きみのお祭り

死ぬまで盛り上がっていけ

どうしてちゃんの「わからない」お作法

 

冗談ではなく、毎日20回くらいは「わからんなあ」と思う瞬間がある。あくまでも、淡々と。何かに苛ついたり絶望したりというわけではなく、純粋に何かをわからないと感じる瞬間が毎日20回くらいあるのだ。本を読んでいても、ニュースを見ていても、人の話を聞いていても、SNSを眺めていても、文章を考えていても、かならず「わからんなあ」がどこからともなくやってくる。実際に口に出して言うこともあれば頭の中だけでつぶやくこともあるし、本などが手元にあるときは「(ここ)わからん」と直接書き込むこともある。

 

物心ついた頃から、「わからない」は最も近しい友人だった。いまもそうだけど、子どもの頃からこまっしゃくれた「どうしてちゃん」だったので、いろいろなことについて「なんで?」「どうして?」「それ何?」と訊いて回っては大人たちに鬱陶しがられた。実際、「なぜ」という問いは必ずしも歓迎されるわけではない、ということが歳を重ねるに連れてわかってはきたけれど、やっぱり根本的に「どうしてちゃん」はやめられないのだ。カエルが皮膚呼吸をしないと死ぬのと同じようなものなのだと思う。

どうして「わからない」と感じる瞬間がこんなにも多いのか(ほらまた「どうして」!)と考えてみると、おそらくわたしは「わからない」を「わからない」ままにしておくのが怖いのだと思う。あとは、自分が何をわかっていて何をわかっていないのかをわかっていたい、という気持ちがたぶん強い。そして「わからない」を考えて自分なりの「なるほど」に辿り着くのがけっこう好きだ。この3つが合わさると立派な「どうしてちゃん」が出来上がる。

 

余談だが、わたしはお化けがこわい。大嫌いだ。心霊スポットなんて死んでも行かないし、遊園地のお化け屋敷もなるべく行きたくない。なぜかというと、お化けはわたしにとって徹底的に「わからない」ものだからだ。死んでまでしてこんなにもしちめんどうくさい現世と関わりたいというモチベーションが高い時点でわけがわからない。起業家かよ。ビジュアルもヤバい。血がドバドバ出たり目が片方腐り落ちたりしたまま歩いているとか信じられない。まず手当てをしろ。せめて傷を隠せ。生きている人間に対してあまりに配慮がなさすぎる。しかも出現するタイミングがランダムすぎて完全に予測不能。ヤバすぎる。ぜったいに遭いたくないのにいつ出くわすかまったくわからないのがいちばんこわい。一から十までなにひとつわからない。だからお化けは大嫌いです。

 

さて、お化けは置いておくとして、20回/日のペースで「わからんなあ」を23年やってみて、「わからない」についてわかったことは少しずつ増えてきた。備忘録も兼ねて書いておこうと思う。

 


1. 「わからない」は「理解できない」「納得できない」「予測できない」のおおかた3つに分類できる。

1日20回の「わからんなあ」を分類してみると、だいたい5:2:3くらいの割合になる。そして「何がわからないかわからない」という状態の8割方は、いま抱えている「わからない」がこの3つのうちどれであるかを見極めれば、半分くらいは解決する。理解ができないなら理解できるまで調べるか他人に訊けばいいし、納得ができないなら自分の視点との違いを意識して考えてみればいいし、予測ができないなら仮説を立てる材料を探せばいい。たまにこの3つのどれにも当てはまらない「わからんなあ」が発生するけれど(だいたいそういうときは何もかもを投げ捨てて南の島へ逃亡したいときだ)、モヤモヤした気分を解決するには、この3つのうちどれを解消すれば問題が解きほぐされるのかを見極める必要がある。もちろん見極めたからといってすぐに問題が解決するわけではなく、誰に訊けばいいかわからないとか、言語の壁があるとか、仮説を立てようにも適切なソースが何であるか見当がつかないとか、そのような次なる事案にぶつかるわけだけど、少なくとも「わからない」を解消するための最短ルートを見つけること(=分類をしそのカテゴリに適した解決方法をとること)が解決への第一歩だ。そしてこれは、やればやるほど見極めもルートの探索も早くなる。

 


2. 違う種類の「わからんなあ」を同時に3つ以上抱え込むと気持ちが厳しくなってくる

現代人の多忙なる皆さまにおかれましては、種々の悩み事の尽きないことと思う。仕事、世事、生活、健康、恋愛、家族、人付き合いなどなど、「わからんなあ」と思うタイミングは星の数ほど巡ってくる。
わたしはマルチタスクが死ぬほど苦手だ。だから必然的に「わからんなあ」と思うことについて考えるときはひとつのことについてしか考えられないのだけど、たとえば「仕事」「いま読んでいる本」「人間関係」の3つにおいて同時にまったく違う「わからんなあ」が発生すると、まったく心が休まらなくなる。「わからんなあ」を常時いくつか待機させてしまうと、別の考え事をしているあいだもそれらのバックグラウンド処理で脳のメモリーが使われる。それに目の前のひとつを強制終了させても、待機しているそれらが次々に現れるので、結果ものすごく疲れるのだ。そして「わからんなあ」をやりすぎると、わたしは気持ちがあっという間にダメになる。「こんなにわからないことが多いなんてもうおしまいだ」という気持ちでいっぱいになり、ほんとうはそんなことないのに、何もかもがわからないように思えてしまい、お先真っ暗な気分になる。これは非常によろしくない。
大切なのは、「わからんなあ」を同時に発生させないよう、あまり多くのことに気を取られすぎないことだ。特にわたしのようなどうしてちゃんは、PCを触っているときはノートや本をしまう、書き物をしているときは電子機器の電源を切る、など、物理的に情報が入ってくるもとをシャットアウトする必要がある。同時並行で複数の「わからんなあ」を抱えることはiPhoneで言うならば、ツイッターとラインとメッセンジャーをひらいたままYouTubeで動画を見ているようなものだ。電力とメモリーはなるべく省エネでいかなくてはならない。そして健全な気持ちを守るためにも、なるべく「わからんなあ」を同時多発的に発生させてはいけない。

 


3. わかるとわからないの線引きをすると思考の整理がすみやかになる

最初に述べたとおり、わたしは、何がわかっていて何がわからないのかがわからない状態に多大なるストレスを感じる。部屋が散らかっているのは見過ごせるが、頭のなかが散らかっているのは大嫌いで、欲しい情報やそのときの最適解をすぐに組み立てられないことが死ぬほど嫌なのだ。おそらく2で述べたことともすこし関連していて、「なにがわからないのかわからない」になると「もうぜんぶダメだ」になりやすいからというのも、この状態にストレスを感じる理由のひとつだと思う。
よく「考えていることを整理する」という言い方をするが、これは「どのような道筋で現在の解が導かれたのかを再度辿り直してみる」ということで、その辿り直しの過程に「わかっていることとわからないことの線引きを明確にする」という動作が含まれる。この線引きには大きな意味があり、なにがわからないのかをわかると、「わかりたいこと」に対してその「わからないこと」をわかる必要があるのかどうか、必要があるならば、どの程度の深度でわかる必要があるのかが見えてくる。特に生真面目な人間の頭は欲張りなので、何かを学ぼうと思うときにとりあえず目につくすべての情報を自分のものにしようとしてしまう。しかし実際のところ理解や記憶に使う思考力は希少資源だし、ほんとうにわかる必要があることというのは、解を出す上で実は大して多くなかったりもする。「わからんなあ」はあくまでただの「わからんなあ」であって、「だからぜんぶわからなきゃ」とは違う。そこを勘違いしてしまうと、あっという間に情報の波に飲まれ、考える事自体が嫌になってしまう。線引き、しましょう。

 


なんとなくここまで書き連ねてみて、「わかる」「わからん」がゲシュタルト崩壊してきたのでそろそろ終わりにする。ここまで話してきたのはあくまでも「自分ひとりでわからないことについて考えるときのこと」であって、ほんとうは「わからんなあ」と感じたら、すこしそれを寝かせたあとに他人にバーっと喋ってしまうのが一番いい。喋っていると自分が何につっかえているのかがわかるし、聞き手からフィードバックももらえる。何より「聞いてもらった」という満足感で、なんとなく気分が良い感じに収まってくれる。もしわたしがこのまま歳をとって結婚もせず家族も作らず一人暮らしをしていくことになったら、頭の良いオウムをたくさん飼って話を聞いてもらおうと思う。

「どうしてちゃん」はよく沼にはまって大変になることも多いけれど、生業なので仕方ない。用法用量を守って、これからもたのしく「わからんなあ」を続けていこうと思います。おしまい。