きみのお祭り

死ぬまで盛り上がっていけ

他人よりも自分を思い通りにするほうが数倍むずかしいなあと思う。

 

他人よりも自分を思い通りにするほうが数倍むずかしいなあと思う。他人を思い通りに動かすのは案外簡単で、お金か暴力のどちらかがあればだいたいうまくいく。お金は言わずもがな、暴力は多種多様。怒りに任せて当たり散らしたり殴ったりすることも暴力だけど、「どうしてわかってくれないの」と泣くことや、「どうせわたしが悪いんでしょ」という拗ねた言葉なんかも立派な暴力だ。要は相手を思い通りにするために困らせることはぜんぶ暴力です。この世界には弱さや正義を装った暴力がたくさんある。

けれど、自分で自分を思い通りにする、というのはなかなかむずかしい。ちょっと考えてみてほしい。いまの自分がほんとうに思い通りの自分かどうか。たぶんほとんどのひとが「何か違う」とか「ぜんぜんダメだ」とどこかしらで感じながら生きていると思う。わたしも割とそうです。そういう焦燥感のような何かを感じたことはない、という人に会ったことがない。

 

自己啓発本や紛い物宗教本にはよく「ありのままを受け入れましょう」と書いてあるけれど、そもそもの「ありのまま」が何であるかを自分なりに突き詰めて納得して書いている書き手は、ほとんどいなかったように思う。

この言葉の得てして危険な側面は、「ありのまま」に「それで良い(善だ)」という価値基準がくっついてまわるところ。多くの場合、「ありのままを受け入れましょう」には「どんなに自分をダメな人間だと感じても、あなたはそのままでいい」というような、「ダメ」とか「至らない」という自己評価を正当化するニュアンスが込められており、そして事実、ものすごい数の書籍でそのような誤読がなされている。

そもそも「ありのまま=在るが儘」と二元論(善/悪)の価値基準はまったく関係がない。在るが儘は「唯、在る」というそれだけであり、それを良い悪いと判断するのは理性や社会の文脈なのだ。「唯、在る」がいったいどういうことなのかを考えないままに、「それでいい」と誤読をされて広まっている「ありのまま」を見かけるたびに、「こんな栄養のない言葉を活字にしていいと思ってるんだなあ」と、なんだか気持ちがしぼんでしまう。誤読について自覚的でない本や書き手がこの頃特に多い気がして、本屋に行きたいとあまり思えなくなった。特に啓発本コーナーには近寄りたくない。だいたいみんな自信満々過ぎて、こっちの自信がなくなってしまう。


と、偉そうなことをいいつつ、実はわたしもまだ「唯、在る」がどういうことなのか、ほとんどわかっていない。わかっていないけれど、文脈のような矮小な枠によって捉えきれる事象ではなさそうだ、ということだけは、ここ3年ほどでやっと少しずつ感じられるようになってきた。やっぱり今年はもう少し仏教か東洋哲学の本読んでみなきゃだなあ。