きみのお祭り

死ぬまで盛り上がっていけ

「していること」は言える。どこに行くかは知らない。

 

「院に進学?それとも就職するの?」

 

今年度、何度もいろいろな人たちからこう尋ねられた。そりゃあそうかもしれない。わざわざ大学4年生を1回休学して、日々何かをしているようだが、何をしているのかはよくわからない。進路の話をするとなれば、その具体的な方向性を問いたくもなる。

けれどわたしは、大学院に進もうと、就職をしようと、今やりたいことをやっていった結果、どこかに辿り着いているものだと思っている(思っている、なんて偉そうに言っているけれど、一年前はまったくそんなこと思えなくて、何がしたいのか、どこに行きたいのかに気を取られてばかりで、時間の濃い霧の中にへたりこんでいた)。どこか、とは、社会的身分としてという意味でも、場所という意味でも。だからこそ、そのときしていることには本気でぶつかってきたはずだし(そのせいで分野に脈絡はまったくなくなってしまったけれど)、自分のしたいことに不誠実であったり、状況のせいにしてそれから目を背けたりするようなら、それこそ右に倣えのごとく慣習や風潮に黙って堕ちるしかないと思っている。

 

他人からは、おまえは研究をしているのか、何の勉強をしているのか、就職はするのか、はたまた何か別のことを企てているのか、さっぱりわからないというようなことを言われる。そりゃあそうだ。わたしのしたいことは朝起きてみないとわからない。いくつか同時並行で面白がってしていることがある。これからどうするのかと問われても、「今日はおもしろいことの中のどれをするか」、これに尽きる。「好きなことをしている」としか言えない。すると変な顔をされる。甚だ説明しづらい。めんどうなので「進学するよ」と「はたらくよ」を毎日交互に答えている。奇数の日は進学、偶数の日は就職と答えている。

 

進路の決め方は、就職、進学、留学などと種類で大別できるものではきっとない。そんなカテゴライズで、決まってもいない当面の身の置き所の予定地を聞いただけで満足して去っていかれるのはちょっとちがうのでないかと思うし、さみしい。既存のカテゴリーに参照された身の置き所が「進路」なのではない。どこに行くのか分からない、何をしたいのか分からない、けれどどこかに行きたい、何かがしたい、という自分の声を聴くところからしか、進む路は見えてこない。わたしの進路は現在進行形の、あなたの目の前にいるわたし自身がこれでして、行き先が見えているから走っているのではなく、ただしたいことをしていると、はたからは走っていそうに見えるだけですと言いたい。

 

今「していること」は言える。学会発表が決まりました。声の知覚について本と論文を片っ端から漁っています。少しだけ英語もしています。山に登ります。フーリエ変換微分方程式に悩まされています。インターンをします。けれど自分がどこに行くかは知らない。きっと自分のしたいことを一番できそうな環境を嗅ぎ当ててぴょんと飛び込んでいくのだと思う。(というか、「飛び込ませていただいている」のだ。そのことは今年度一番強く感じたことかもしれない。何かをしているのではなく、受け止めてくれる人がいるから初めて何かができるのだと。語りだって文章だって、聴き手や読み手がいなければ、そこにそれは存在できない。)

どうしてそんな不安定なことをしているのかとも訊かれたけれど、この身のこなしかたが自分に一番似合っているから、としか言えない。似合うって大切だよ。いくら論理や風潮や常識に力があろうと、身体にしっくりくるということはごまかせない。お前それサバンナでも同じこと言えんの?という言い回しが一時期流行ったけれど、本当にそうなのだ。この論理や風潮や常識とやらは、サバンナでは、100年後では、きっと通用しない。四大卒の女は生意気で使えないから就職がない、なんて言われたのはつい30年前のことだ。だったらそんなものにすがらずに自分に似合うものを選んだほうがいい。進路も、服も、男の子も。

 

したいことから目を背けずに続けていった結果として身分がついてくるだけな気がしてならない。じゃあ、まっとうにこの時期から就活を始めて来年から職に就くひとはやりたいことを考えていないのか、というわけではもちろんない。本当に考え方の問題だ。社会的な立ち位置としての身分を得ることとやりたいことを今本気でやることのどちらが自分の性に合っているか、というだけの話で、結局はどこかに辿り着く。

目標はある。けれどそこにどう辿り着くかは問題にしていない。22歳を目前にしたわたしは、そう考えて日々何かをしている。これから進む路が進路なのではない。毎日毎日じたばたしてきた足跡を線で繋いでみると、路のように見えるだけだ。

 

 

知ってはいる。今こんな悠長に「したいことをしていればどこかに辿り着く」などと嘯いていられるのは、わたしに安定した身分が与えられているからであると。名前の知られた有名私大、4年生、休学中、実家住まい、めんどうを見てくれる先生がいる。パーフェクトだ。何も心配することがない。だったらもうこのご身分を使い倒すしか道はない。「世の中にはそんな余裕のないひとだっている」「ほんとうにわたしは恵まれていると思う」なんてしみじみフェイスブックに恵まれた環境大感謝ダチと両親マジリスペクトだぜメーンの意を綴っている場合ではない。モノを作れ、文章を書け、実績を作れ、学べ、勉強をしろ、社会に出ろ、人の話を聴け、全身で語れ。以上である。

 

 

あたりまえのように思われすぎていて見逃しがちだけれど、他人はそのひとの常識や経験や偏見に基づいて生きていて、わたしもわたしの常識や経験や偏見に基づいて生きていて、だから、この二者がコミュニケーションを交わすというのは、実はものすごく複雑なはたらきなのだ。

誰かと話をしているとき、「わたし」以外の目線や枠組みからの考え方もある、ということにだけ想像力をはたらかせるのでは不十分だ。目の前の相手の目線や枠組みの構造に想像力をはたらかせること、しかしその目線に立ってモノを見る(けれどよく使われるこの「人の立場に立ってモノを考えましょう」というフレーズの道徳的な側面にも思うところがあるので、そのことについてはまた後日話しましょう)だけではなく、その目線を見る自分の目線を常にかえりみること、そして「あなた」と「わたし」の視点の距離を全身でなぞることが、コミュニケーションであると思う。

この時期、進路決定を時期に迫られたひとたちは極めてナイーブであることもある。少なくとも去年のわたしは発狂寸前だった。「就職?進学?留学?」などと雑に表面的な質問だけを投げかけて、カテゴライズされた答えに満足して立ち去るようなことはしないでくれるとありがたい。進路に直面するひとと話す機会があったら、そもそも進路って何だと思う?というところから、はじめてみてほしい。