う。自分ひとりでたくさんの自分の「困った」を抱えるより、手を差し伸べられそうな他人の「困った」を手伝いながら、自分の「困った」も他人に助けてもらったほうが、なんか、ニコニコと笑っていられるような気がする。

困っていそうな人はとりあえず助ける、自分が困ったら潔く助けてもらう、というふたつの行動指針は、案外悪くないんじゃないかと思う。なんでもひとりで頑張ろうというつよい意志よりも、太古よりヒトとしてそなわっているsympathyを思い出して大切にしていきたい。

 

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たまたま公園にいた知らない人の知らない犬。レンズを向けたら突進してきた