きみのお祭り

死ぬまで盛り上がっていけ

誕生の話

2022年2月4日、28歳になった。

生き死にはほんとうにわからない。昨年の暮れに突然逝ってしまった祖父。その前の前の年の大雪に突然さらわれてしまった犬。出生が意志に因らないように、死もまた意志のもとにない。人は自死を選べるなんて嘘だ。肉体を破壊してその機能をとめたとて、魂の行方は誰も知らない。わたしたちが想像する生き死になど、「生きている」側の脆くはかない認識の、安易な限界である。つまるところ、わたしたちは生と死について何ひとつ知ることができない。それでも、選んだわけではないこの身体と心で、選んだわけではないこの場所で、いつだってそうとしか有り得ないよう配列され、交流し、現象として顕れる、わたしと名付けられた生。望むと望まざるとにかかわらず、誰もがいつだって(眠っている間ですら!)生を志向し続けている。生きていることは、すべてが大いに不思議で奇跡的だ。

神と呼ばれるそれは認識の対象ではなく、実はわたし自身であり、同時にすべての命がそうであること。宗教や狂気を帯びずとも、神を直感することは誰もが常に可能である。その直感は外界ではなく、常に「ここ」にあるこの存在に向けられている。知性で分け得るものは知識でしかなく、存在には何ら関係がない。何度考えても、結局はすべてがそこに帰結してゆくように思われる。足の裏に土を感じる。目を閉じて沈黙を見聞きする。すなわち、何もしない。28年目の「生きる」を、そうやっていま、わたしは生きている。

ミケル・バルセロの話

初台のオペラシティアートギャラリーで開催しているミケル・バルセロの展示へ。恩師の先生がカタログの論文を翻訳しているとのことで、チケットをいただいた(先生、ありがとうございます)

ミケル・バルセロ展 | 東京オペラシティ アートギャラリー | 美術館・展覧会情報サイト アートアジェンダ

※ 以下、展示写真や内容のネタバレあり。撮影OKの展示で写真を撮ることはあまりなかったけれど、今回の展示は大変気に入ったのでいつもよりかなり多く撮った。

 

展示に触れた数時間で、バルセロのことがとても好きになった。彼の作品はどれも生命力の瑞々しさに満ちている。この感想を書き終えてから美術手帖のバルセロ展の紹介を読んだら「生命力」とか「瑞々しさ」という言葉が何度か出てきていて、ああ、やっぱりそうだよなあという気持ちと、先を越されたようでほんのり悔しい気持ち。

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今回一番好きだった作品のひとつ。よく見るとたくさんの動物がいる。「たしかに食卓ってこういうことだよな」と思い出す。色遣いやタッチの激しさにより一瞬グロテスクに感じられるかもしれないが、実物は大きな宗教画のようで、ずっと見ていると心がしずかになる。

バルセロの作品からは、命に対する彼の深い敬愛を感じられる。対象にまなざしを向け慈しむような愛し方ではなく、彼自身がそのなかに飛び込みともに燃えるような、そういう愛し方をしている思う。

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バルセロは絵画のほかに陶器や彫刻も作る。「人間は土から生まれて土にかえる。だから僕は土を使って陶器を制作することがとても好きだ」というようなこと(うろ覚え)を言っていて、やっぱりこの人は、命というものに強く惹かれているのだなと思った。

陶器もよかったが、バルセロの彫刻がとても好きだ。削り出されたそれはたしかに命をかたどっていて、粗く、やわらかい。触れれば揺らいで崩れそうな、それでいて、目に見えるかたちを失ったときに初めてその命のかたちが顕れるのではないかと思われるような、不思議な魅力を湛えている。

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カピロテ山羊が好きすぎて持ち帰りたくなった。
人間の罪を背負わされているのか、それとも彼は人間なのか。

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バルセロは創作物に対してかなり自由にいろいろなことをやっている。たとえばこれは一見平面に見えるが、魚の部分だけ油絵具と繊維を混ぜて立体にした作品。魚が強調されることで、水面の存在感がより強まる。

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ほかにも、キャンバスから太く長い木の棒が突き出ていたり、砂と小石の上に絵具が重ねられていたりと、アイデアにあふれた作品が多い。なかには、滑車で吊るして面を床向きにし、キャンバスに粗い繊維を混ぜた油絵具で描くことで見る位置によって表情が変わる作品なんかもあった。解説を読むたびにチャレンジ精神とアイデアの方向がすごすぎて笑ってしまう。「とりあえず思いついたことは全部やる」「試行錯誤のなかから水脈を見つけ出し、自分の正解へと近づけていく」みたいな彼の姿勢がとても好きだ。バルセロのアトリエには、日の目を見なかった作品の赤ちゃんたちがものすごい量の積み重なっていそう。

 

彼の創作活動は身体性と深く結びついている。映像で流れていたためここに資料はないが、たとえば横は100メートル越え、縦は脚立を立てないと届かないほどの高さの窓いっぱいに茶色の絵具を塗りたくってモップで絵を描き、窓を透過する光をアートにしたり、厚い粘土の壁をキャンバスにして、棒で殴ったり全身で突っ込んでいってめちゃくちゃにしたりする(最後は貫通して壁の向こうに落ちて消えていった)(なんなんだ)。バルセロの制作は、遊んでいるようで、踊っているようで、ときとして歌っているようでもある。あの運動の過程と集積から彼の作品が生まれるのは、なんとなく腑に落ちるところがあった。

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若かりし日のバルセロはめちゃくちゃカッコいい(いまもカッコいいです)

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2階の展示は水彩画やポートレートが中心。アフリカで描かれた水彩画がどれも好きだ。色使い、コントラスト、絵具の滲みを主に構成されたそれらは、写実的な絵画よりもずっとその土地の空気を感じさせる。

なんだろう。バルセロは、絵具ひとつ、粘土ひとつで、その作品が置かれる場の空気を変えるのがものすごくうまい。そういう意味で、彼の水彩画と彫刻の作りは少し似ているかもしれない。

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もうひとつ強烈に目を惹いたのが、展示の最後のあたりに並ぶこのシリーズ。バルセロの作品に重なる命のイメージが真っ直ぐ飛び込んできて、彼の愛が、見る側の身体の奥底で深く鳴るような心地がする。

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この展示を見に行った数日後に山に登りに行った。
木々や土に触れるたびに、作品をたくさん思い出した。

総じて、すばらしい展示だった。灯火に燃える火を分けてもらったような体験だった。作品からその作家を好きになることはこれまでそう多くはなかったけれど、バルセロのことをもっと知りたい。会期中にもう一度足を運んでみようと思う。

身体のつくりと踊りの話

趣味でサンバを踊っている。これがけっこう楽しい。最初は「月に1回レッスンに行ければ」くらいに思っていたが、気づけば毎日なんとなくステップを踏んだりリズムを口ずさんだりするようになっていて、すっかりサンバを身体に飼うこととなった。

サンバというとお色気~なイメージがあるが、実のところかなり原始的なダンスで、格闘技の要素も混ざっている。もちろん上級者が踊るとめまいがするほどセクシーだが、それはサンバがセクシャルな媚態を振りまくダンスだからではなく、重力や遠心力という物理法則を肉体に投射するダンスだからだと思う。

サンバは楽しい。しかし悩みがあった。本場のおねえさまがたのように尻を振りたくとも、まったく振れないのだ。

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上級者のお尻は本当にすごい。プリプリを通り越してブリブリである。クレヨンしんちゃんに「ぶりぶりざえもん」というキャラクターがいるが、サンバの尻は文字通り「ブリブリ」なのだ。両尻(?)にバスケットボール大の水風船でも入っているのではないかと思われるほどの揺れっぷりである。

で、この「ブリブリ」がどうしても再現できない。動画を撮って何度フォームを確認し修正しても、腰は回っているのに尻が振れない。どうやったらああなれるのかわからず困り果てていた。

何ヶ月も練習を重ねたがダメで、とうとう講師のフランシスに相談した。尻が振れない、ブリブリになれない、どうすればできるようになるか、と問うたところ、思いがけない答えが返ってきた。

「ああ、きみのお尻ではああはなれないよ」

「どうして? フォームや体の使い方の問題? それとも力の抜き方?」

「いや、きみのお尻はああいうサンバを踊るにはあまりにも平らなんだ」

ハッとした。そう、わたしはもともと登山が趣味であるため、なるべく脂肪をつけないよう、山を登るのに最適な筋肉をつけられるよう、普段から下半身のトレーニングを欠かさない。それか!それなのか!と妙に納得した。

「ということは、わたしはサンバに向いていない?」

「全然そんなことないよ!きみのサンバは美しい。身長や手足の長さをうまく生かしているし、男でも女でもないような、ふしぎなサンバを踊る。すごく素敵だよ。ブラジル人はみんな肉付きがいいから、ああいうサンバになる。でもサンバに正解はない。きみはきみのサンバを踊ればいいんだ」

フランシスにそう言われて、すとんと腑に落ちる感覚と、込み上げるうれしさがあった。そう、ほんとうにそうなのだ。わたしはわたしの身体のままで、わたしのサンバを踊ればいい。ブリブリのサンバが踊れなくとも、わたしはサンバが大好きだ。

いつかリオで踊ってみたい。パンデイロとホイッスルのリズムに血を沸かせ、バスケットボールみたいな尻を持つサンバダンサーたちとぶつかりあって、ブラジルの大地で踊り狂いたい。

ルールの話

最近、仕事で手引きみたいなものをいくつか作るうちに、「ルールはどこを向くべきなのか」についてよく考えるようになった。「~してください」  「~しましょう」「~するようお願いいたします」という文字列を繰り返し打っていると、ふと「この言葉はいったい誰に響くんだ?」という気持ちになってくる。

ゲームのルールと集団のルールは違う。前者はそのゲームを成り立たせる構造そのものである一方で、後者はそうとは限らない。集団のルールは共同体の構造を規定するだけでなく、目指す秩序や理想的なあり方を示すために立てられる側面が大いにある。つまり、"had better/must(n't)"と"I'd like you to"が混在するのだ。これがなかなかむずかしく、文章にすると両方が「~してください」  「~しましょう」「~するようお願いいたします」になり、伝えたいことがぼやけるし、くどく、口うるさい文章になる。

集団のルールを不自由に感じる人、すなわち、その集団が目指す秩序とは相容れない価値観を持つ人に対して「これこれのルールを守りましょう」と言ったところで、言われた側は不自由さを感じるだけだし、「よーし、守るぞ!」という気持ちになるわけでもない。どちらかと言えば「めんどくせーな」である。一方で、自然体のままその場所の秩序を保てる人や、指示や強制をされなくとも望ましい振る舞いができる人には、そもそもルールが必要ない。
となると、一体ルールというのはどこを向けばよいのか、何を目指して明文化すればよいのか。「してほしくないこと」だけを羅列した手引きは、堅苦しくて息苦しい。「してほしいこと」だけを羅列した手引きは、押しつけがましく暑苦しい。両方を取り入れた手引きは、あいまいでくどい。非常に悩ましい。

求心力のあるルール。そこにあるだけで集団へのロイヤリティが自然と高まるような、各人のなかにある倫理を引き出せるような、そんなルールを明文化したい。それは、「してほしくない/してほしい」という文法とかけ離れたところにあるのかもしれない、と思い始めている。

時間を取り戻す話

祖母の認知症がかなり進みつつある。同時に、体力もずいぶん衰えている。病気をしているわけではないけれど、毎日ご飯を食べるとき以外はほとんどずっと眠っていて、少し起き出してもすぐにコタツでうとうとしてしまうらしい。5分前に言ったことも忘れてしまうし、わたしの誕生日はもちろん、実の娘の誕生日も忘れ、そもそも誕生日という概念すらよくわからなくなっている。四六時中くっついてまわる猫のことは、まだかろうじて覚えている。

おばあちゃんがあらゆることを忘れ眠り続けていることが悲しいかと言われれば、実は全然悲しくない。誕生日を忘れても、わたしが誰かを忘れてしまってもいいから、祖母には、祖母のおだやかな時間を取り戻してほしいと思う。

何年か前に、彼女がようやくゆっくり眠れるようになった話をこのブログに書いた。あのときも思ったけれど、おばあちゃんには、おばあちゃんの時間を取り戻してほしい。お見合い結婚をして、隣の村から嫁いできて、それはそれは大変な家庭内の戦争に巻き込まれ続け、勤めに出て、二人の子どもを育て上げ、40歳を超えてから免許を取り、住職の奥さんをやりとげ、休むことなく働き続けた彼女には、昔は味わうことのできなかった自分の時間をとにかくたくさん味わってほしい。旅行に行くとか、お芝居に行くとか、そんなことよりも昏々と眠り続けることがおばあちゃんにとって手に入れられなかった時間ならば、それを心ゆくまで満喫してほしい。わたしのことも猫のこともぜんぶ忘れてしまっても、わたしも猫も大丈夫だから。あなたの知らなくなった世界の外側で、ずっとあなたを愛している。

冬がさらに厳しくなる。体には気をつけて、どうか穏やかな深い眠りを。

『ラストナイト・イン・ソーホー』の話

※ 具体的なシーンや物語の核心部に近づく内容に触れています。ストーリーには触れていません。観る前に多少ネタバレしてもいいよという人、観たよという人向けです。

 

『ラストナイト・イン・ソーホー』観てきました。前情報は「ホラーらしい」「ベイビードライバーの監督が作った」「60年代イギリスがテーマ」くらい。

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エドガー・ライト監督のことは詳しく知らないけれど、「ベイビー・ドライバーと同じ監督」と言われるととても納得感がある。ベイビー・ドライバーもソーホーも、そのリズミカルさがとても好きだ。たとえば歩くとか、ドアを開けるとか、コーヒーを受け取るとか、マネキンを抱えるとか、シーツを広げるとか、そういう日常的な動作がリズムに満ちていて(しかし決してミュージカル調というわけではない)、目も耳も身体も心地いい。映画冒頭からこのライト・リズムが繰り出され、開始3分でわくわくした。

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中でもこのダンスホールのシーンはほんとうにかっこいい。ダンスや音楽に通じている映画監督は数多くいると思うけれど、彼の目と撮影技術が掛け合わさると、ただのダンスがこんなにドキドキするものになるなんて! これは大画面で体験して大正解だった。

 

もうひとつ、この映画のいいなと感じた点は、女性の人権問題を提起しつつ、「べったり」な作りじゃないところ。

ここ3年くらい、女性の権利や生き方にフォーカスした映画が本当に増えた。あと性的マイノリティ。あえて選んで観ているわけではないのに、去年だけでも10本近く観た気がする。好みから明らかに外れる映画を除いていくと、だいたいこれらのテーマを扱ったものか、あるいはどこかしらで紐づいていたものが残る。日本以外の国の映画市場の事情は詳しくわからないけれど、少なくとも海外発で日本に配給される映画に関しては、この2つのテーマにフォーカスした作品が確実に増えていると思う。これ、今度どこかからデータ探してきて整理したいな……。

 

で、女性の権利とか生き方とか性的マイノリティとかをテーマに扱った映画って、けっこう「べったり」なものが多くて、観たあとに食傷することが多かった。「抑圧!不条理!我慢と受難!」「少数派や虐げられてきた側はこんなに苦しい思いをしてきたんですよ~!」「でもそんな逆境でも負けない強さ!立ち上がるファイト魂!」「理解のある友人やパートナ~~~!」みたいな。テーマと作品、というよりも、監督の「知ってほしい」「わかってほしい」という思いと作品が近づきすぎた映画は、端々から「俺はこれを描きたかったんや~~!!!(ドーン!)」がにじみ、その近さが結果として表現物の質を下げてしまっている、と感じたことがけっこうあった。

 

ソーホーも、扱っているテーマはまさに女性の人権問題で、主人公の行動を含め、演出全体でその問題をかなり色濃く提起している。華やかなステージに立つために、若い女性が権力者である男たちに体を差し出さなければならない。拒んでも逃れられない。その構造が物語を核心部へと導いていく。

けれどもこの映画は、監督の思いと作品の距離感が適切だった。提起される場が「夢」というベール一枚で隔てられているからなのか、押しつけがましさを感じなかった。「ただ(残酷な)事実を描いているだけです」という顔をしながらあちこちで共感を求めてくる作品が多い中、ソーホーは事実を第三者視点で観察している人が作ったような、そんな作品だと感じた。どうしてそう感じられたのか?という点は、まだ深掘りしきれていないのだけど。

これは今年映画を見る中でゆっくり考えていきたいことのひとつだな。作品に対して「共感を求められた」と感じさせる作り/感じさせない工夫とは、どんなものなんだろう。

 

総じておもしろかったです。ストーリーも含め。特にサンディは最初から最後まで本当に魅力的なキャラクターで、メロメロにされました。これから観に行く人はぜひ大画面でメロメロにされてください。

レッサー・ユリィの話

2022年美術館初めは、去年の秋から気になっていた三菱一号館美術館の展示へ。
もともと印象派の絵画、特にコローとかピサロの描く自然の風景画がとても好き。彼らの描く絵は、おおきな自然に似ている。そのなかにいると肺がひらいてたくさん息を吸えて、頭のなかのこまごましたあれこれが消えて、透明になっていく心地がする。光と水と風。それらは色やかたちを持たないのに、印象派の人々のすごいのは、それらをキャンバスのうえに色やかたちとして描き出してしまうところだと思う。
 
印象派の風景画をたくさん見たいなという気持ちで足を運んだが、一番の収穫は、レッサー・ユリィという人と出会えたこと。今まで日本ではあまり知られていなかったそう。
この記事にもある通り、たしかに彼の絵の前では足を止めざるをえなかった。

なるべく点数を減らしたい三菱一号館側は、一般にはそれほど知られていないレッサー・ユリィを希望リストから外したが、何度送ってもイスラエル博物館側はユリィの展示にこだわる。逆に当初リストになかった《風景》という作品を追加してくるほどだった。

ここを読んで、心底「ありがとうイスラエル博物館……」となった。順路のままに進むと、展示で最初に目にすることになるユリィの作品がこの「風景」なんだけど、ほんと、一瞬で目を奪われてしまった。

 

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「風景」のみ撮影OK

空や森や土のあいまいな輪郭が、手前の木や水面の透明でパキっとした感じを際立たせている。このコントラストは生で見るとくぎ付けになってしまう。木の枝や夕日が反射する水面の色づかいもたまらない。右側に色とかたちがまとまっていることもあり、左半分の水の透明さや空間が強調されて気持ちいい。官能的で、すっかりまいってしまった。

 
「夜のポツダム広場」もすばらしかった。写真はNGだったけれど、先ほどのリンクの記事に掲載されている。実物の前で30分くらい見てたし、ポストカードも買いました。
 
ユリィの絵は、パキっとした描写と、印象派らしいやわらかい描写の組み合わせ(構図も色もかたちも)がほんとうに絶妙。光るところと暗いところ、かたちのあるところとないところ。そのふたつが混ざり合って、夢なのか現実なのかわからない心地よさがある。ユリィの描く光や水や風は、ユリィにしか描けない。
 
イカで撮った写真が好きな人は、ユリィの絵も好きになるんじゃないかな。もしかしたら逆かもしれない。印象派やユリィの絵が好きな人は、ライカの写真が好きになる、のかも。ライカも「空気を写す」カメラだから。ライカといえばソール・ライターを思い出す。あの展示が好きだった人は、ぜひユリィに会いに行ってほしい。