きみのお祭り

死ぬまで盛り上がっていけ

わかるまで何度でも言うしかないさ

わたしは覚えたことをけっこうすぐに、割と何度も忘れる。忘れる→思い出す(学びなおす)のプロセスを複数回踏まないと、だいたいのことが定着しない。

物事を学んだり覚えたりすることをあまり苦に感じないのがせめてもの救いだが、忘れるたびに「なんだっけ」とメモを見返し、「おおそうだった」と思い出し、少し放っておくとまたすぐ忘れて、、、を繰りかえしていると、ときどき自分が嫌になる。なんでこんなにすぐに忘れちゃうんだろう、めんどうくさい、これからもたくさんのことを何度も忘れて、思い出して、を繰り返さなきゃなのか…と思うと、たまに暗い気持ちになる(特にお腹がすいているとき、体調がよくないとき、天気が悪いとき)

そんなときはだいたい、ボスの言葉を思い出す。

わたしの仕事のボスはかなり直情な人で、エネルギッシュで、存在感がある。もう10年近い付き合いになるが、最初の頃は自分の至らなさが彼をいつ怒らせるかと、ひそかにけっこうビクビクしていた。けれどもここ数年、特に彼の直下で働くようになってから、彼は「言ってもわからない」に対して決して怒らない、ということに気がついた。他人の「またかよ」なミスに対し、少し強い口調で注意することはあるが、努めて怒らないように見えるし、「またかよ」とは(少なくとも表立っては)絶対に口にしない。

あるとき、「何度も同じミスをされることや、何度言ってもわからない人に腹が立ったりしないんですか」と直接尋ねたことがある。そしたら彼は、「わからないなら、相手がわかるまで伝え方をたくさん工夫して伝え続けるしかないよね。怒ってその場で言うことを聞かせることはできても、それは伝わったことにはならない」と言った。

それを聞いて、単純だけどなんだかすごい、と思った。確かにそうだ。わからない、覚えられないなら、わかるまで言い続けるしかない。伝えたいことが相手にほんとうに伝わって、それがその人のものになるまで、何度でも伝えるしかないのだ。それを途中で諦めてしまったら、「物わかりの悪い人」「いつも注意してくる(ちょっと苦手な)人」「何度言われてもできない自分」の三者が誕生するだけで、事態は何もよくならない。であれば、「わかるまで何度でも伝える」しかなく、そして相手にわかってもらうためには、怒りという銃を下さなければならない。

ボスはいつもけっこうおもしろいことをたくさん教えてくれる人で、この教えはいまもわたしの考え方に大きな影響を与えている。

 

というわけでわたしは今日も今日とて何かを忘れ、メモを引っ張り出しては思い出そうとしている。ときどきメモすら紛失して、ア゛~…と呻いてしまうほど全部が嫌になることもあるが、最近はダイニングテーブルの面する壁にメモを貼ったり、メモを読みながら3回復唱したりしている。実際の効果のほどはわからないが、「わかるまでやろうと努力している」という事実は、地味に自己肯定感を支えている気がする。ああまた…と憂鬱の雲が沸き立ちそうになったときは、「わかるまで何度でも言うしかないさ」と笑うボスのことを、だいたい思い出している。

主訴「痛み」での緊急搬送

深夜2時に救急車で搬送された。ここ数日どうにも内臓や全身が痛く、立ったり座ったり寝たり起きたりだましだましやっていたが、昨晩の深夜過ぎにいよいよ眠れないほどの激痛になり呼吸も怪しくなったので、救急相談センターに相談したところ、即救急車となった。

とにかく全身が痛い。筋肉も関節も痛く、数日前は加えて胃腸が、昨晩はあばらの内側が痛くてのたうちまわっていた。食欲もなく、しかしその割に嘔吐や下痢はなく、ただ全身に激痛が走っている。痛みには波があり、熱も出たり出なかったりだが、高くても37度程度で、PCRも受けたが陰性だった(余談だがこの24時間で2回の抗原検査と3回のPCRを受けた。鼻の奥に綿棒を入れるのはうまい人とそうじゃない人がいるとよくわかった)

搬送先で血液やら心電図やら一通りの検査を受け、医師3名にあれこれと色々聞かれ、ひとつひとつにできる限り正確に答えたが、所見では異常なし。主訴が「ときどき移動もする全身のひどい痛み」であることに、彼らも困っていた。爪先から頭まで身体中を押されたりさすられたりしながら、「ここは痛いですか」「これはどうですか」と聞かれ、「ズキズキ痛いです」「あまり変わりません」などと答えるごとに、ああ、痛みというのはむずかしいものなんだなあと実感した。

「痛み」はどこまでも主観だ。血を採ったりレントゲンを撮ったりして出てくるのは数値や影などであって、「痛み」ではない。数値や影といったかたちで表れる「異常」には対処できても、それらに表れない、けれども確実に存在している「痛み」はどうしようもないのだな、と思った。

結局、「ひとまず今すぐに手術をしなければならない緊急性の高い病気ではなさそうなので、対処療法として痛み止めを点滴する。なるべく早く再受診して別の検査をするように」と言われ、早朝に帰宅した。痛み止め点滴はすばらしく、入れて数十分後には嘘のように全身が楽になった。この数日、痛みでまともに眠れておらず、夜間日中問わず痛みの波の隙間で数十分まどろむ程度だったので、本当にありがたかった。帰ってきて、少し寝て、起きて、ご飯を食べたら痛み止めの効果が切れてきたので、慌ててバファリンを買いに行き、今はバファリンのおかげで何とか普通に座っていられる。鎮痛万歳。「バファリンの半分はやさしさでできている」というフレーズが一時流行ったが、本当に「痛み」をやわらげてくれる、という意味では、あながち間違いではないと思った。病院には、明日行く予定。

それにしても、深夜2時にもかかわらず1時間近く根気強く搬送先を探してくださった救急隊員の皆さま(主訴が難しいせいか5つの病院に断られた)(そして搬送先5つに断られると「東京ルール」というルールに則って、最寄りの「最後の砦」とされる頼れる大病院に搬送されるらしい)、搬送先で丁寧にさまざまま問診や検査をしてくださった医師や看護師の皆さまには本当に感謝しかない。彼らは、原因不明の痛みがもたらす不安についてもよくわかったうえで接してくれた。

そして、真夜中に救急車を呼び大病院で一通りの検査と診療と処置を受けたにも関わらず7000円で済む健康保険制度にも深く感謝している。普段真面目に税金と社会保険料を納めていて本当に良かったと思うし、わたしの納めたそれらが同じような思いをしている人に使われるのであれば、それは本望だなと感じた。

透明な世界

自分が存在しない世界のことを想像するのは不思議な気分だ。想像するはずの自分はいないのに、透明になって、あらゆる日常を見下ろしている。つまり、わたしがわたしの存在しない世界を想像するとき、それは常に、「わたしがいない/いなくなった世界」ではなく、「いるわたしが見えなくなった世界」でしかない。「いるわたしが見えなくなった世界」を想像できるのは、いながらにして「見えなくされた」経験や、あるいはほかの誰かを「見えなくした」経験があるからだ。ほんとうの意味で「わたしがいない/いなくなった世界」は、想像すら不可能だ。

その昔、もし自分が死んだら、あらゆる人に自分のことを忘れられたいと思っていた時期があった。どうしてそう思っていたのかはよくわからない。誰ひとりとして自分を知らない、覚えていない、そんな世界を透明になって見下ろしている想像は、なんだかとても軽やかでみずみずしく、気持ちよかった。それを眺める心のうちにさみしさはなく、またメランコリーもなかった。

たとえばわたしは、カワカミケイコさんという人を知らない。生まれてからいままで、見たことも聞いたことも、会ったこともない。もちろんそれは当たり前で、なぜならカワカミケイコさんはいまわたしが1秒で作り上げた架空の人物だからだ。けれども、本当はカワカミケイコさんという人は存在していて、わたしがカワカミケイコさんを知らないだけだとしたら(そして死ぬまで知らないとしたら)、カワカミケイコさんはわたしの世界に存在する、とほんとうに言えるのだろうか。

想像はできないけれど、誰も自分を知らず、自分のいない世界とは、存在していないと同時に、存在「しなかった」世界と言えるのだろうか。けれどそれを想像しているわたしはここにいるわけで、では、ここにいる自分は誰なのだろう。考えているとみるみるここにいる自分が透けていく感じがする。その感覚がまた、軽やかで、少しくすぐったい。そんなことを考えながら、今日もベランダから街と空を眺めている。

思い出したくない痛みのこと

自分が当たり前にいた環境を疑うことはむずかしい。それが子どもならなおのことそうだ。

ときどき、10年も20年も前のことが突然フラッシュバックしては感情の波にさいなまれるということをここ数年以上繰り返している。自分が育った家族や家庭環境について。フラッシュバックする原因はわからない。今は実家と程よく距離を置いているし、日常的に直接何か嫌なことを言われたりされたりするわけでもない。けれどいまでも時たま、その当時自分が受けていた扱いに通じる言動をふとした拍子に感じることがあり、その瞬間に心が固く冷えていくのがわかる。

わたしがどのような環境に晒されていたか、詳しくは書かない。偏った物言いになってしまうだろうし、そもそも思い出したくない。けれど、「偏った物言いになる」という前置きをしたうえでいうならば、およそ20年のあいだ、激しい感情や攻撃をことあるごとにぶつけられてきたことや、自分がそれをすべて受け止めざるを得なかったこと、にもかからわらず他方からは無関心を貫かれ、救いの手が一切なかった。それはいまでも事実と言っていいのではないか、と思う。

育ててもらった恩は感じている。死なせず殺さずにいてくれてありがとう、と思っている。けれどわたしは親の言う「愛情をかけて育ててきた」の「愛情」の部分を、どうしても思い出すことができない。いまになって思い出そうとして浮かぶのはいつも、自分が冷たく凍えた気持ちになった場面ばかりだ。ほんとうはたくさんあったと思うのだが、強すぎる負の経験の印象に暗く覆われてしまっているのだと思う。

自分が傷ついた経験しか思い出せないことは、実に都合のいいことだ。そうすればわたしはいつまでも「傷つけられた人」でいられる。愛情をかけられたことが見えていないのだと思う。「家族だから」という理由で許され認められてきたこともたくさんあるのだと思う。けれどいまになっても、どうしても思い出せない。気づいていないだけだ、見えていないだけだ、と自分の目の曇りを戒め続けているけれど、それでもどうしてもわたしは、「この家に生まれて本当に良かった」と思えないまま、愛憎とすらも名付けがたい感情に、時折ひどく動揺させられる。

疑うことができなかった。家とは、家族とは「そういうもの」だと思っていた。だから当時は、つらいとも感じなかった。けれどそこから出て、社会や他人とかかわるようになったとき、そこがいかにいびつで自分がどれだけつらかったのかがようやく感じるようになった。しかしそう思っている、感じているいまの自分を「恩知らず」「自分勝手」と責める自分も同時にここにいる。どうすれば、いつになればこの矛盾した感情の波が引いていくのか、わからないままでいる。この文章のように、めちゃくちゃで、支離滅裂な気持ちになってしまうのだ。

2022春 祖母の記録

先日、久しぶりに祖母の家に遊びに行った。あいかわらず認知症はゆるやかに進行していて、耳も遠いから会話らしい会話はほとんどしない。祖母はわたしが冷蔵庫を開けたり、ねこの腹をぐりぐりやったりしているのをニコニコしながら見ている。わたしが家に行っても起きている時間はほんのちょっとで、一日の大半を西側の薄暗い部屋で眠って過ごす。ねこは祖母の横で寝たり、畑に出て行って土埃まみれになったりしている。真っ黒になったねこの全身を雑巾で拭く祖母は、おかあさんの顔をしている。笑っているわけでも怒っているわけでもかなしんでいるわけでもない、ただ一個の小さな命を眺めている顔で、黙ってねこをこてんぱんに拭く。

 

祖母の暮らしを見ていると、よくこれで一人でやっていけてるな、と思う。けっこうぎりぎりの綱渡りだ。電子レンジの「10分」のボタンには大きなバッテンの紙が貼られ(数年前、10秒と勘違いしてこれを押して、皿を一枚ダメにした)、冷蔵庫の中は漬物や火を使わなくて食べられるお惣菜の作り置きでいっぱいになっている。家中にカレンダーの裏紙を切って作った大きなメモ、メモ、メモ。「デイサービスは火曜・木曜・金曜」「カナ先生電話 XX-XXXX」「寝る前、ガス、電気、窓の鍵 必ず確認!!」注意書き等々のなかに混ざっている手紙、手紙、手紙。「おばあちゃん、楽しかったよ(^^)また来るね!」「体に気をつけて。いつも笑顔のお母さんが好きです」「誕生日おめでとう!84歳も元気でいてね」

あらゆる壁に貼られた溢れんばかりのメモや手紙を、祖母がどれくらい理解して活用しているかはわからない。けれどもこれらの紙ひとつひとつはすべて祖母の暮らしの軌跡であって、わたしはその喧しく無秩序な眺めが好きだなと思う。

 

午後4時。昼寝から目覚めた祖母がゆっくりゆっくり廊下を歩く。歩きながら、何かごにょごにょ言っている。母が大きな声で「なあに?」と尋ねると、祖母は、「うさぎに餌をやらなくちゃあ……」と何度か繰り返した。「物置小屋にサ、うさぎを飼ってるんだけど、それに餌をやる時間だから……」と小さくつぶやきながら、祖母はゆっくりゆっくりトイレに入っていった。母は、ちょっと呆れた笑い顔で「夢を見ていたんじゃないかな」と言って、洗濯物を干しに庭に出て行った。

10分かけてトイレから出てきた祖母に、「うさぎ、物置で飼ってるの?」と問うた。ふっと振り返った祖母の目には西日が射し込んで、黒目がほとんど透き通った橙色に輝いている。祖母は、初めて孫を見たかのような顔で、にっこり笑って「夢、だったかもしんない……」と言った。

2022april_最近の走り書き

うっかりここに何も書かないまま4月を終えそうになっているので、走り書きを残しておく。

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人生山あり谷ありというが、山だの谷だのの起伏にいちいち感情を持ち出すことがめんどうになりつつある。物事は常に起こり続け、時間は静止せず、その揺らぎがイコール生きているということだけが事実で、山に喜んで谷に憂鬱になるというのは、ちょっと考えてみると非常にあほくさい。ぜんぶ起きるだけなのに。宇宙船の窓の内側から、すべての起こっていくことをじっと静かに眺めていたい。

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という考え方と関連しているのかもしれないが、最近は「自分である」というより「自分をやらざるを得ずやっている」という感覚が一層強くある。望んでこの体や顔かたちや性格や価値観や癖を持って生まれたわけではないし、どういうわけか「たまたま」手に入れているこれをやることによって得られる損だの得だのは、ほんとうに些細でどうでもいいことのような気がしている。しかし、かといってそう思うことは、日常や生きていることをないがしろにするポジションに立つということでは決してなく、なんというか、「あきらめ」に近い。

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犬と高校生の夢ばかり見る。4月は眠りが浅かった。

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寝ていると俳句がどんどんできる。夢のなかでできた句が起き抜けのほんのすこしの時間頭にぼんやり残っていて、見ていた景色をなんとか紙に書き留めている。写真が発明される前、人はこうやって景色を記憶しようとしていたのかもしれない。

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最近お世話になった農家さんが、「農業のあるべき姿っていうのは、畑に生ってる作物が全部同じ大きさと背丈、全部同じ質でちゃんと作れてるってことだと思うんだよ」と言っていて、なるほどなあと思った。
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「たとえばおまえが三ツ星レストランに行って、レアのステーキを注文したとして、そのあとずかずか厨房に入って行って、調理中のシェフに『本当にその手順でいいんですか?』『今その下ごしらえをすることって大事なんですか?』『本当にその火加減でいいんですか?食中毒になったりしませんか?』っていちいち聞くんか?お???」と言いたくなるような「ご意見」を未だにたまにいただく。ありがたくもなんともない。

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この春はネモフィラを見損ねたし貝も獲れなかった。

 

 

 

桜の話

春といえば満開の桜だが、桜が咲いている時間はほかの花と比べるとかなり短いように思う。あ、始まった、と思った数日後には満開になり、それから2日もすればもう花弁が欠ける。儚い花、一瞬の花だけれども、それでも桜は千年以上も前から、春の象徴であり続けている。それは、寒さと暗さに閉ざされた日々から、あたたかくおだやかな日々へと季節が移ろうことへの歓びと、この花の生命力とやさしさに満ち満ちた姿が重なるためではないかと思う。今年も春をともに祝ってくれたあなたたち、ありがとう。

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