羊とメトニミー

過不足なし

南青山に児童相談所を建てさせたくない成功者たちは、失う不幸に怯えている

南青山に児童相談所施設などが入る予定の施設が建設されるらしいが、周辺住民の一部がそれに猛反発をしているというニュース。

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動画は、けっこうキツい。気持ちが弱っている人はあまり長く見ないほうがいいかも。児童相談所にかかわりを持つような子ども=事情を抱えた厄介者、と一括りにしているようなひとも目立つ。土地の資産価値が下がる、イメージが壊れる、南青山という土地に児童相談所はふさわしくない……そのどれもが、「成功を収めこの優雅な土地で誰もが羨む幸福な生活をおくる自分たちに、全く格の違う悪い因子を近づけないでくれ」と言っているかのように聞こえる。

当然、この反対運動に対する批判や非難は各所で起こっている。

ニュースで大声を出して怒る大人たちを見たときに、ほんとうに胸が痛くなった。最初この痛みは、こんなひどいことを言われる子どもたちや関係者の気持ちを想像しての痛みだと思っていた。

けれども、すこし時間と距離を置いてあらためて考え直したとき、わたしが本当に胸を痛めたのは、この怒鳴り声をあげている人たちのことを考えたからだ、ということに気がついた。


ニュースに映る大人たちは、何かをひどく恐れている。児童相談所に来る、名前も顔も知らない人々や、保護される子どもたちを。恐れる成功者にとって、児童相談所とは何か不吉な不幸の輪郭のようなもので、彼らの描く幸福な生活のイメージを曇らせる。自分たちの生活のすぐそばに不幸(だと思いこんでいる何か得体の知れないもの)が影を落とすことが耐え難いのだ。だから、排除しようとする。その根底にあるのは恐れだ。

 

「他人を傷つけるひとが、実は一番深く傷ついている」

 

という言葉を、何かの本で読んだことがある。ほんとうにそのとおりだと思う。恐れる人々は大声をあげて職員に詰め寄り、拳を振り上げんばかりの勢いで「不幸の輪郭のようなもの」と戦おうとする。しかし既に多くの人が知っている通り、児童相談所に来る人々は、不幸でも不憫でもなんでもない。児童相談所にお世話になる人生を不幸とするかどうかを決めるのは、そこに関わっている人自身であって、彼らの人生を誰かが評価することは不可能だ。 

一体何に怯えているのか、恐れる成功者たちよ。児童相談所ができるできないにかかわらず、ほんとうはあなた自身、いまの自分の生活が、いつか何かや誰かに奪われるかもしれない、いつかもろく崩れ去ってしまうかもしれない、そんな思いをどこかに抱えていたのではないか。そんなはずはない、自分はこんなにも大金を稼ぎ、東京の一等地に家を買い、ネギ1本すら紀伊国屋で買い、1600円のランチを毎日当たり前のように食べている。だから自分は幸せなはずだ、成功しているはずだ、だってほら、誰もが自分を羨んでいるじゃないか。でも、どうしてだろう。なぜときどき、ふと不安になるのだろう――そんな思いを心のどこかで抱えながら、抱えていることすら忘れておくる南青山の生活は、あなたにとって本物の幸福か?

ほんとうの意味で成功しているひと、ほんとうの意味で幸福な生活をおくるひとは、恐れる必要がない。なぜなら、自分の幸いは決して失くしたり奪われたりしないところにあることを、心の底からよく理解しているから。目に見える華やかさや高い値段のついているものにほんものの幸せが宿ってはいないことを、幸せなひとは知っている。

恐れる成功者よ、あなたが人生でいつかほんものの幸いを見つけられますよう。肩書の強さや土地の値段、身につける宝飾品や服の価値、資産の大きさなんかよりもずっと確かで失くすことのない幸福を知ることができますよう。

 

椎名林檎ありあまる富

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僕らが手にしている 富は見えないよ
彼らは奪えないし 壊すこともない
世界はただ妬むばっかり

もしも彼らが君の 何かを盗んだとして
それはくだらないものだよ
返して貰うまでもない筈
何故なら価値は 生命に従って付いてる

彼らが手にしている 富は買えるんだ
僕らは数えないし 失くすこともない
世界はまだ不幸だってさ

もしも君が彼らの 言葉に頷いたとして
それはつまらないことだよ
なみだ流すまでもない筈
何故ならいつも 言葉は嘘を孕んでいる

君の影が揺れている 今日限り逢える日時計
何時もの夏がすぐそこにある証
君の喜ぶものは ありあまるほどにある
すべて君のもの 笑顔を見せて

もしも彼らが君の 何かを盗んだとして
それはくだらないものだよ
返して貰うまでもない筈
何故なら価値は 生命に従って付いている
ほらね君には富が溢れている