きみのお祭り

死ぬまで盛り上がっていけ

フライパンから炒めものをじかに食べる生活

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カブと小松菜を炒めたのをフライパンごと机に運び、鍋敷きを二重に敷いて、フライパンからじかに食べる。品というのはこういうところからなのだろうか。誰も見ていない家の中で炒めものをフライパンからじかに食べる女。せめて皿に盛り付けてはどうかと思ったが、洗い物をひとつ増やすのがめんどうくさい。油のついた洗い物はなるべく少ないほうが良い。けれどもし、目の前に素敵な人がいる食事の席なら? あるいは、ここが父方のおばあちゃんの家だったら? 彼らは100グラム980円の牛肉を「固くてまずい」と言う人々である。100グラム1280円を超えてくると「少しは食べられる」そうだ。孫が八百屋で5個98円のカブを買ってそれを葉っぱごと炒めてフライパンから直接食べているなどと知ったら、どう思うだろう。わたしの家の冷凍庫には、業務用スーパーで買った100グラム38円の鶏の胸ひき肉がラップに包まって大量に眠っている。きっと素敵な人を招いた我が家での食事会で、わたしはそれをトマトで作るキーマーカレーにして出すだろう。
品とはなにか。品性とはなにか。「あのおばあさんは、どこか品があるよ」という言葉を初めて聞いたとき、その形容詞のなんとも言えない大人びた感じに惹かれた。直感的に「その人が去ったあと、その空間に残りつづける淡い色の余韻のようなものではないか」と思ったし、いまもそう思っている。頭の先から指の先まで、所作のすべてにつつましやかな光が満ちている様子。大きくて穏やかで水々とした湖を連想させる。ゆるやかなテンポで規則正しくめぐっていく音。品を具体的に指し示すのはむずかしい。大きく豊かに構えている様子、とでも言おうか。だから品がある人は、決して焦ったり慌てたりせず、むやみやたらに動きすぎたりもしない。うつくしいと思う。
品はごまかしようがない。それは所作や行動、言葉、無意識の表情からにじみ出る。品は習慣の結果であり、習慣は美意識の産物であり、美意識は矜持の双子であり、矜持は魂に流れる血液であり、それは広い意味での思想だ。血の通った矜持の伴わない所作は、ステップを知らないダンスと同じ。違うのは、ダンスは何も知らなくても踊って楽しければうつくしいが、思想なき行動はうつくしくない。であれば、思想も行動も両方ないほうがまだいい。統一感がある。
フライパンからじかに炒めものを食べるのは品のある行為か。ないと思う。全然ないと思う。全然ないが、いまのわたしにとっては矜持よりも生活のほうが大切だ。生活に矜持を失わないすべはいくらでもあるのだろうが(そして人はそれを丁寧な暮らしと呼ぶのだろうが)、端的に申し上げてめんどうくさい。暮らしにわずかでも品という余裕を持ち込めるようになるまであとどれくらいかかるのだろう。わからない。成熟のこないまま品のないおばあさんになって死ぬかもしれない。それでもいい。矜持なんてさっき簡単に言ったけれど、それだって一長一短で身につくものではない。付け焼き刃になると間違いなくダサい。であれば、変にもったいぶった矜持なんぞ身につけず、生活では徹底して生活をやるという諦めへと完全に振り切れたほうがいいのではないか。そこには品とは違う素朴な高潔さがあるのではないかとわずかに期待している。