きみのお祭り

死ぬまで盛り上がっていけ

2015.05.30

 

アマゾン展に行ってきた。羽の生えた生き物とか、化石になってしまった生き物とか、地面を這いずりまわる生き物がたくさんいた。

 

なかでも個人的に興味深かったのは蝶々。モルフォ蝶や、透明な翅をもつものが標本にされていた。透明な翅は、人間が触れたらたちまちに指先の熱で溶けてしまいそうで、標本にされて匣におさめられてなお上から観賞用の光などをあてられていることが非常に乱暴な扱いである気さえした。それほどまでにこまかく、氷より透きとおっている。モルフォ蝶の翅はどんな素材でできているのか、まったく想像もつかなかった。サテン地のようであり、化学式の複雑な結晶のようであり、飛行船の布のようでもあり、鉱物のようでもあって、このなかに風を抱いてアマゾンの深い樹々のあいだをあちらこちらと舞っている姿は、神秘的であるというよりもこのうえなく官能的であるように感じられた。森で迷子になって疲れ果てた若い男の人の前にだけ現れて、その男をもっと奥深く森へ導いていってしまいそう。

蝶の標本が、鳥や翼竜類、その他昆虫などの剥製や化石や標本と並んでいるのを見て初めて気がついたのだけど、彼らの翅は飛ぶためあるのではないのかもしれない、と思った。今までわたしが生まれてから見てきた昆虫は、すべて翅を震わせて線状に飛ぶ。直線でも、ゆるやかなカーブでも、とにかく彼らには線状に飛ぼうという意思が見られる。それは鳥も(おそらく)翼竜類も一緒で、意味もなくふらふらと上下に飛ぶ鳥などは見たことがないし、いつも移動やエサを捕るために適した飛び方をしている。

けれど蝶は翅を震わせない。せわしなく動かすこともなく、かろやかな和紙のように風にふかれていったりきたりを繰り返す。キャベツの畑を低空でひらひらしているかと思えば、ときどき驚くほど空の高くまで飛んでいって、雲に溶けて見えなくなってしまう。飛ぶ、というより、それこそ「舞う」という表現がしっくりくるような。しかしそれならば、うつくしい翅などもたずに生まれてきても問題はなかったはずだし、どうしてあんなにうつくしいのかもよく分からない。サ行の「シ」の音だけが他のサ行の音と少しだけ違うように、蝶は他の昆虫に較べて少しだけ、違う気がする。昆虫はたいてい合理的で無駄のないフォルムこそがうつくしさの理由であると感じていたけれど、蝶の翅には、ほんのすこしの不合理や謎が混ぜてある。それがうつくしさのもっとも大きな理由なのかもしれないな、と思った。

翼竜類や虫と植物の化石にもどきどきした。骨はよけいに。この骨や翅や脚がどう動いていたのか想像するだけでも楽しい。生きているうちに自分の生の骨を見ることはまずない。まずないのに、自分の身体を動かすもっとも原始的な要素のうちのひとつで、死んだあとも土に埋もれてさえ永く永く残っている。何を食べていたかとか、何を考えていたかとか、内臓や精神はひとつも残らないのに、骨は一億年も残っている。形として、その生き物を精一杯主張しながら。