きみのお祭り

死ぬまで盛り上がっていけ

メイク・スロー・タイム

急ぎたくない。焦りたくない。慌てたくない。これまでの生活時間に、いいかげん疲れ果ててしまった。

もともとわたしはせっかちなので、絶えず頭のどこかが回っていて、気が休まらない。湯船に浸かってヘエーとなってるときでさえ、風呂から上がったあとのことを考えてしまう。明日の仕事の準備、注文途中のプレゼント、返信していないメール、あ、ゴミ出し。考えたくて考えているというよりも、頭が少し先のことを考えて行動をシミュレーションするように癖づけられてしまっている。

はー、やだやだ。先のことを考えると、急ぐし、焦るし、慌てるし。いまこんなことをしてる場合じゃないんじゃないか、という気持ちがむくむく起こって、手元がおろそかになる。手元のそれは、つい数十分前に頭をいっぱいにしていたことなのに。どうしてこんなことになってしまうんだろう?

ゆっくりやる、しかないのだと思う。そして、いまやっていることのことだけ考える。少しずつ自分で自分の時間をゆるめていかないと、いよいよミヒャエル・エンデの「モモ」の世界に登場する大人たちになってしまう。いや、もうなっているかもしれない。でも、まだ、まだ、ほんの一握の自覚が、ぎりぎり大事なところ繋ぎとめてくれている、と思いたい。せっかちってほんとに良いことないよ。雑になるし、疲れるし、いつも計算をしなきゃならない。このエネルギーをもう少しべつのことに使った方がいいっていつも思ってるよ。

メイク・スロー・タイム。ゆっくりの時間を作る。作る、ぞ! でなければ数年後には何かが死んでしまっている、きっと。

 

自己肯定感をブチ上げない2021

自己肯定感ブチ上げ、がトレンドっぽい。

「自分(たち)は最高にクールでブリリアントでグレイト!」みたいなのが流行っている気がする。なぜかはわからないけれど。kemioさんとか叶姉妹のお二方とかの影響だろうか。

ノリノリでブチ上げの自己肯定は、楽しい。「うち(ら)ってサイコー」の心意気は事実、支えになることもある。やばすぎて一周まわってハイになったら馬鹿力が出て結果サイコー、みたいな経験も、すっごく気持ちいい。

けれどもわたしはどうしても、この心意気ににじむカラ元気感に、一歩引いてしまう。

これは、「ハレ」の心意気である。自己肯定感をブチ上げると世界がキラキラして見えてくるのは、たぶんそのせい。ある種のドラッグ的な。短期的には効くかもしれないが、長くやっていくのはむずかしい。

 

「最高にクールでブリリアントでグレイト」。それは、理不尽や不条理を跳ね返す魔法の鎧。しかし外圧はいつだって、思わぬところから思わぬかたちでこちらを叩き潰しにくる。頑張っても頑張っても、その努力を嘲笑うかのように、理不尽は積み重ねた労力や時間を一瞬で粉々にする。

ブチ上げの対抗魔術の先にあるのは、パワーゲームだ。外圧vs.自己肯定。ブチ上げるには体力気力も相当必要である。体力気力のこもっていないブチ上げは、ただただむなしい。力を伴わない自己肯定は、一歩間違えると自分をより一層深い虚無に突き落とす。「わたしの思ってたことはぜんぶ嘘だったのかもしれない」という魔が心に影を落としたときの、あの温度のなさ。

「最高にクールでブリリアントでグレイト」をやり続ける限り、パワーゲームからはおりられない。叩き潰されることへの対抗と勝利が「より強くある」でしかないことは、塩水を飲んでのどの渇きを潤すのと似ている。

 

だからわたしは、自己肯定感をブチ上げたくない。こだわらずに、うまくだいたいを忘れたり、かわしたり、風や水のようにしていたい。

 

浄土真宗の祖である親鸞の教えを記した歎異抄のなかに、こんな話がある。

浄土真宗はひたすら「南無阿弥陀仏」を唱える宗教である。もし、他の宗派の信者に「念仏など無意味だ。浄土真宗の教えなど浅はかで卑しい(もっと高尚な教えを勉強をしろ)」と軽蔑されたら、こう答えよと親鸞聖人は言う。

 

「わたくしたちのような、仏道修行の能力に乏しく、読み書きもままならず、煩悩にとらわれ迷いから抜け出せない人間でも、阿弥陀仏を信じさえすれば救われるから、念仏を唱えるのです。仏の道の修行に秀でた方々には卑しいと思われたとしても、どうしようもないこの身には、これが最上の救いです。もし念仏よりもすぐれた方法があろうとも、わたくしたちには到底ついていけないと思われます。すべての生きとし生けるものが生死の輪廻を抜け出すことが仏の悲願。どうぞ妨げられないでくださいませ」

歎異抄 十二章 訳は自身による)

 

うまいなあ、と思う。自己卑下をしているようでいて、そうではない。どうしようもない。だからこそ阿弥陀仏が救ってくださるのだ。どうしようもない。だからこそ阿弥陀仏を信じるのだ。という信心の真髄が垣間見える話だ。

いや、言いたかったのはそこではなく、自身が仏道修行に及ぶほどの力のない身であることを受け入れているからこそ、抵抗も言い訳も必要とせず、ただ、「こうしたい(こうされたくない)」ということだけを見据えている。その説得力、しなやかさたるや。

 

というわけで、わたしもそんなふうにいきたい。耐え忍ぶでもなく、パワーゲームに参加するでもなく、ただ正しく見つめ、どうしたいかだけを考えていたい。

 

自己肯定感をブチ上げるのは楽しい。けれどいつか、「最高にクールでブリリアントでグレイト」だと思えなくなった日、わたしは生きることを見失ってしまう。 だからこれは、一年のうちほんの一瞬だけ使う奥の手として隠し持っておくことにする。

ハレではなくケで生きながらえるような、そんな心意気を胸に、2021年を開幕したい。

かたちをして顕わるるもの

今日はたくさんの手仕事を見た。清澄白河で陶器の展示を見て、そのあいまに深川一帯の伝統工芸展も見た。軟質陶器、帯、すだれ、建具、表具、染、指物。実演もあった。ずーっと、ずーっと見ていられる。

 

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ふしぎだな。ものにかたちはあるのに、技は人をしてしか顕れない。

 

技がかたちあるものを作る。技はかたちを持たない。技は人に宿る。

 

人は魂を持っている。魂もまた、かたちを持たない。その人の魂が技に顕われる。技がかたちを作る。作品、すなわちそのかたちは、魂の痕。作り手の技により作られたものから、観る人は作り手の魂に触る。

 

かたちを通して、かたちのないものにふれる。それにふれているのは、わたしのなかにある魂。通じあったとき、わたしは、わたしのなかのかたちのないものと、かたちに宿されたかたちのないものの両方が、ふるえるのがわかる。

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洗濯機は鳩と同じような声で鳴く。ククルク、ククルク、と、一つ目の音はややためらいがちに。そして残り時間はいつも嘘をつく。3分じっとしていたかと思うと、突然逆襲のように動き出して、残り時間がまとめて2分減る。

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「令和なんだから」という言葉を見ると、どっと疲れる。

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走りながら、秋の朝の風で肺いっぱいにする。からだのなかの酸素が入れ替わって、細胞ごと自分がぜんぶ秋の空気になってしまった。空気のからだは、かるい。風が少し吹けば、どこまでも駆けていけてしまう。名前の分からない木に赤い実が点々と生って、名前の分からない木の葉っぱが黄色く、赤い。鴨が大きな両羽を揺らしながら水の上をすいすい進む。二匹くっついて生殖しながらトンボが頭の上をいく。空の色が、夏よりもずっと淡くて、朝の湖みたいだ。秋。

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よく、鍋で ココアやミルクティーを作る。この手の飲みものを作るときのポイントは、沸騰させた牛乳が鍋のふちぎりぎりまでせり上がってくるのを静かに待つこと。

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むずかしげなこと書こうとしたけど忘れた。かしこいぶらないほうがいい。

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賞味期限が一年前に過ぎたゆず七味、ふつうにうまい。

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ほんとうはたくさんのことがたくさんあるけれど、文字にしなくてもいいやと思ってしまうのは、怠慢だろうか、そうじゃないだろうか。

たった一人に届きますように

仕事というものにあらかた慣れて初めて気がついたが、わたしはとにかく、大勢の人に向けて何かを呼びかけたり、はたらきかけたりすることが苦手だ。一社目で入った大きなメーカーでは商品企画職をしていたが(実際はすぐに辞めたので企画職の卵どころか受精卵レベルのこともしていなかったが)、「わたしはいったい誰に何をしているのだろう」という悩みが寝ても覚めてもついてまわった。そののち、学生時代から何となく続いている「文章を書く」ことが少しのお金になるようになって、それで大勢に向けて、その人たちが欲しいと思うようなことを書いたりもしてみたが、これもやはり「いったい誰に何を……」という思いがぬぐえず、楽しめる仕事とは到底言えなかった。

わたしには、「ある」と感じられる宛先が必要なのだ。家族を想い祈る。友人を想い祈る。時間や場所を遠く隔てた、名前も知らない、けれどもそこに確実に「ある」とわかるその人を想い祈る。あるいは、人間ではないもっと大きなものや、その大きなものが姿を変えて顕れた小さなものを想い祈る。そうした行為―そこにあるもの、近かろうと遠かろうと、そこにいるとわかる誰かや何かのために時間を燃やすことの繰り返しが、自分にとってすべき、たったひとつのことであるように思われる。そうしているとき、わたしはわたしという有限の枠を飛び超えて、透明であるような気がしてくる。

祈りといってもたいそうなことではない。ただそれを心に描くこと。ただそれに触れること。ただそれを祝福すること。ただそれをかなしむこと。ただそれにゆだねること。そうした行為の積み重ねである。わたしのすべきことは、それしかないのだ。

たった一人に届きますように。目に見えるかたちで贈りもののように届かなくてよいが、この祈りが何らかを通じて、どうか、いつかその人の、その何かのさいわいへと通じますように。そのような思いで、ただ今日も今日とて、繰り返している。

「楽しいままで終わりたい」で、終わったのは何なのか

3年前、「楽しいままで終わりたい」という手紙を遺し、校舎から飛んだ中学生の子がいた。その子は亡くなった。

わたしは彼女の遺した言葉について、長いあいだ何も言うことができなかった。「楽しいままで終わりたい」は正しくも聞こえ、間違っても聞こえた。しかしその「正しい」と「間違っている」という感覚で指すところの正しいと間違いが何なのか、この感覚はどこからどうして生じるのか、それがどうしても自分のなかで掴みきれなかった。

けれども昨夜、寝入り端にふとことばがおりてきて、「やはりあの子の言ったことは違うのではないか」と思った。

「楽しいままで終わりたい」って、あなたはそもそも、始まりたくて始まったわけではない。始まりたくて始まったわけではないあなたが、「終わりたい」で終われるはずがなかろうに。

では、「終わりたい」といってあなたが終わらせた(とあなたが思っている)のは、いったい何なのか?

あなたの肉体は生命活動をやめた。同時に、肉体を通してそこにあると「見えていた」あなたの精神は、表れる肉体が動かなくなって、見えなくなった。

それのいったい、何が「終わり」なのだろう?

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始まりたくて始まった命はひとつもない。わたしたちは「生まれよう」という意志をもって生まれたわけではないのだ。

であれば、終わりたくて終われる命もひとつもない、ということになる。どう始まったのかわからないはずの命を、どうして始めたわけでもない自分が終らせられるだろうか。

けれども事実、人は死ぬ。肉体が生命活動をやめ、その人の「心」と呼ぶべきものは、呼びかけても、生きている人に届くかたちでは応えてくれなくなる。

 

であれば、人が 死ぬ というのは、いったいどういうことなのか。

 

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多くの人は、「わたし」が「命」を「所有している」と思っている。自分は自分「の」命の主人である。命を持っているから、生きてこの毎日を過ごしている。

けれどもほんとうは、「命」が「わたし」を「所有している」のだとしたら?

「わたし」というこれが、命によって表れている現象だとしたら?

わたしがいま生きている時間というもの。わたしの「わたし」という在り方。それらが命の在り方のひとつだとしたら?

わたしを通して為されているのは、わたしではなく、命のほうだとしたら?

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この世に、このときに、この身体で、この心で、この生で生まれようと望んだわけではない自分が、ここにこうして生きていることを、わたしたちは「望んで生きているのだ」と頭から信じ込みすぎてやしないか。死にたきゃ死んでいい、ということではない。その生きる死ぬということが「自分のものである」という思い込みが危ういのだ。

どこからどう始まったともわからないこの生が、どう終わるかも、そもそも終わるかどうかすら、いや、始まりというものを持つかどうかすらわからないこの生が、わたしというこれを表していることの意味について、考える必要がある。

山と身体の相性について

山登りが好きだ。18歳のときに人生初の山登りで富士山の頂を踏んで以来、なんとなくずっと山に登っている。たまに人と一緒に登ることはあるが、ほとんどはソロ山行。山に登るのは、山に会いに行くためだから。下界で会いたい人に会いに行くのに「ほかの人も誘いましょうよ」というのは野暮である。「グループ登山にはグループ登山の良さがある」と山の人によく言われるけれど、そして実際何度かやってみたけれど、それは「山に会いに行く」ではなく「人と山に行く」であった。やっぱりはわたしは山に会いに行きたいのだ。ひとりで。

とはいえ、山と言えばどんな山でもいいわけではなく、相性の良い山と悪い山がある。景色が良いとか、花がたくさんあるとか、そういう山ばかりが良い山というわけではない。わたしにとって良い山とは、相性の良い山である。

具体的に説明するのはむずかしいが、相性の良い山は、取りつき始めてすぐに、身体と山が交わっている感覚が起こる。斜面を一歩一歩踏みしめるたびに、身体の奥底をどうどうと流れる生命のかたまりのようなものが脈打つ感覚がくる。そんなとき、わたしは「あ、相性の良い山だ」と感じる。全身でその山肌を掴み、味わい尽くす。呼吸を整えるために立ち止まったとき、頭上を樺の葉が無数きらめいているのを見ると、泣きたくなってくる。小さな草の根が岩肌を掴んでいるのがこのうえなくいとおしい。そして振り返れば、青く遠い遠いなんとも大きな山脈! 山に囲まれ、山を登り、気持ちよくて、何が何だかわからなくなってくる。この一連の恍惚が何とも言えず、山に登るのをやめられない。これが、わたしにとっての山登りなのだ。

一方、相性の悪い山もある。どんなに景色がきれいだろうと、百名山として名高かろうと、身体が喜ばない山。あるいは、一歩踏み入れると芯の方がキュッと縮こまるようなそら恐ろしさのある山。そういう山は、早々に登って下りてしまう。良い山に出会うためのトレーニングとして登るには登るが(天気予想とさんざんにらめっこをして都会からばかみたいな交通費をかけて行った執念も成仏させねばならない)、花や樹々の写真だけ撮って、食われないうちに逃げる。そう、相性の悪い山は「食ってくる」のだ。

良い山はそうやすやすと見つかるわけではない。5座登って1座あるかないか。けれどもその1座の恍惚が忘れられず、また山を探しにふらふらと出かけてしまうのだ。

山が好きだ。山に吹く風、山に降る雨、山に生きるもの、すべてが好きだ。相性のよしあしとは関係なく、山というものはほんとうにすごい。山が山を山している。その姿はひとつの宇宙のようでもある。いまは都会でいそがしく過ごしているが、そこそこの年齢になったら、好きな山に篭って暮らしたい。