きみのお祭り

死ぬまで盛り上がっていけ

日常にかえる、とは

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犬、あっという間に逝ってしまった。肺炎を発症してからわずか2日半だった。2日半しか苦しまずに命の最後を全うできた、と考えるとすこし救われる気もするけれど、亡くなってからここ数日間、時間感覚が吹き飛んでしまっている。

 

これまで、「かなしい」という気持ちがどのような気持ちであるか、わかっていると思っていた。たとえば希望が叶わなくてかなしい、フラれてしまってかなしい、努力が報われなくてかなしい、とか、具体的な場面を挙げればいくつも出てくる。そうした場面にはいつも「かなしい」という気持ちが志向する対象があったし、その対象や事が起こった瞬間を考えたり思い出したりすると、胸がギュッとしたり、頭がどよんと重くなったりして、そのときに身体中を這うようなあのじわじわとした感覚を「かなしい」と呼ぶのだと思っていた。

しかし、亡くなってからこの4日間、わたしのなかには「犬のことを考えて”かなしい”を感じる」と明確に意識された瞬間はほとんどなかった。犬のことを具体的にあれこれ思い出しているわけでもないのに頭がぼーっとして、何も考えられなくて、わけもわからず涙がでる。涙がでる理由はほんとうにわからない。犬と散歩をした道を歩いても、お線香をあげても、お気に入りだったレタスをちぎっても、特別な情動が湧いてくることはない。なのに、ふとした瞬間に頬が濡れているのを感じて、手をやると涙が出ている。この感じを「かなしい」と呼ぶのだとすれば、わたしはわたしの辞書にある「かなしい」の項目を大幅に書き換えなくてはならない。これは、まったく自覚的な感情ではない。

 

犬が死んでしまっても、わたしの日々は変わらずに規則正しい時間を刻んでいく。犬はこのさき永遠に13歳7ヶ月のまま肉体の時間を更新することはなく、わたしの肉体は少しずつ女に、母に、おばさんに、おばあちゃんになっていく。そうやって自分だけ時間が進んでいくことの実感をいまはぜんぜん得られないけれど、目に見えないかたちで犬がいるようになったことを身体でも心でも感じられるようになったとき、「気づいたら、いつの間にか」くらいのさりげなさで、いつもの生活を取り戻しているのだと思う。これまで知らなかった「かなしい」を知って、見えなくなった犬とともに。

 

長い旅行から帰り、自宅まで残り3分くらいの近所を歩いているときの「もうすこしでいつもの生活に戻る手前の瞬間」がけっこう好きだ。その瞬間を感じるとき、胸のなかに独特な感触がある。声にしたら「アー」と漏れる意味のない嘆息のような、安心感と、すこしの疲れと、たのしかった思い出への満足感と、日常をふたたび動かすための準備に面倒くささを感じているような心持ち。いまはどうにもこうにもどうにもならないので想像がむずかしいけれど、どこかであの「いつもの生活に戻る手前の瞬間」を待っている自分がいる気もしている。その自分に会いに行こうと腰を上げたとき、きっとわたしは日常にかえるのだ。進むことも戻ることもない犬の身体を置いて、透明になったやつとともにまた歩んでいくのだと思う。

 

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花束を背負って透明になったきみへ。骨までかわいいなんてきみは天才か?おつかれさま。犬のかたちをして会いに来てくれてありがとう。