きみのお祭り

死ぬまで盛り上がっていけ

2015.05.02

最近、我が家は粘度の高いぬるま湯のような状態である。
母と妹がずっと喧嘩をしているのだ。
四六時中喧嘩をしているわけではないが、一日に一回は必ず険悪な雰囲気になる。そしてお通夜のようなリビングが完成する。それまでみんなで楽しく笑いながらご飯を食べていたのに、どちらかの何気ない一言や、何気ないほんのちょっとの動作が、もう一方の気に障るらしい。
時期的なものなのかな、と思う反面、巻き込まれこそしないものの、やっぱり居心地は良くない。二十一年間一緒に生活しているから、お互いがお互いのどこに嫌な思いをしているのか手に取るように分かるし、「あ、今のマズいな」と思うと、もう既にどろりとした空気がどこからともなく沸き上がってきている。
 
 わたしは二人から未だかつて、「自分はどこが悪かったんだと思う?」と問いかけられたことがない。「わたしの何が悪いの?」という攻撃的な問いをお互いが相手に向けることはあっても、二人は第三者であるわたしに対して自分の悪いところを訊いてくることはぜったいにない。なぜならお互いに自分は悪くないと思い込んでいるから。
 相手に向けられる「わたしの何が悪いの?」は、自分の悪いところや改善すべき点を素直に相手に尋ねているわけではない。もし向こうがひとつでも何か返事をしようものなら、「それはあなたがわたしをそうさせるから」とか「意味が分からない」などの迎撃がなされ、たちまちまた無益なあらそいが始まる。本当は自分の悪いところが知りたいのではなくて、相手の口からそれを言わせることによって「そのあんたが不快な思いをしている原因はあんた自身だってことを知りなさいよ」ということを知らしめたいのかもしれない。でもそんなことはやっぱりぜったいに認めない。ふたりとも「仲良く暮らしていきたい」という理想を当たり前のように思いすぎて、それをほとんど見失っている。いつの間にかそれは「わたしは仲良くしていたいのに、向こうが…」という言い訳という形になって外に漏れ出しているのだ。
 第三者に意見を求めるということは、一度自分を自分という眼差しから外してやることである。第三者の目線で、自分を見たとき、相手を見たとき、自分と相手の関係性を眺めたとき、おのずと見えてくるものがたくさんある。そうやって想像力をはたらかせなければ、わたしたちは円滑な関係性を築いていくことができない。円滑な関係性、というのは常にものすごい質量の想像力がはたいている。そしてその想像力とは何かと言われれば、一言で言えば愛情なのだと思う。相手に対する敬意もそうだし、幸せであってほしいという根源的で純粋なおおきな願いから、今日はゆっくり休んでね、という小さなねぎらいのメッセージまで、すべては愛情なしには発されえない。けれどそこに少しでも「自分はこんなに相手を思っているのに」とか「自分の愛情に対する見返りが不足している」とか、「自分」という文脈を挟んでしまうと、愛情は途端に鉄の鎖へと変わってしまう。家族という関係性(特に親から子へ)は、純粋に相手のことを考えて愛情を注ぐことによって成り立っているぶん、いつもそこに愛する主体である「自分」という文脈がはさまれがちになってしまう。「わたしはあなたとは違うし、あなたのものではない」という主張でしか子どもたちは親を殺すことができないし(しかしその宣言はやはり愛情なしには為し得ないほど、子どもにとっては身を切るようにつらいものだ)、そうやって殺された親もまた「わたしはあなたのためにこんなに一所懸命やっているのに」という文句の一つでも言わないと無事に成仏することはむずかしい。ほんとうにいろいろなことがむずかしいのだ。家族という関係性は。
 
 人は、誰かに言われたからといってそう簡単に変われるものではない。何かや誰かにつよく心を動かされたとき、自分のなかから沸き上がってくる倫理によってしか変わることができない。だから二人に対して直接的なことは何も言わない。言わないけれど、いつかどちらかがほんの些細な瞬間に何かに気付いてくれればうれしいから、今日もここでわたしは飼っている犬の話や大学の話なんかをして、平等にふたりに愛情をそそぐしかない。
また夏がくる。今年も三人で騒ぎながらスイカを切り分けて食べたい。