きみのお祭り

死ぬまで盛り上がっていけ

高校生の皆さんへ

緊急事態であるいま、毎日さまざまなメディアからとてつもない量の情報に触れていることと思います。特に、政治や社会制度、特定の人物に対する批判や賞賛なども、数多く目にするでしょう。そのなかで、激しい言葉や極端な考え方に出遭うこともあるかもしれません。

教育の場で10代の人々と間近に関わっている身として、ひとつ、高校生の皆さんにお願いがあります。

インターネットに溢れる情報を見て、何も疑うことなく、「これはこうだ」と思いこまないように、どうか気をつけてください。

たとえば、有名な誰かやが「政治とはこうあるべきだ」と言ったとしても、「政治とはこうあるべき」なんてことは決してなく、「政治とはこうあるべきだ、と考える人もいる」というだけです。そう捉えてほしいのです。

たくさんの人々がさまざまな立場からさまざまなことを言います。そのほとんどすべては、それぞれの人にとっての正しさでしかないということを、忘れないでください。

色々な情報を見聞きするなかで、「なるほど」「変だな」と感じると思います。その「感じ」を手掛かりに、「(そう感じる)これはどういうことなのか」と「どうしてそう感じるのか」を、時間をかけてゆっくりとひもといてみてください。それが「考える」ということです。

もし、情報を見ても何も感じることなどない、という人がいたとして、それはおかしなことではないと思います。何かを感じる日が、いつか来るかもしれません。

ただ、何も感じなかったとしても、ある情報を疑いなく信じ込むことだけは、決してしないように気をつけてください。「そういう話もあるのか、でもほんとうなのかな」くらいの気持ちで眺めるようにしてください。何が「ほんとうか」が気になり始めたら、それは立派に「感じる」ようになった、ということです。どうか、あなたの「感じる」を「考える」にしていってください。

こんなにも「疑わずに思いこむ」ことを危険視するのは、そのような癖がついてしまうと、人生がめちゃくちゃになってしまうリスクが跳ね上がるからです。

何を信じるか。何を善とし悪とするか。生きている限り、わたしたちは常に判断を迫られ続け、その判断が自分の人生を作ります。何を選ぶかは、すべて自分で選ぶことができるのです。あらゆる情報が玉石混交となるなか、自分にとってほんとうに正しいことを選ぶためには、考えるしかありません。

「疑わずに思い込む」は「考える」の真反対にあり、それはすなわち、他人の手に自分の人生をゆだねてしまうようなものです。誰かが言っていることや、なんとなくそこにあるように思われる風潮のようなものは、誰かによって作られたものでしかなく、それを選ぶか、受け入れるかは、あなたが自由に決めてください。

「疑わずに思い込む」人をつけ狙って悪意ある情報を発信する悪い奴らが、この世にはたくさんいます。善意による誤った情報も、同じくらい氾濫しています。どうかそういうものに足元をすくわれないよう、「疑って思いこまない」をいつも忘れないでください。

少し脱線しますが、「疑わずに思いこむ」の危うさは、あなたがあなた自身の人生を創造できなくなってしまうところにもあります。先ほどお話ししたように、自分にとってほんとうに正しいことや望ましいことを選ぶことで、あなたは人生をどこまでも創造し続けることができます。創造の当事者からおりることは、生きている限り不可能です。

けれども、誰かの言うことや、なんとなくそう決まっているように見えるルールや風潮などを「疑わずに思い込む」と、当事者であるあなたにとって、ほんとうは正しくないことや望ましくないことも受け入れなくてはならなくなります。たとえば、何歳からだって夢を目指していいし、嫌いなものをある日突然好きになったっていいはずなのに、「そんなことは無理だ」「現実を見なさい」「それはありえない、普通じゃない」といった声を信じ込んでしまうと、そのとたん、当事者であるあなたは、自分の人生を創造する力を失います。それは、あなたにとってほんとうに正しく、望ましいことでしょうか。

人生を自分にとって善きものにするためには、そもそも、自分にとって善いこととは何かを、あなた自身が知らなくてはなりません。そのためには、考えるしかないのです。

絶対の正しさを追い求めることは難しくとも、いま、ここの最適解はどうにか求められるはずです。そのとき最もよいこととは何か、それは誰にとって、なぜ、どうよいのか。その「よい」が解決できていないことは何か。その未解決の課題をも解決できる「さらによい」はどこにあるのか。それを探し続けることを、どうかやめないでください。誰かが大声で叫ぶ「正しさ」に、惑わされないでください。受け取ったものを疑うことなく信じこんだ瞬間、人生はあなたの手から誰かに奪われてしまいます。考えることだけが、あなたの道を作ります。そのことを、どうか覚えていてください。

ADHDを克服しようと思う

克服しようという気持ちで克服できるんかって話だけど、ひとまず本気で克服しようと思う。これまでいろいろな方法で「対処」を頑張ってきたけれど、ADHDでいること自体のストレスに対して、「対処」がそろそろ限界だと感じるようになってきたから。

一昨年、発達障害を診てくれる精神科でADHDASDの両方を診断されている。診断されたときは、「ああそうなのか(そういえば思い当たる節が300個くらいあるな)」と「だからなんやねん(発達障害があろうとなかろうと楽しく生きれればええねん)(発達障害だから何かができないじゃなくて、これができないからこうやって何とかするという努力を忘れないぞ)」という気持ちがあった。そのような障害があると知ったうえでこの2年ちょっと工夫をしながら自分と付き合ってきたわけだけど、最近わたしのなかで、自分の発達障害、特にADHDに対する心持が少し変わってきた。

 

ADHDを受け入れることはできるけど、ADHDによる失敗は精神をガリガリ削ってくる。やらかしたとき、心に余裕があれば「まーたやっちまったぜペロ」くらいで済むが、心に余裕がないときは「ほんとうに何なんだお前は絞め殺したろか」という気持ちになってしまう。

特につらいのが、注意欠陥と多動が同時に強く出ているとき。ちょっと常識を外れた忘れ物をするし、比喩抜きで10秒前にしたことを覚えていられない。スカートをはかずにスパッツだけで外出していることに気がついたとき、食洗器に洗剤を3回連続で入れたことに気がついたとき、心は冬の指先のごとくささくれる。高いんだぞ、食洗器用の洗剤。ジョイとはわけが違うんだわ。

注意欠陥と多動の状態にあるときは、ほんとうに「心ここにあらず」なので、もはや別人格に近い。何をしていたのか、何を思ってそんなことをしたのか、数秒後にはまったくわからないし、覚えていない。「どうしてこんなことになっているのか」と目を丸くしたこと山のごとし。リカバリーがこれまたすごく大変。

あと1分で家を出なきゃいけないときにスマホとイヤホンが両方なくて、必死で探して5分遅れで家を飛び出す。駅について気がつく。なんとカバンを玄関に忘れている。わたしはそういう人間なのである。

「障害と共存しよう」「できるところを伸ばそう」「失敗の予防ではなく素早いリカバリーを」と決めてやってきたが、もー無理。生来のせっかちと勢いあまって一周回る前進志向が染みついているので、どうしたって心が削れる。やっぱり人間の性根ってそんな簡単に変わるもんじゃない。受け入れることはできても我慢することはできない。じゃあ我慢しない方が体にいいんじゃないの。

 

ということで、ADHDを本気で克服しようと思う。具体的には「洗練した仕組みを作りそれを体に徹底して叩き込む」に尽きるが。

幸いなことに(?)、わたしが強く持っているASDの特性の一つ「日常のルーティンに強くこだわる」が注意欠陥によるケアレスミスに効きそうである。ケアレスミスを防ぐためのルールを習慣化し、そのルーティンが欠落すると気持ち悪いと感じられるまでに体に叩き込めれば、理論上ケアレスミスを限りなくゼロに近づけることができそう。

わたしのケアレスミスの多くは、「せっかち」に由来する注意欠陥と多動である。とにかく無駄な動きが嫌い。最短ルートで目的を達成したい。その思いが染みついているがゆえに、ミスって結果最短ではなくなるのだ。

「ノーミスは最短である」とデコにスミでも彫ろうかしら。

どうなるかはわからないが、ひとまずやるぞの決意表明。発達障害を知ってから「発達障害を持っている自分にやさしくしよう」と努めてきたが、ミスに強い苛立ちを感じる自分を包み隠す方が苦痛になってきた。わたしはそういう自分が嫌い。だから叩きなおす。それでいいんじゃない、と思えるようになってきた。

堂々と自分を嫌えることも大事だと思う。自分へのヘイトを揮発剤にできるなら。ようは根性である。何だよ結局精神論かよと言われてしまいそうだが、この克服は愛なくしてはなしえない持久戦である。だから、根性だ。根性とは魂の強度だ。やるぞ。わたしは、ADHDのせいでミスばかりする自分が、大嫌いです。自分をこれ以上嫌いになりたくないから、お前に中指を突き立て、ADHD克服してやるからな。

日記の書き方を忘れた

日記にそもそも書き方などない。天気を記録するだけでもじゅうぶん日記だし、心の内を切々とさらけ出すも日記である。「書き方がわからない」と思ってしまうほど、ことばがわたしから逃げてしまっている。

 非常事態。ここ1ヶ月はずっと神経が張り詰めていて、特に直近数日はひどい。心身のメンテナンスにも気が回らず、2ヵ月ぶりに顔を出した鍼灸院では「これは一番悪かった頃の崩壊の二歩手前だね」と笑顔で言われたくさん鍼を打たれた。

 悪いばかりではない。良くなったり悪くなったりが激しいから余計につらい。朝は胸いっぱいに冷たい朝の空気を吸って気分が良かったのに、夜に近い夕方になったら畳の上から起き上がれない。心に余裕を持つように持つように心がけても、体のほうに振り回される。背骨を中心に左右に二本のナイフが深く刺さっているような痛みがもう一週間ほどとれない。

 この日記、フードコートで書いている。通路を挟んで真横に広がるのあ誰一人遊ぶ人のいないゲームセンター。メリーゴーランドのごとく無言で回転明滅するスイートランド。誰にも落とされないカビゴンのぬいぐるみ。赤、緑、白、青、赤、緑、白、青に光るメダルゲーム。およそ100組のチープな椅子と机。客、わたしひとり。

あきらめたい。時間をあきらめてしまいたい。どうしようもなく心が重い。やるべきことを120%の力でやってもやっても塩水を飲んでいるみたいに喉が渇き続ける。とっくにバランスを失っているのにとまることのできない独楽。

 ロックンローラーだけが自由に歌ってくれる。大嫌いだとか死んでしまえとか、そんな激しい言葉で、たくさんの音で、大きな黒い塊を爆破してくれる。

 日記の、書き方がわからない。言葉がわたしから逃げてしまっている。土砂のように文字しか出てこない。

拝啓 健常な社会様 病をお許しいただけますでしょうか

最近、喘息、過換気症候群不整脈という診断が下された。数年前からどうにも喉と胸のあたりがおかしく、昨年の夏頃からいよいよ深刻っぽくなったので、いろいろなところを検査した。結果、心的なストレスに極度に弱くそれが体に表れやすいことと、肺の機能が低いこと、不整脈がよく起こることがわかった。体質なので、一生の付き合いになるという。

日常に大きな支障があることはそれほどないけれど、と調子が悪いときはうまく呼吸ができなくなるし、咳がとまらない日もある。仕方ないので、付き合うしかない。病は敵としてあるのではなく、わたしの一部なのだから。

さて、コロナウイルスである。どこに行ってもマスクはないし、もはやスピリタスやらあおさやらの品薄が始まっているのを見るとちょっと笑ってしまう。いや、笑い事ではないんけど。歴史の教科書懐かしの1ページが令和によみがえる新鮮さよ。

しかし喘息患者、困ってしまった。このご時世、電車の中で少し咳込みでもしようものなら、露骨に嫌な顔をされることもある。せめてマスクをしろよと。いや、ごもっともです。でもね、マスク、ほんとにないんです。うちから徒歩30秒のドラッグストア、開店30分前から並ばないと買えないんです。でも、共働きなのでドラッグストアに朝10時に並んでられないんです。

咳はいったん出始めるととにかくとまらないので、通勤特急の中でコンコン始まった日なんぞにはほんとうに肩身が狭い。苦しさもさることながら、視線の痛さよ。

 

そんなことをツイッターでつぶやいたら、「こんなのがありますよ」とおしえてもらった。

 

www.fnn.jp

 

ぜんそくマーク。うつりません。これをつけていれば、自分の咳は喘息の咳だから周囲には迷惑をかけませんというしるしになるという。

なるほど、便利である。便利であるが、呆然としてしまった。喘息であることは、わざわざそれを公表して免罪されにいかねばならないのか、という気分になった。患っている側が病というきわめて個人的な事柄を公表し、「迷惑をかけません」と宣言しなければ居ることを許されないような、そんな風潮があるということ自体に暗澹たる思いがした。

 その咳が喘息なのかコロナなのか、わからなくて警戒する本能は痛いほどわかる。けれども患う側に、健常が正義の社会様を安心させる自助努力を求めるというのは、ちょっと違うんじゃないかと思っている。これは喘息に限らない話。

 

***

 

患う側だから努力が免除されるべきだと言っているのではない。しかし患う側だから努力をすべきだともまったく思わない。反対に、健常側だから努力をすべきとも、健常側が社会のスタンダードであるべきとも思わない。

グラデーションしているはずの病者(あるいは障害者)と健常者のあいだには、だいたいいつも溝が生まれる。それは、両者のあいだで起こる問題が「健常な人とそうでない人の問題」とされ「わたしたちの問題」にされにくいからではないかと思う。

個人はすべて異なる存在である。ゆえに喘息患者1の喘息と喘息患者2の喘息は異なるものだし、アスペルガー1とアスペルガー2の抱える障害は異なるものである。症状や診断名はあくまでも

これは病む側や抱える側の話だけでなく、健康で健常側の人々も同様である。あの人とこの人は異なる人であり、彼らが病や障害にどのような視線を向けるかは、あたりまえだがまったく異なる。

患者や障害者がひとりひとり存在するように、健常者もまたひとりひとり存在することは、近年特に忘れられているように感じられる。両者の間に生まれる問題は、「非健常と健常」の対立構図ではなく、どこまでも「わたしとあなた」ひいては「わたしたち」でなくては、本質的な共生はむずかしい。微視による解決こそが巨視の共生につながっていくのではないか。

 

存在はする/しないの2択でしかありえない。だったら存在する者同士、うまくやっていきましょうや、と思う。病む側、抱える側の人間として。 

200104diary_変な時間に寝て起きる

一昨日は3時に起きて海岸に日の出を見に行き、今朝は5時に起きて別の海岸に日の出を見に行き、そんなこんなで今日は夕方の6時に少し昼寝をしたつもりが、目が醒めたら深夜だった。みかんを食べる。変な時間に寝起きするのは時間感覚がなくなってすこし楽しいけれど、身体のサイクルが乱れるのがいやだ。正月休みが終わる。やっと世の中がもとの生活サイクルに戻ってくれるのがうれしい。習慣や定期的な時間が乱されるのはすごく苦手。同じくらい苦手なのは、人が大きな声を出していること。自分のいま住む家にはテレビがないのでそのような場面に遭遇せずに済み、至極静かで穏やかな正月だった。テレビやYouTubeで芸をして生計を立てている人の表情を見ていると、ときどき、太宰治の「人間失格」の冒頭を思い出す。

『私は、その男の写真を三葉、見たことがある。
 一葉は、その男の、幼年時代、とでも言うべきであろうか、十歳前後かと推定される頃の写真であって、その子供が大勢の女のひとに取りかこまれ、(それは、その子供の姉たち、妹たち、それから、従姉妹いとこたちかと想像される)庭園の池のほとりに、荒い縞の袴はかまをはいて立ち、首を三十度ほど左に傾け、醜く笑っている写真である。
(中略)
まったく、その子供の笑顔は、よく見れば見るほど、何とも知れず、イヤな薄気味悪いものが感ぜられて来る。どだい、それは、笑顔でない。この子は、少しも笑ってはいないのだ。その証拠には、この子は、両方のこぶしを固く握って立っている。人間は、こぶしを固く握りながら笑えるものでは無いのである。猿だ。猿の笑顔だ。ただ、顔に醜い皺しわを寄せているだけなのである。「皺くちゃ坊ちゃん」とでも言いたくなるくらいの、まことに奇妙な、そうして、どこかけがらわしく、へんにひとをムカムカさせる表情の写真であった。』

おもしろくないことに、笑わなくていいのに。

新居には備え付けの魚焼きグリル付き3口コンロがあるのだけど、4つあるガスのひねり口がこれまで使っていたものとあべこべで、料理をしている最中に戸惑うことが多い。噴いている鍋の火を止めなくては!という場面で該当コンロをひねったつもりが別のコンロの火が消え、鍋は噴きこぼれる。そういえばこの家は、玄関の鍵の開け閉めもこれまで住んできた家とは逆だった。キッチンと風呂場にある湯沸かし器操作盤の追い焚き機能も風呂場にしかついていない(これまでの家はキッチンのほうにもついていた)。こういう小さな違和にストレスを覚えるたび、環境が身体に染み込ませる認知や行動の根強さを感じる。人が自分の心だと思っているものは、案外環境の集積の結果でしかないのかもしれない。年末に遠くの国からメールをくれた人も、そのようなことを言っていた。

祖父母の家に挨拶に行った。先に家族が3人行っていて、あとから合流する形で。年賀代わりにケーキを買っていった。母や妹はそれを切る。皿に盛る。洗い物をする。父やおじいちゃんは当たり前のごとく動かない。おばあちゃんは「いいのよ、そんなことやらなくて。おばあちゃんがやりますから」「普段主婦はなんにもせずにぐうたらしてるだけだからこういうときくらい働かなくっちゃね」「女の子がたくさんいると(家事を進んでやるから)やっぱりいいわね」などと言いウロウロしている。状況の何もかもに全然同意できなかった。でも思えばわたしはこういう環境で25年間過ごしていたのだ。家を出て本当に良かったと思う。家族や親族のことは概して好きだけど、受け入れられないこともあるし、それでもいいとわかったことも良かった。

年末年始の振り返りや抱負に関する長ったらしい文章が嫌いだ。なんというか、それをやる人が嫌いとかそういうことではなく、年末年始というきっかけで長文が連なる事象そのものが嫌いなので、Facebookで流れてくるたびに高速でスクロールして見なかったことにする。なんで嫌いなのかはよくわからない。

東京の真ん中に久しぶりに帰ってきて、この街は建物と建物のあいだに隙間がまったくないなと思った。電車はすぐにくる。街がこんな容れ物だったら、そりゃここに生活を置く人たちも自然と合理性や効率性だけが大切になるよねと思った。いま住んでいる土地は非常に交通が不便かつ資本主義に取り残された残骸が積まれたような歪みを抱えているためまったく好きではないが、街という容れ物について考えるきっかけを与えてくれたという一点においてはここに来てよかったなと思う。あと牧場が近く、おいしいソフトクリーム屋があるところも良い。それ以外は一ミリも好きになれない。家は好きだけど土地は好きになれないので、仕事から毎晩帰るたびにどういう感情でこの道を歩けば良いのかわからないなと思う。次は海の見える街か、合理性がそこまで染み込んでいない東京に住みたい。

 

二人暮らしを始めたら、いよいよ逃げられなくなった

 

二人暮らしを始めた。人と二人で、暮らし始めた。暮らしを始めて少しして、ああもう逃げられないんだなとわかった。わたしには、わたしの胸には、あらがいがたい穴がある。

昔から、それはもうほんとうのほんとうに昔から、胸の真ん中に穴があいている。穴はときどき大きくなったり小さくなったりしながら、ときどき身体の持ち主を飲み込みそうになったりもして、それは、ずっとずっと、ぼんやりさみしい。これはさみしいという言葉で表されるのだろうか。わからないけれど、穴があいている、としか言いようのない感覚がずっと昔から、ある。心臓より、少し大きいくらいの穴が。

人と暮らせば、この穴の感覚がなくなる。とは思っていなかった。けれども穴に対して、別の感覚を持つようになるのではないかと思ってはいた。穴をより客観視できるとか、穴からわたしを少しでも離すことができるのではないかとか。それは「さみしくなくなる」という安直な変化ではなく、穴とわたしの付き合い方が変わるのではないかという、そういう、あいまいな期待。

けれど、穴はどうにもならなかった。穴を抱えるわたしもどうにもならなかった。家族で暮らしていた頃と、一人で暮らしていた頃と、二人で暮らしているいまと、なんら変わらず穴がここにある。そしてわたしはその穴を、淵からわずか離れたところで、見つめている。穴はわたしを覗いたりしない。ただ、そこにある。わたしは穴から、離れない。離れられない。胸の、真ん中に。 

幸せな家庭。そういうものがゴールであると、かつて信じていた頃があった。そこに辿り着けば、すべてがハッピーに解決される。アルカディアアルカディアとしての暮らしは、信仰の対象であった。

ハタチを過ぎた頃に信仰からは脱したものの、愛する人とともに生きることが、なにかを浄化してくれるのではないかという信仰までは捨てられていなかった。捨てられていなかったことを、人と暮らし始めてから知った。同時に、穴が埋まらないことも。愛していないのではない。愛しているからこそ、埋まらなさがこんなにも際立って、それからいよいよ逃げられないのだという実感が、影のように全身にはりついてくる。

 

気づいてしまった。穴に必要なのは、大きい愛などではない。やさしいまなざしでもない。埋めようとしてはならない。穴は、わたしのなかにある。

 

二人で暮らしていく中で、きっとわたしたちはたくさん救われていくだろう。わたしが彼を、彼がわたしを、わたしたちがわたしたちを。それは、穴を埋めるための救いではなく、生活のための救いである。穴など、わたし以外の誰にも見えない。だから、そんなものはこの世に存在してない。と、いうていのなかで。わたしは、誰にも見えない胸に穴を抱えたまま、穴の淵から離れられないまま、いつの日か死ぬだろう。 

穴を抱えていることは変わらない。しかし、穴をどうこうしようとしなくなったとき、初めて、少しどうにかなれるような気がしている。どうにか。

わたしたちの暮らしを生きていくことで、わたしは穴のことを忘れ、どうこうしようと思わなくなるときがくるだろうか。穴を埋めようとする暮らしではなく、救いあう日々に間接的に救われることで。日々の意味や向かう先などわからないまま、わからなくてもいいと開き直れる日がくるだろうか。わからないままに積み重ねられるだろうか。埋めようとしないままに磨り減って老いていけるだろうか。わからない。わからないけれども、穴と生きていくのだ。認められるだろうか。

暮らしがここにあることを、ただよろこぶ。それだけが、いちばん遠くて、一番近いみちであるように思われる。

山田くんは怖かったけれど、怒っている彼はうつくしかった

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席替えがあるたびに、わたしは神さまに祈った。どうか、どうか山田くんの隣になりませんようにと。

山田くんは3年2組の問題児と目されていた。授業中はとにかく騒ぐ。大声でマシンガンのように喋り続ける。消しゴムをちぎって投げる。コンパスで前の席の子の背中をつつく。休み時間はすぐに男子同士で取っ組み合いを始めるので、いつも先生に怒られる。最初はふざけっこでやっているつもりが、山田くんはいつの間にかマジになって、3回に1回は本気の喧嘩になる。彼は3年生にしては体が大きく、本気の喧嘩でもあまり負けなかったが、ときどき相手に髪の毛を引っ張られて床に顔を擦り付けられるような負け方をして、そんなときはボロボロと大粒の涙をこぼす。ふしぎなことに、普段あれほど大声でしゃべる山田くんは、泣くときは決して声をあげず、ただ真顔で涙をボロボロこぼすのだ。

山田くんは給食中もとにかくうるさい。口にものをいっぱい頬張ったまま大声を出すので、噛んだごはんが口からしょっちゅう飛び出した。牛乳を飲んで盛大にゲップをするし、ひどいときにはゲップをした勢いがあまってその場で嘔吐した。給食の時間は机を5人一班で向かい合わせにするため、向かいの席の子はいつも被害にあってしまう。その頃、3年2組はハタノ先生の決めたルールで男女が隣同士になるように席が決まっていたので、山田くんの食べカス被害を受けるのはいつも女子だった。大抵の子は半泣きになり、中には本気で嫌がって給食の時間中に大泣きしてしまう子もいた。けれど山田くんは何度怒られても、食べながら大声でしゃべるのも、ゲップをするのもやめなかった。女子はみんな山田くんが大嫌いで、席替えのたびに彼の隣の席のくじを引かないよう本気で祈っていた。一部の勉強がよくできる男子も山田くんのことを鼻で笑って敬遠していたが、クラスの男子たちのあいだではそれほど嫌われていなかったように思う。大半の3年生男子は鼻水を垂らしてちんちんとうんこの話が大好きで取っ組み合いをするので、山田くんとそれほど大差なかった。違いといえば、大半の男子が先生に怒られるとたいてい調子に乗らなくなるのに対して、山田くんは何度怒られてもずっと問題行動を起こし続け、女子から徹底的に嫌われていることだった。学年一おっかないイワサキ先生が本気のげんこつで山田くんを殴っても、山田くんはずっと消しゴムをちぎり、取っ組み合いを起こし、給食の食べカスを撒き散らし続けた。

ハタノ先生は山田くんを怒るたびに「どうしてあなたはいつもそういうことをするの!」と問い詰めていたが、そのたびに山田くんは「はいはいすみませんでしたー!!!」と繰り返すばかりで、とにかく話を聞かないし、話が通じない。そういう態度が余計に先生を逆撫でするとわかっていてやっていて、それはイワサキ先生に怒られようとも変わらなかった。

いま思えば、山田くんがそういう態度をとっていたのは、山田くんだけの問題ではなかったように思う。彼はほとんど毎日同じ服を着ていて、一週間服装が変わらないのが当たり前だった。歯を磨かないからいつも口がくさくて、爪の間やほっぺは汚れとホコリで真っ黒だった。そうした不潔さも山田くんが忌まれる大きな原因の一つだったが、当時は一部のバカ男子以外の誰もが山田くんを避け、誰も彼と正面から関わろうとしなかった。先生は山田くんと向き合おうとするのではなく、山田くんを収めようとした。女子は山田くんを徹底的に排除した。

わたしもご多分に漏れず、山田くんが心底怖かった。最初は、なぜこの人は何回言われても同じことをするのだろうと思っていたが、そのうち、山田くんは言葉が通じない宇宙人なのかもしれない、と本気で考えるようになった。無論食べカスを撒き散らされることや突然大声を出されることも非常に嫌だったが、それ以上に、「言葉が通じない」ということの底知れぬ恐怖を感じていた。宇宙人。何を言っても届かない。わかってもらえない。だから、なるべく関わらないように。山田くんがそばに来るたびに空恐ろしい気持ちでいっぱいになり、いつもさりげなくその場から逃げた。

けれども、わたしが唯一山田くんを怖いと感じない瞬間があった。それは、山田くんが癇癪を起こしているときだった。山田くんは怒ると手がつけられないほど暴れる。本気で怒っているとき、彼はとにかく暴れに暴れまくった。大声を出していることもあれば、涙を流して黙って暴れることもある。そのときだけ、わたしは、山田くんにふしぎな共感をおぼえた。山田くんは怒っているのだ、ということが、彼の全身から痛いほど伝わってきて、わかる、山田くんが怒っているの、すごくわかる、と思った。がんばれ、とすら思った。もっと、もっと怒れよ山田くん。そうだよ、きみはもっとそうやって、怒っていいよ。なぜだかわからないけれど、山田くんが怒ってるのは、嫌いじゃなかった。変な言い方かもしれないが、それほどに彼の癇癪はまっすぐで、正直で、さわやかだった。いつものようにふざけて暴れる姿とは全く違っている。だから山田くんが怒っているとき、わたしはこっそり応援していた。どうしてそれほどまでに山田くんの怒りがわたしを捉えたのかはわからなかったけれど、人が本気で怒る瞬間をずっと見ていたい、と思えたのは、後にも先にも山田くんしかいなかった。山田くんが怒っている理由はそのときどきでさまざまだったけれど、山田くんが怒っている姿そのものは、すごく、気持ちが良かった。

山田くんは4年生になってから転校した。その頃はクラスも離れてしまったので、どこに行ったのか、なぜ転校したのかなどは何も分からなかった。これでもう山田くんに怯える生活はなくなる。5年生のクラス替えで山田くんと同じクラスにならないかどうかを気にしなくて済む、と胸をなでおろした。けれども、ほんとうにたまにだけれど、いまでもわたしは、また山田くんが本気で怒って本気で泣いている姿を見たい、と思ってしまう。誰にも相手にされなかった彼が、唯一外部との接触をしようと本気で試みている瞬間が、その怒りにあった。救われない話だ。けれども、だからうつくしかった。彼がその後どうなったのかは知らない。願わくば救われていてほしいと思う。救われて、怒らずともうつくしくなっていてほしいと思う。