きみのお祭り

死ぬまで盛り上がっていけ

「無理しない」ってもしかして無理なんじゃないの

 

「無理しないで」と、今月何回他人に言ったっけ。秋だからか、体調を崩したり精神状態を崩したりする人の多いことこの上ない。みんなやんごとない事情のひとつやふたつを抱えている。

 

人間やたら無理をしがちだ。それもけっこうな頻度でけっこうな強度の無理をしがちなのだ。ハイパー忙しいモードから脱しているときは「どうしてそんなに頑張るわけ?」と無理をしている人を見て首を傾げたくなるが、ハイパー忙しいモードの渦中にいるときは自分の体調を感じている暇があったら手と頭を動かせという感じなので、無理をしてしまう気持ちも分かりはするのだけど。しかも、そんなときに「無理しないで」なんて言われると、優しさと分かっていながら「じゃあどうしろというのか」「わたしだって好きでこうなってるわけじゃない」という反発心が生まれることすらある。こういう状態は完全に赤信号だ。いますぐ野菜たっぷりのあたたかいスープを食べさせて、空調が完璧な薄暗い部屋でまる3日くらい寝かせてやりたい。

 

 

どうして人は無理をしてしまうのか。そもそも無理って何なのか。無理をするってどういうことなのか。いろいろ考えてみた結果、わたしたちは、「無理をしない」というフレーズを使っているうちは「無理をしない」が原理的に不可能なんじゃないか?という結論にたどり着いた。頭の中の整理も兼ねて、少し書き残しておく。

 

まず「無理」とは何か。いくつかの辞書をひいてみたが、新明解国語辞典第七版の「好ましくない結果になると分かっていながら、強行すること」なんかがニュアンスとしては最も近い。疲れているのに仕事をやめない、やることが多いから睡眠時間を削る、とか、そういうのが「無理」の典型的な例だ。で、この「無理」を「しない」というのは、「積(詰)んでいるすべきことよりも健康を優先し、心身をいたわること」みたいな感じ。つまるところ、心身に負荷をかけすぎない、ということ。

 

けれど、負荷をかけないというのはなかなか難しいもので、どうしても加減を見誤ることが多い。どこかのブラック企業の社長が「無理だと思っていても実際にできたらそれは無理じゃなくなるんです」と言って一時期インターネット中から火炎放射を浴びていたが、実際それは事実の一面を正確に切り取っていると思う。「無理だ」と思っていても、なんとか運良くその負荷量を切り抜けてしまえばそれは「できた」ことであり、その負荷量をかけることは「不可能」から「可能」の世界線へと切り替えられる。「無理そう」という予測はロシアンルーレットのようなもので、引き金を引いて空砲ならば「無理じゃなかった」、頭が撃ち抜かれれば「無理だった」という結果でしか判断することができない。そのため、「この負荷は無理そう」という事前の判断力は意味をなさなくなり、そのうち「判断をする」という発想自体がなくなり、果てには「この前無理じゃなかったことでも(疲労がたまってリカバリーが間に合っていない)今回は無理かもしれない」という勘すらはたらかなくなっていく。

 

その結果、いつか銃弾が弾けるのだ。日常に起こるほんの些細なトラブルとか、誰かの心無い一言とか、深夜の玄関にたどり着いて気を抜いた瞬間とか、そういう一刹那に撃ち抜かれる。そして人は、紙くずのようにあっけなくだめになってしまう。

 

 

 

先ほど、「無理をしない」という考え方自体がなんか違うんじゃないかと言った。そう、無理を「しない」が無理をするもとになっているような気がしてならない。

「しない」は主体的な動作を指す言葉だ。つまり、自分で自分を誤魔化すことができてしまうのであって、そこが怖い。極限まで体や頭を酷使して心がすり減っても「キツイけど、無理はしていない。本当に無理だったら倒れているはず。でもいま自分はフラフラだけどそれなりにやれている。だから無理はしていない」と言えてしまう。「無理をしない」という言葉を使っているうちは、無理をしているかしていないかの判断がすべて主観に委ねられてしまうのだ。こんな怖いことってあるか?ない。独裁者が「おれは独裁者なんかじゃない、すべての民にとって善いことをしている」と言っているのを聞けば、明らかにおかしいと分かるだろう。無理をしながら「無理をしない」と言っているのは同じことだ。「ギリギリだとわかっているし実際自分は無理していると自覚している。でも自分が無理をしないとみんなが困るから仕方なくやっているだけだ」みたいな声が聞こえてきそうだけど、そういう話をしているのではない。そう自覚しているならきみは既に無理をしている。自覚しながら無理をしているのは本物の阿呆だ。死にたくないと叫びながら拳銃を頭に突きつけてリボルバーをガチャガチャ回して引き金を引きまくっているようなものだ。ドアホウめ。

 

 

じゃあどうしたらいいんだろうともう少し考えすすめてみたところ、ちょっと良さそうな結論が出てきた。

無理を「しない」がダメなら、無理を「させない」はどうだろう。

 

「無理をさせない」。すごくいい言葉だ。自分が自分のお母さんになったみたい。試しに自分を思い浮かべながら「この子にあんまり無理させないでください」と言ってみてほしい。一気に自分が小さい子になった気分になっておもしろい。まあおもしろくなくてもいいんですけど。でも安心感がすごいの、分かるかな。

 

 

昔からときどき、ひどい離人感におそわれることがある。物心がついた頃から「わたし」というのは二人いる。「している」わたしと「見ている」わたし。自分が何かしているのに、まるで自分のことじゃないような。頭を動かしたり会話をしたりスーパーのレジでお会計をしたりしている自分はたしかに自分なのだけど、それを眺めているもう一人の自分のほうに意識の焦点がくっきり合って、その二人のわたしのあいだにものすごく遠い隔たりを感じる。分厚いレースのカーテン越しに、しているわたしを見ているわたし。いつからだったか忘れてしまったけれど、たぶん小学生の頃からそうだった。「している」わたしに意識が合っているときは、見えるものや聞こえるもののすべてが刺激たっぷりで、世界の解像度はこの上なく、感情で体調や精神状態が簡単に左右されて、ものすごく楽しい半面ものすごく疲れる。反対に「見ている」わたしに意識が合っているときは、笑ったり泣いたりすることがあまりなくなって、おいしいとか、楽しいとか、気持ちいいとか、そういう感覚も鈍くなる。反面、頭は恐ろしいほどに冴え渡り、ひとつのことについて長く考えているときは、どんな些細なほころびも矛盾も見逃さない。思考に容赦なく徹底的な理詰めを重ねて、矛盾がどんどん消えていき、自分のなかではためく正しさの旗がどんどん大きく力強くなっていく。放っておきすぎるとちょっと危険。柔軟性に欠けるので、この時期はハートフルなコミュニケーションができない。付き合いの長い友だちからは「最近またなに考えているかよくわかんない期入ってるね」と言われる。

 

 

小さい頃からこんなありさまだったから、「わたし」というのはどんなにダメダメでも一生伴走し続けなくてはならないパートナーであるような感覚がもともとあった。それもけっこうダメめなやつ。抜けていることが多いし、他人をうっかり傷つけたりもする。でもこのランナーのわたしがいないと、伴走者のわたしだけでは社会参加ができないので、なんとかランナーをメンテナンスしながらやっていくしかない。

 

無理をする人は、自分と自分の距離があまりに近すぎる。ランナーが倒れたら伴走者だっておしまいだ。伴走者がいくら走りたいと思っても、一度撃ち抜かれてしまったランナーは再起にものすごい時間がかかる。時間をかけているうちに伴走者はどんどん自信を失っていく。自信を失った結果、ランナーのことが信用できなくなって余計に社会に戻ること自体が怖くなる。

 

深く眠るとか、永く休むとか、そういうのは一旦死ぬことに似ている。無理をさせないためには一旦意識の作用を手放してしまったほうがいい。どうやるのか?伴走者のあなたがランナーを抱きかかえて布団に連れて行くしかないのだ。

 

 

最近ちょっと身体しんどいな、とか、気持ちがささくれているな、と感じたら、「この子にあんまり無理させないでください」とそっと呟いてみてほしい。近すぎた自分と自分がふわっと剥がれるような軽さを感じる、はず。たぶん。感じられなかったらごめんなさい。みんなもっと自分にやさしい世界がきてくれ。

秋は、生きものたちが万全の死に向けて、持てる力をすべて使いつくして命を燃やす季節だ。なんのために万全に死ぬのか。それは、次の春に生まれるためだ。そのために冬にきちんと死んでおかないといけない。無理をしているうちに死に損なうと、春が来てもきっとその訪れに気づくことすらできない。どなたさまも、深まる秋にどんどん爆発して粉々になっていきましょう。冬は本当は死んでいなきゃいけないけれど、どこかに破片が残っていたら、一緒に鍋でも食べましょう。おしまい。