きみのお祭り

死ぬまで盛り上がっていけ

二人暮らしを始めたら、いよいよ逃げられなくなった

 

二人暮らしを始めた。人と二人で、暮らし始めた。暮らしを始めて少しして、ああもう逃げられないんだなとわかった。わたしには、わたしの胸には、あらがいがたい穴がある。

昔から、それはもうほんとうのほんとうに昔から、胸の真ん中に穴があいている。穴はときどき大きくなったり小さくなったりしながら、ときどき身体の持ち主を飲み込みそうになったりもして、それは、ずっとずっと、ぼんやりさみしい。これはさみしいという言葉で表されるのだろうか。わからないけれど、穴があいている、としか言いようのない感覚がずっと昔から、ある。心臓より、少し大きいくらいの穴が。

人と暮らせば、この穴の感覚がなくなる。とは思っていなかった。けれども穴に対して、別の感覚を持つようになるのではないかと思ってはいた。穴をより客観視できるとか、穴からわたしを少しでも離すことができるのではないかとか。それは「さみしくなくなる」という安直な変化ではなく、穴とわたしの付き合い方が変わるのではないかという、そういう、あいまいな期待。

けれど、穴はどうにもならなかった。穴を抱えるわたしもどうにもならなかった。家族で暮らしていた頃と、一人で暮らしていた頃と、二人で暮らしているいまと、なんら変わらず穴がここにある。そしてわたしはその穴を、淵からわずか離れたところで、見つめている。穴はわたしを覗いたりしない。ただ、そこにある。わたしは穴から、離れない。離れられない。胸の、真ん中に。 

幸せな家庭。そういうものがゴールであると、かつて信じていた頃があった。そこに辿り着けば、すべてがハッピーに解決される。アルカディアアルカディアとしての暮らしは、信仰の対象であった。

ハタチを過ぎた頃に信仰からは脱したものの、愛する人とともに生きることが、なにかを浄化してくれるのではないかという信仰までは捨てられていなかった。捨てられていなかったことを、人と暮らし始めてから知った。同時に、穴が埋まらないことも。愛していないのではない。愛しているからこそ、埋まらなさがこんなにも際立って、それからいよいよ逃げられないのだという実感が、影のように全身にはりついてくる。

 

気づいてしまった。穴に必要なのは、大きい愛などではない。やさしいまなざしでもない。埋めようとしてはならない。穴は、わたしのなかにある。

 

二人で暮らしていく中で、きっとわたしたちはたくさん救われていくだろう。わたしが彼を、彼がわたしを、わたしたちがわたしたちを。それは、穴を埋めるための救いではなく、生活のための救いである。穴など、わたし以外の誰にも見えない。だから、そんなものはこの世に存在してない。と、いうていのなかで。わたしは、誰にも見えない胸に穴を抱えたまま、穴の淵から離れられないまま、いつの日か死ぬだろう。 

穴を抱えていることは変わらない。しかし、穴をどうこうしようとしなくなったとき、初めて、少しどうにかなれるような気がしている。どうにか。

わたしたちの暮らしを生きていくことで、わたしは穴のことを忘れ、どうこうしようと思わなくなるときがくるだろうか。穴を埋めようとする暮らしではなく、救いあう日々に間接的に救われることで。日々の意味や向かう先などわからないまま、わからなくてもいいと開き直れる日がくるだろうか。わからないままに積み重ねられるだろうか。埋めようとしないままに磨り減って老いていけるだろうか。わからない。わからないけれども、穴と生きていくのだ。認められるだろうか。

暮らしがここにあることを、ただよろこぶ。それだけが、いちばん遠くて、一番近いみちであるように思われる。