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なくならない拠りどころについて/映画『タゴール・ソングス』感想

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タゴール・ソングス』観てきた。内容としては、1861年にインドに生まれたタゴールという人が残した歌が、現代のインドやバングラデシュでもいまだ長く愛され受け継がれていることを伝えるドキュメンタリー映画。およそ2時間のあいだ、体感で7割以上を人々の歌声が占める。本編から逸れた個人的なおもしろポイントは、インドかバングラデシュの若手ラッパーによる現地の言葉のラップ。内容は字幕でしかわからなかったが、ビートもライムもすごくイケてた。南アジアのラッパー文化、濃厚な気配。

 

映画に登場するのは、ほんとうにふつうの人びとばかり。タクシーの運転手、主婦と子ども、シンガーを目指す高校生、歌を教える大学の講師、古物商のおやじ、若手のラッパー、社会学を学ぶ女子大生、タゴール・ソングスを歌い続ける老年の男性とその弟子。みんながタゴール・ソングスを歌う。インド国歌、バングラデシュ国歌を作ったのもタゴールらしい。タゴールの詩は、タゴールの歌は、ベンガル人の血肉であるという。

 

画面に映るひとりひとりのなかに、確かにタゴールがいる。タゴールは、彼らの声と口を借りてどこにでも現れる。死して80年以上経ったいまでも、彼はたしかにそこにいる。存在とは物質でも形式でもないということを、あらためて思い出した。

 

ベンガルの人々が、歌というかたちでタゴールを拠りどころとしているさまを見て、これはかつての日本にあった「南無阿弥陀仏(なんまいだ)」に近いのではないか、と思った。小さい頃に読み聞かせてもらった日本の昔話の描写には、必ずと言っていいほど「なんまいだ、なんまいだ(なむあみだぶつ、なむあみだぶつ)」と唱える人が出てきた。そうした話ができた頃の日本には、まだ仏さまや神さまへの信仰心が色濃く残っていたことは間違いない。神仏の存在がもっとずっと身近で、そこに心を寄せていることが当たり前だった時代。たとえ特定の宗派を深く信仰していなかったとしても、「なんまいだ」という言葉が自然とこぼれ落ちるような心性を我われは持っていた。それは、信心の有無にかかわらず、我われの心が何らかの拠りどころを必要としていたことの証左であるように思う。宗教という不合理なものは、同じく不合理である人の心を支えるのにうってつけだったのではないか。

日本において、宗教の存在感が科学に取って代わられ久しい。が、かつての人びとと同じく、いまのわたしたちもまた、拠りどころをどこかで求め続けている。それがたとえ、宗教でなかったとしても。

心というわけのわからないものを寄せておけるのは、心と同じくらい、わけのわからないものではないか、となんとなく思う。この時代のわたしたちは、分解と組み立てや、客観と説明を主とする価値観のなかで生きてきてしまったからこそ、わけのわからない拠りどころをなかなか見つけがたい。

 

ちなみにわたしは、母方の実家が寺なので、祖父の家に遊び行くと、朝はだいたいお経の声で起きていた。早朝から勤行する祖父の唱える般若心経は、深い釜の底から響いてくるようなふしぎな響きがあり、わたしはその響きが好きだった。いつしか自分も空で般若心経を唱えられるようになり、いまでもときどき、唱えることがある。祖父はもうずいぶん前に亡くなってしまったが、あの釜の底から響くような般若心経は、いまも耳にありありと残っている。その響きに重ねるように「観自在菩薩……」とつぶやいてみると、祖父とつながっているような気がする。その祖父はきっと、仏さまに自分を開いてあの読経をしていた。祖父の口を通してわたしのなかにいつの間にかいた仏さまも、きっとわからないところで、わたしの魂を支えてくれているのではないかと思う。支えられている、と感じないほどに。

 

こんな話を、聞いたことがあるだろうか。

苦しみのなか、あなたは吹雪の道を歩き続けている。振り返ると、足跡は一人分しかない。神さまはいなかったのだ、と思う。誰にでも神さまはいるというが、わたしはひとりでこの道を歩いてきた。わたしには、神さまがついていなかったのだ。

しかしそのとき、どこからか声が響いてきた。「よく見なさい。それはお前の足跡ではない。傷だらけのお前を抱きかかえて運んでいる、わたしの足跡なのだ」と。

人間はもと、パンの赤ちゃんの千切れた破片

いまも毎秒膨張を続ける宇宙の端っこには、小麦粉をこねて作ったでかいパンの赤ちゃんのような塊があって、それが小さく千切れてはものすごい勢いで地球に飛んできて、そうやって毎秒地球の生きものたちが生まれ続けているのです。だから、わたしたち生命はもともとひとつのでかい小麦粉の塊であり、兄弟、どころか、同一の塊から千切り落された破片でしかありません。破片同士が互いを滅ぼしたり、憎みあったり、上や下を作ったりして、地球という惑星は、ふしぎな星ですね。

 

という説明を、木星のそばに浮かぶ宇宙ステーション博物館のおねえさんがしてくれた。おねえさんはタコのように外側に丸く開いた6本の脚を自在にうねらせ、窓から見える星を指し、ホワイトボードにきれいな字で「地球の生きものはパンの赤ちゃんの破片」と書きつける。

 

という夢を見たと、大学の中庭で友だちが話してくれた。彼女は海が大好きで、ときどき大きな貝殻をリュックサックに隠し持って大学に来る。どうしてそんなものを持ってくるのかと訊いたら、「これに触っていると、海の水から自分が出来たことを思い出せるから」と言った。40億年前の海水が、いまもわずかに血管を流れているのだという。

 

という映像を収めたビデオを、深夜2時の部屋で見た。たった3分ほどのビデオだが、そこに映っているのは、考えられないほど幸福な普通であった。中庭を人々が行き交い、空は青く、樹はまっすぐに大きく立ち、彼女の頬は太陽に光っている。人間、空、樹、太陽、そういったものが長らくそうであるとされていた姿でそのままあること。それがとてつもない幸福であり、いまや誰が渇望してももう元には戻らない世界線を、誰もが選んでしまったのだ。

 

という主旨が記された手紙が、瓶の中から出てきた。長らく漂流したと思われるその瓶は、ところどころに泥と海藻がこびりつき、中に入っていた手紙は砕けてしまいそうなほどに脆かった。この内容が真実かどうかはわからないが、今日の昼は、パンを焼こうと思った。

 

という日記を書いたところで、窓の外に目をやると、草原が真っ赤に燃えていました。戦争は遠い国のことだと思っていましたが、あっというまに身近なものになったようです。あの草原は、小さい頃、弟とよく遊んだものです。カタバミ、ノイチゴ、タンポポ、スミレ……そうしたものがいまやすべて炎の下にあり、わたしもじき、あれらのひとつになり、光って燃え尽きてゆくのでしょう。

 

という録音を聞いたあと、わたしは、大切なことを思い出した。

わたしは、大切なことを、思い出せなかった。

何もしてないわけじゃないけど何もしてないって思っちゃう

自己肯定感が激・低下するタイプの不調に陥っているときは、とにかく自分のやっていることを過小評価しがち。いまです。動けずに床にうずくまっていると、何もやってない、何もできていない……という焦りが潮のように満ちてくる。が、実際のところ何もやっていないこともなく、朝起きて、布団を上げて、卵を焼き、メルカリを発送し、原稿を見て、会議に出て、打ち合わせをやって、運動して、シャワーを浴びて、仕事の連絡を返して……とけっこういろいろやっている。はず。なのに、どうしてか、そのあいまあいまでうずくまっている瞬間に「何もやっていない」「有意義に時間を過ごせていない」「自分は本当にダメな人間だ」という思いが湧きおこってくる。ゼロヒャク思考とでも言うのだろうか。で、それに焦ってまたちまちま動く→うずくまる→「何もやっていない……」のループにはまるか、つらさが一定値を超えるとそのまま床で死んでしまってしばらく意識がなくなるかのどっちか。どっちも地獄です。今日はこのループを5回くらいやって、ついさっきまでは床で死んでいました。首がいてえよ。

もうだめだ。と、思ってしまう。何がもうだめなの?何もしてないのに?という声がかぶさるように響いてくる。心がぜんぜん休まらない。でも、休むほど何かした?と、かぶさってくる。逃げ場がない。逃げるほど立ち向かってないのに? 助けてくれ……。

こういうタイプの不調!と割り切ったとして、割り切りの先に何があるのか。床で死ぬ虚無しかない。がんばりたいのにがんばれない。

自傷行為をやめるのに13年かかった

登山と写真、踊ることが趣味。日課は軽い筋トレとランニング。朝型。夜は0時より遅く起きていられない。三食きちんと食べないとダメ。人と活発に議論をしたり、一人で突発的に旅行をしたりするのが好き。そんな人間が「自傷行為に13年間依存していました」と言って、信じてもらえるだろうか。

 

自傷行為は、いわゆる「メンヘラ」のものだと思われている。だから、わたしのような人間の腕の内側に無数の傷痕が残っていることは、誰も想像できまい。けれども事実、わたしは13年間、自傷行為なしでは生きていかれなかった。

余談だが、この「メンヘラ」という言葉、すごくきらい。

 

初めて自分の体を傷つけたときことを、なんとなく覚えている。爪で皮膚を強くひっかいたら、少しだけ血が出た。生傷に触れると、熱っぽさと細胞の裂け目のやわらかさが指先に伝わり、犬のお腹を触ったときの感覚に少し似ていると思った。あれは、12歳の頃のことだった。

なぜ自傷行為を始めたのか、と問われても、もうあまりうまく思い出せない。

自傷の前触れは、あった。まだ10歳になるかならないかの頃、わたしは苦しくなったときに、手首を強く握る癖があった。ほんの些細なことで、ものすごい怒りや焦りの波が突然寄せてきて、内臓が口から飛び出してしそうになるような衝撃を覚えると、わたしは左の手首を右の手で強く握り、息を止めて、目を強く瞑った。そうしていると、少しずつ波が引いていって、次第に体内の爆発がおさまっていく。内側がしずかになってから、緊張をひとつずほぐし、最後に握っていた手首を離すと、手のかたちにうっすらと赤いアザのような痕が残っていた。

そうしていると、体の内側で起こっている爆発を、ぎりぎり皮膚の内側にとどめておけるような感覚があった。過ぎたのち、手首に残るかすかな痛みを感じているとき、わたしは「乗り越えた」という妙な達成感と安心感を覚え、同時に、痛めつけた自分の手首のことをかわいそうに思った。その感覚が何とも言えず癖になり、手首を握る「おまじない」を覚えてから、わたしは頻繁にそれに頼るようになった。

当時、誰一人としてこのひそかな爆発について知る人はいなかった。わたし自身、そのことを誰かに聞いてほしいとか、話したいと思ったこともなかった。まだそれを苦しみとして自覚しないまま、ただ「それはそういうものなのだ」と受け入れ、ときどきのたうち回っては手首を握って耐えていた。

 

手首を握るおまじないは、いつしか文房具で指や手の甲を刺す行いに代わった。その次は、皮膚を爪や文房具でひっかくようになった。血が出たときの、体の中の爆発が急冷される快感が心地よかった。そしていつしか、腕の内側を刃物で切りつけるようになった。

人目につく手首を切ろうとは思えなかったが、最も痛めつけやすいパーツが腕だったので、七分袖で隠れるくらいの腕の内側を切った。前の傷が治りきらないうちに新たに傷を重ねるとうまく切れないので、そんなときは太ももを切ったり、お腹にコンパスを刺したり、手の甲をコンクリートブロックに打ち付けたりもした。「おかしい」とも、やめたいとも思わなかった。

自傷行為が始まって数年、苦しみとともに自分があることが当たり前すぎて、苦しみがあること自体を疑い、見つめなおすという発想はなかった。生きていることは、わたしにとって苦しいことだった。

苦しみを、痛みでぬぐう。

自分に痛みを与えることは、爆発をやり過ごし、苦しみから気をそらす唯一の方法であった。さみしさ、悲しみ、劣等感、罪悪感、もっとたくさんのあらゆる負の感情がないまぜになって、自分の力ではどうしようもなくなったとき、意識が自分のものではなくなってしまいそうだった。そんなとき、皮膚の表面に鋭い痛みがあると、ぎりぎり自分を「ここ」に保っておくことができた。

同時に、自傷は自分への懲罰と赦免でもあった。自分が苦しんでいるのは、至らない人間だからだ、という強固な思い込みがあったため、自分で自分を痛めるけることで、その至らなさに罰を与えた。至らないから、罰を与え、至らないから、罰を受ける。自分で自分を傷つけることは、理にかなった二重の気持ちよさをはらんでいる。

 

けれどもあるとき、自傷がやめられなくなってしまったことに気がついた。

 

当時付き合っていた人に自傷痕を知られ、つらい思いをさせてしまった。そのとき「もう自傷行為はやめた方がいいんじゃないか」と思うようになったが、いざやめようと思っても、爆発が起こると衝動的に刃物を手にして腕を切ってしまうのだ。やめよう、やめよう、と思っても、どうしてもやめられない。さらに、自傷行為をしたあとに「やめなきゃなのに、またやってしまった」という罪悪感が起こるようになり、さらなる爆発が連鎖するという悪循環に陥った。

結局その人とはほどなく別れてしまったが、そのときわたしは、自分の意識をコントロールするために始めたことが、自分の意志でやめられないことに気がついた。怖かった。自傷行為という関わり方だけで長く自分の苦しみと付き合ってきたから、それ以外の付き合い方がまったくわからない。精神科を受診したりもしたが、初回の診療で非常に嫌な思いをしたため、すぐに行かなくなった。

 

まったく自傷行為に頼らずに爆発をやり過ごせるようになったのは、ほんとうについ最近、ここ一年ほどのことである。毎日、が、週に数回、月に数回、数ヶ月に一回、年に一回か二回、に減っていき、一年間全くしなくなったのは、14年間でいまが初めて。もしかしたらいまは、「数年に一回」のスパンの中にいるだけかもしれないが。12歳のときに始まって、25歳で抜け出し、26歳のいま、わたしの腕の内側には、かつての傷跡だけがうっすら残っている。

どうやって自傷行為をやめられたのか、なぜやめられたのか、と問われても、正直なところ、よくわからない。いろいろな人と出会い、興味関心の幅が広がったことで、自傷以外の苦しみとの付き合い方を知るようになったとか、ものの見方が変わったことで、長く抱えている根源的な苦しみが少しやわらぐようになったとか、そんなところだろうか。まとめて言えば「時間が経った」ということなのかもしれない。医療による積極的な介入を試みた時期もあったが、結局は、ひたすら待つことしかできなかった。

 

自傷行為は、意識をつなぎとめておく手段だった。自傷行為は、懲罰と赦免の両方の快楽を与えてくれた。だから自傷行為は、わたしにとってひとつの救いであった。

 

救いは安直な信仰に転じた。強烈な肉体感覚を伴うこの信仰を必要としなくなるまでに、長い時間がかかった。「痛みはわたしを気持ちよくしてくれても、幸せにはしてくれない」と気がついたとき、「やめよう」と決意した。時間とともに何かが変わったのだとしたら、わたしはいつしか、幸せになりたいと願うようになったのかもしれない。

自傷行為をすぐ完全に断つことはむずかしかったが、やめると決めてからは、自傷をしてしまっても「今日はやっちゃったけど、いつかはかならずやめる」という気持ちを持てるようになり、罪悪感は小さくなっていった。

その積み重ねが、13年間。医療行為や薬に頼ったほうがもっと早くにやめられたかもしれない。けれど、我慢や拒絶というかたちではなく、長い時間をかけて「もうわたしは、自傷行為を必要としていない」ということを、体と心の両方で受け入れるようなかたちへと導いていけて、よかったと思う。

 

もう、必要ない。と思っている。少なくともいまは。これからもそう思い続けられたらうれしい。わたしは、幸せになりたいのです。

関心を装った支配について

他人の注意をひきたがる人は、どうしてすぐにわかってしまうんだろうね。という話を夕食の席で夫としていた。いわゆる、構ってほしい人。我われ人間は、他人が自分に対して向ける「注意をひきたい」を容易にキャッチできてしまう。

なんでだろう。なんでか、わかる。わたしは構ってほしがる人を「支配する人」と言い換える。「ねえ~かまってよ~」というような冗談を交えた愛情表現をほどほどにしてくる人にはそこまで嫌な気はしない。が、「あなたにとても関心があるんです」「もっとあなたと関わりたいんです」という風を装って、こちらの意識をコントロールしようとしてくる他人の言動に対しては瞬時に本能が反応する。「あ、これ以上近づきたくない。近づいてほしくない」という気持ちが沸き起こる。

構ってほしい人は、「あなたの意識をわたしに向けさせること」が言動の端々にかいまみえている。本人はかいまみえていることに気がついていない。そういうことをする人が抱えているものは、さみしさだったり、同じ量の愛情を向けられることを期待した愛情だったりするのだが、そういう介入のされ方はとてもしんどい。

むずかしいのは、本人に「支配をしようとしている」という自覚がない分、拒絶をすると深く傷つけてしまいかねないこと。不要に傷つけたくはない。しかしあなたの業に巻き込まないでくれ、と心の底から思う。関わり方としては、「ものすごく距離をとった共生」が最適解になるが、そこに辿りつくまでになかなか神経や時間を使うので、端的にめんどうくさい。「あさましい」という嫌悪感に任せて関係を丸ごと切り捨てるのもひとつの手ではあるが、あまり進んで使いたい手ではない。それはなんだか、ちょっと浅はかな気もする。

関心表現に見せかけ支配をしたがる人が何を求めているのか、何が満たされていないのかはすこし気になるが、その気持ちを満たしたいという気持ちには到底なれない。むしろそういうことをされた分だけ、心はその人から離れていく。きっとそれを、する側の人もどこかではわかっているとは思うのだけど。でも、やめられないのだろうな。そういうかたちでしか、他人と関わってこられなかったのかもしれない。

 

(おまけ)

ほんとうに友達になりたいと思っているとか、こっそり尊敬しているとか、そういう人の態度は、むしろわかりづらいことの方が多かったりもする。互いに特に相手のことを気にする風もなく、つかず離れず、むしろ「やや離れ」くらいの距離感で細く長く付き合っていて、ずっとあとになってから「実は友だちになりたいと思っていた」と互いに思っていたことが発覚する、みたいな。そうなると、付き合いが長いにもかかわらず変に立ち入り過ぎなかった分だけ、一気に距離が縮まることもある。こういう瞬間は、すごくうれしい。積み重ねた時間の厚みが親しみへと変わっていくとき、わたしはその人のことをもっと好きになる。いつもそういう感じで友だちが少しずつ増えていく。時間がかかる分だけ(そしてその時間をわざわざ意識するわけでもないため)、増える友だちはなかなかに少ない。年にひとりかふたりくらい。でもやっぱり、それくらいがちょうどいい気もする。 

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最近、日曜日にその週にかならずしておきたいことをノートに書いて、次の日曜日にそれがちゃんとできたかどうかを確認している。5つ、やりたいことを書いたとしたら、そのうちのひとつは〇、3つは△〇、ひとつはバツになっている。

バツのつく作業はだいたい、片付け。部屋の片づけの何がだるいって、いるものといらないものを判断するのがだるい。判断と言っても、おそらく部屋の中身の95%はいらないものだが、そのうち5%を見極めなきゃならないのがだるい。「いらない」と判断するまでの心の負荷がだるい。判断は頭でするものだが、思い出には心がともなっていて、心は頭の足を引っ張るのだ。すごく大事な思い出を経てきたものに対する敬意はいいとしても、感傷はモノを捨てるときただただ邪魔になる。その大事な思い出によっていまのじぶんがあるのだ、わたしこそが思い出の塊である、という無理やりの納得から、思い出の品々をゴミ袋に入れるまでの負荷の大きさよ。ああ、だるい。

 

アメリカで、アメリカ国旗を車が次々に轢いている動画が炎上していた。「信じられない」とか「これをやっている奴らはアメリカ人じゃない」とかいろんなコメントがついているのを見て、人間はほんとうに観念のなかに生きているのだなと思う。国旗を踏みにじることの是非とか、品位とか、そういう議論は措くとして、そう、国旗を車で踏んだところで、それは結局、布をゴムで踏みつけただけにすぎないのに、そこにはものすごく何重もの意味とか感情とか意志があって、それにみんなが怒ったり興奮したりしている。よく考えるとすごいことだ。かくいうわたしも、たとえば犬を蹴り飛ばしてる人なんかがいたとしたら、ものすごく怒ると思う。犬が、蹴り飛ばされた、だけ、なのに。

 

自分の「しゃべりことば」に愕然とする。たまたま録音した自分と他人との会話を聞いて、なんと遠回りで、からっぽで、うすっぺらい言葉なんだろうと、膝の力が抜けてしまった。「かきことば」に自信があるわけではまったくないが、「しゃべりことば」がそれ以上にひどい。でも、昔、ふざけて「貝になりたい」と一日中言っていたら、その次の日から高熱が出てのどがはれ上がり一週間ほどほんとうにしゃべれなくなったことがあるので(たしか小学3年生の頃だ)、もうそういうことは、言わない。言霊ってやつはいる。できれば「しゃべりことば」にも「かきことば」にもひとつひとついつでも魂を込めたいが、ふと、魂とは込めるものではなく、生きているそれだけでこもってしまうものではないか、と思った。つまり、込めようがなく、隠しようもなく、それがそれとして在るだけでそこに宿ってしまうのだから、まあつまりは、善く生きるしかない。

 

かつて住んだ土地を愛せなかったことについて一か月近く書きっぱなしの記事を放置している。発酵しないうちにかき混ぜなきゃならんな。

 

 

 

 

我われは結婚指輪を作りたかった

わたしと夫はまだ結婚指輪を持っていない。結婚と同時期にやれ引っ越しだ転職だコロナだと重なり、暮らしにひととおりの安定感を保つのに精いっぱいだったからだ。

我われはアクセサリーがそこそこ好きだ。もっと言えば、愛せるアクセサリーというものを知っている。夫はティファニーで、わたしはマルジェラとティファニーで、指や腕周りをだいたい飾る。それをつけている自分の手指や腕がうつくしくしなやかに映えるアクセサリーを、わたしも夫もこよなく愛している。

さて、結婚指輪。おそらく半年近く探している。あっちのブランドを覗き、こっちの工房を覗き、限定モデルにメロメロになったり、職人が作った一点ものに心を奪われたりしていた。 

けれども、なかなかしっくりくるものが見つからない。我われは手の雰囲気や皮膚の色がけっこう違うので、もともとペアになっている結婚指輪は、どちらか片方が似合うものはもう片方が似合わない。「すてき」ではあっても、「愛せる」にはなかなか至らないのだ。 

ペア売りが一般的とされている結婚指輪を選ぶのは、本当にむずかしい。よくよく探してみると、調和のとれた結婚指輪というのはかなりレアなのだ。調和とは、おそろいとか、同じモチーフを使っているということではなく、ふたつを対にしてならべたとき、互いが互いを支えて引き立てあっている状態である。そういう視点でインターネット上の結婚指輪の海を眺めていると、「これは」と思えるものは100対にひとつ出会えるか出会えないかなのだ。そしてそのひとつが二人ともに似合うことはこれまで一度もなかった。たとえ片方のデザインがどんなに良くとも、対にして調和が存在しなければ、結婚指輪として買う意味はない。我われがこれまで出会ったのは、片方だけをお買い上げしたい素敵な「指輪」ばかりであった。

 

そして我われはとうとう「なければ作ろう」という結論に至った。特に夫は手仕事の職の人なので、もともとその手のものは得意である。わたしは得意かどうかはわからないが、「これ」と納得しきれないものにそれなりの金額を払うくらいなら、多少不格好でも「これ」と思えるものを作りたい、と思った。 

善は急げ。ネットでいくつか指輪工房を見つけて比べ、そのなかでも評判の良い一件に早速予約を入れた。制限下であっても、ブライダル系のお店はもともと完全予約制のところが多いので、特に支障なくスムーズに来訪が決まった。 

とは言え、売られている工房ではなく作る工房に足を運ぶのは初めてであったし、ほんとうに「作る」かについても、もう少し時間をかけて話し合いたい気持ちもあった。そのため、今日はひとまず相談をしに行って、サンプルを見せてもらって、もしとんとん拍子で決まれば作ってもいいね、という話を夫としていた。だから、来店予約は「制作」ではなく「相談」にチェックを入れて申し込んだ。

 

我われはとてもワクワクしていた。二人で完全に調和のとれたコーディネートに全身を包み、いざ行かん、表参道。小雨がぱらついていたが、我われは寒くなかった。とにかく楽しみだったのだ。

さて、工房のドアを開ける。案内されるままに荷物を預け、椅子に座る。そうしたら、目の前に現れた50代くらいのスタッフの方が、名乗って早々に黒いファイルを広げた。

 

「さて、それでは今から、指輪作りの流れについて説明します。全部でおよそ10分ほどの説明となりますので、どうぞよろしくお願いします」

 

??? と頭の中にはてなが3つ浮かんだ。いきなり具体的な話が始まってしまって困惑する。まずは、どうして今日ここに来たのかとか、いまどんなふうに結婚指輪について考えているかとか、そういう相談から始まるものだとばかり思っていたから。けれどもスタッフのおばさんは淡々と説明を進めていく。

 

「当工房では、材質や形など、お客様のご希望に合わせてさまざまな形の指輪を作ることができます。まずはお客様にこのワックスをお好みのかたちに成形していただき、それをこちらでお預かりします。お預かりした型に合わせてセメントのようなものを容器に流し込んで固め、そのあとに高温で熱してワックスを溶かします。そうすると、指輪のかたちに空洞ができますので、その空洞に金属を流し込んで指輪が完成します。これは、ほとんどすべての指輪作りに使われている方法です。当工房では、プラチナ、ゴールド、チタンで指輪をお作りできます。それぞれの材質にそれぞれの良さがあるので、お好み次第です。指輪の形は、まず、甲丸というスタンダードな……」

 

おばさんは、ファイルに綴じられている「指輪の作り方」を一ページ一ページ丁寧に読み上げていく。読み上げられているそれは、すべて文字によって書かれていることであり、久しぶりに大学時代のつまらない講義を思い出した。「これ、パワポのレジュメだけ配布してくれればいいじゃん」というあの退屈さを。

隣を見ると、夫はやや神妙そうな顔で軽くうなずきながらおばさんの説明に耳を傾け、ファイルをひたすら眺めている。わたしは知っている。この人がやや神妙そうな顔をして話している相手の目を見ていないときは、軽い違和感を覚えているときなのだと。

説明はたしかに10分ほどで終わった。「最後までお聞きくださりありがとうございました」という文言も、おばさんはご丁寧にそのまま発話した。わたしはなんだかいたたまれなくなり、目を少しそらした。

すると、別のスタッフのおばさんがどこからともなく現れた。手には黒いスエードの箱を二つ持っている。

 

「これは、当工房でこれまでお客様が作られた指輪のサンプルです。許可をいただいて複製したものですので、よろしければ作られる際の参考にしてください」

 

いよいよたまらなくなって、わたしは言った。

 

「あの、今日は、作りに来たというよりは、初めて結婚指輪を作る工房に来たので、まずは相談がしたくて伺ったのですが……」

 

「ええ、もちろん問題ございません。良ければサンプルをお手に取ってご覧ください」

 

全然問題なく、ない。あまり話を聞いてもらえないんだな、と悟った。

スエードの箱が開かれる。いろいろな色や形の指輪が、ひとつの箱に20個くらい収まっている。ダイヤモンドが使われているもの、ねじれたかたちをしているもの、槌目の加工が施されているもの、心電図のように一部がぴょこっと波打っているもの。どれも個性的だったが、雑貨屋にあるファッションリングのようにずらりと並べられているせいか、どこか威厳に欠けていた。

いくつか気になったものを手に取ってはめてみる。夫は平打ちの指輪が気になるようで、いくつか試している。わたしの指は、甲丸寄りのものが映える。7号、12号。我われの指の太さは、足して20号に満たない。

指輪はこの場でいまから作れるという。夫とわたしが考えているデザインであれば、おそらく2時間足らずでできるだろう、とのこと。作っている様子は写真に収めてくれて、後日指輪と一緒に送られてくるそうだ。

 

「ちょっと、一度夫と相談の時間をもらっていいですか?」

 

いくつかの指輪をはめたり外したりして、何となくの値段感も教えてもらい、そろそろ材質の相場が上がり始めているから、作るなら今、という話をされて、わたしはそう申し出た。夫も隣で「そうだね」と言った。

我われは店の外に出た。雨はあがっていた。

 

「どうだった?」

「うん」

「うん」

「そうね」

「うーん」

 

沈黙のあと、夫が口を開く。

 

「なんだろう、完成品が手元にないせい、なのかな」

「……というのは?」

「作ること自体は何も嫌じゃない。楽しそうだし。値段も、思っていたより抑えめだったし。頭の中で、作るならこんなふうにしたい、っていうイメージもできてる」

「うん」

 

「でも、いま、おれはここで『よし、作ろう』って、なぜか言えない」

 

「うん」

「なんでなんだろう」

「わたしもおなじ気持ちだよ」

「ほんとう?」

「うん。なにが悪いってわけじゃないし、条件的にはオールオッケーだけど、でも、『よし、いまからここで作ろう』っていうふうには、どうしてか思えない」

「おれもおなじ」

「じゃあ、待とう」

「うん」

「何も問題なくても、違うって思ったら、違うんだと思う」

「そうだね」

 

そうしてわたしたちは店に戻り、申し訳ないが、今日この場で決めることはできない、持ち帰ってゆっくり検討したいという旨と感謝を伝え、店を出た。

表参道は飲食店が少しずつ活気を取り戻し始めている。いくつかのカフェはドアや窓を全開にして営業をしていて、中にはまばらに人がいる。

 そのうちのひとつに入り、夫はコーヒーを、わたしはミルクティーを頼む。ミルクティーはメニューになかったが、アールグレイがあったので、温めた牛乳を入れてほしいとお願いしたら、特に何を言われることもなく、注文した通りのものが出てきた。

 

「お疲れさま」

「お疲れさま」

「行ってみてよかったね」

「そうだね」

「おれ、昨日鹿ちゃんが見つけたあの指輪もけっこうまだ気になってる」

「やっぱり? わたしも」

「うん」

「あのさ」

「うん」

「わたしたちは、結婚指輪を作りたかったのであって、金属を加工しに行ったわけじゃなかったんだね」

「ふーん?」

「その、さ。さっきのお店、指輪が自由に作れるのはすごくいいし、出来上がりのサンプルも悪くなかったし、値段も思ったより安くて、条件は全部よかったじゃん」

「うん」

「でも、わたしたちは、わたしたちの結婚指輪を作るっていう、わたしたちの結婚指輪を見つけるっていう、そういう体験がしたかったんだと思う」

「あー」

「だから、突然こちらの話を聞かずに指輪の作り方の話が始まったこととか、したかった相談を受けとめてもらえなかったこととか、そういうひとつひとつの、なんていうのかな、気持ちが置いてけぼりにされたみたいな感覚があって、それが引っかかったんじゃないかなって」

「うーん、言われてみるとたしかにわかる気がする。うん。そうかも」

 

結婚指輪はつまるところ、加工された金属である。けれども我われにとって結婚指輪を見つけるということは、自分たちのための指輪を探し出すということであり、探す時間そのものも大切に思えなくてはだめだったのだ。

帰り道、前の日に見つけた、とある指輪を置いているギャラリーに連絡を取ってみる。すぐに親切な返事が来てうれしくなった。その指輪が我われの指輪かはわからないが、我われは、我われの指輪がかならずどこかにあるということを知っている。焦らずに、もう少し時間をかけて見つけてみようと思う。