きみのお祭り

死ぬまで盛り上がっていけ

190423diary_生きていたいのに透明になりたい

 

生きているのが好きだ。生きていると、けっこういろいろ幸せを感じられる瞬間がある。春の空の淡さ。信号待ちをしている犬のお尻。野菜のトマト煮込み。木漏れ日。炊飯釜の手触り。フラミンゴの膝。季節の花々。風の味。炭酸水。夜道の街灯。花瓶。大きな建物。温泉の香り。電車の車輪。川の流れる音。はじけそうな苺。はためくタオルケット。崩れそうなアボカド。友人。家族。恋人。待ち人。死んだ人。まだ生まれてきていない人。そういうものがぜんぶ好きだ。すべてがおどろくべき瑞々しさをもって、全身に迫ってくる。生活から与えられるありとあらゆる幸福を、心の底から愛している。

けれど同時にわたしは、消えてしまいたい。淡い青い空に溶けてしまいたい。気持ちよく。日差しが空を真っ平らにしている午後、青空へ落ちていく想像をする。気持ちはとっくに吸い込まれてしまって、身体だけが地上に残されている。そう、消えてしまいたい。この空に飲み込まれて、透明になって、すべてのひとの人生やさまざまな出来事からいなくなってしまいたい。そう思うことが、ときどきある。それは、つらくて死にたいという感情や感覚とはまったく別で、透明になりゆくことへの憧れのようなもの。かげろうのように。泡沫のように。凍る湖の水面のように。見えなくなること。存在しなくなること。誰からも惜しまれなくなること。誰の手元からも離れること。窒素の入った風船のように、空へ飛んでいきたい。

どうしてなんだろう? 生活はだいたい楽しく、仕事にも人間関係にも恵まれ、不満はない。不幸でもない。未来に対する漠然とした「見えない感じ」はあれど、不安にはならない。つまり、なにかか逃れたいから消えたいわけではないのだ。むしろ、一瞬一瞬が流れていってしまうのが惜しいほど、わたしは生活を愛している。人間のことも、生きもののことも、大好き。なのに、どうして?

ふたつの気持ちが同居している。生きていることのすべてを愛せる気持ちと、生の世界から消えてしまいたいという気持ちとが。そのふたつは時としてどちらかが大きくなったり小さくなったりしながら、しかしどちらかが完全なくなることは決してなく、いつも同時にわたしのなかに静かに息づいている。普段は均衡を保っているけれど、何かの拍子に消えたい側の気持ちが大きくなったとき、運悪くその気持ちが魔に捕まると、逃れられない。内側に棲む得体の知れない化けものが大きな影となって、肉体ごとわたしを飲み込んでしまう。

こんなふうに書くと、妄想全開の中二病っぽいだろうか。でも、誰もが感じているのではないか。じぶんの内側に、得体の知れない化けものを飼っている感覚。ときとして彼は魔に捕まり、暴走する。思考を自分でコントロールできなくなり、透明になりたかっただけの気持ちがいつのまにか真っ黒に塗りつぶされ、海底に押しつぶされたい気持ちへと変わっている。

青空が、見たい。