きみのお祭り

死ぬまで盛り上がっていけ

190601diary_眠りの瞬間

6月になった。気づけば一人暮らし生活がとっくに5ヶ月以上経っていてびっくりする。そろそろ2回目の四半期を迎えるらしい。まじか。でもたしかに、この部屋で色々な室温を味わったような気がする。

生活は、楽しい。4月末から5月半ばにかけて仕事がだいぶ大きく動き、付き合う人びとの半分がまるっと変わったりもしたが、それはそれでよかったのだと思う。何が大切であるかは手放してみないとわからない。そうそう、エッセイの連載も無事終了。「大切とはなにか」というテーマで4月頭から書き始めたときは、まさかこのテーマにダイレクトにつながるような出来事が立て続けに起こるなんて予想もしていなかったので、おもしろい。手放してみたあとで振り返ると、あのときはこんなもんだと思っていたが、実はそれってそうじゃなかったんじゃないの?みたいなこともあるので、やはり意味なんてあとからしかわからないものだなと思う。

短歌の歌集が増えた。引っ越しをして一番増えたのは歌集かもしれない。良い歌集と悪い歌集というのはよくわからないが、手放したくない歌集に出会えるのは稀だ。ご贔屓の出版社のものは版元から取り寄せるが、ちょっと名前が気になるくらいならAmazonの古本屋から買っちゃう。この前、某古本屋から届いたある一冊を湯船に浸かって読んでいたら、表紙の隙間から「謹呈」と書かれた細長い紙がはらりと落ちた。これを手にしたのが著者じゃなくてわたしでよかったな、と思った。

5ヶ月住んでわかったが、この家は睡眠に向かない。諸々の位置の関係上、いまの季節など朝5時を過ぎると朝日が強引に枕元へと飛び込んでくる。遮光カーテンを引いても洗濯物を干しても、隙間をつらぬいてくる。 朝の光というのはこんなにもつよいものだったかとびっくりした。端的に、寝不足。けれども二度寝の仕方を覚えた。眠る瞬間というのは、広く青暗い湖に、白い魂を泳がせにいくような感覚がある。その瞬間、身体も前のめりに倒れて、水の底へと落ちていく。何時間か経つと、魂が底に沈んでいる身体に戻ってきて入り込み、その瞬間、水面に向かって浮かんでいく。これが覚醒の感覚。そんな光景が、毎朝目が覚めた瞬間にいつも瞼の裏に浮かんでくる。なんでこんな景色を見るようになったのかは、よくわからない。

しかしあと一ヶ月足らずで夏至とは。夏至を過ぎれば、また昼間の時間がどんどん短くなる。朝も遅くなっていく。ことごとく信じがたい。つい最近まで「日が短くなったね」などと言っていたばかりで、「日が長くなった」と感じるようになったのがつい昨日のような気がする。19時で空が青いことの不思議さを、まだしばらくは新鮮に感じていたい。舗装路の脇に木槿の花が堂々と咲いている。あじさいも始まった。この土地は、道に花が多くてうれしい。

暮らせている、と思う。貯金もちょっとずつ右肩上がりに増えながら、都内に居場所を確保して生活をできていること。それを25歳の誇りとして、それ以外は何も誇りなど持たない。善く生きることを考えるより、まずは生きることを引き受けることについて考えるべきだと思った。この土地の鳩は図々しい。30センチの距離でも逃げない。ああいう余裕が必要なのだと思う。