きみのお祭り

死ぬまで盛り上がっていけ

unreasonableを忘れてはならない―『聖なる鹿殺し』感想メモ

 

unreasonable―不合理な、無分別な、気まぐれな、非現実的な、筋の立たない、理性に従わない

わたしなら、この単語に「わけのわからない」という訳をあてる。

 

わたしたちは、想像力と言語なしにunreasonableの恐ろしさと向き合うことはできない。unreasonableの恐ろしさとは?理解ができない、法則を見いだせない、予測ができない。だから昔の人々は、神を作り上げることでunreasonableと自分たちとのあいだに線引きをし、ギリギリの防衛をした。言語で名前を与えて線を引き、想像力でunreasonableの存在をさまざまに仮定しなくてはならなかった。なぜ天から滝のような雨が降り、激しい稲妻が走り、河が怒り狂うのか。なぜ子どもの身体が急に熱を持ち、呼吸が乱れ、やがては生命まで奪われてしまうのか。サイエンスが発展していなかった頃の人間にとって、それらはすべてunreasonableだ。理由は誰もわからないし、それらはランダムに起こっては人々にたくさんの痛みを与える。ゆえに、それらに"unreasonable"とラベルを貼り箱に放り込んでしまうしかなかったのだ。

 

サイエンスが昔よりは発達したいまも、わからないことや解決できないことは相も変わらず山積みになっている。世界中の人々と一瞬で通信して、鳥の目から都市を見渡せるようになったわたしたちは万能感に騙されて、実は昔と変わらない態度でunreasonableを自然と遠ざけている、ということを忘れている。

 

引用:http://www.finefilms.co.jp/deer/

 

聖なる鹿殺し』はまさに、人間がunreasonableに正面から直面する映画だった。なぜスティーヴン(主人公)の家族の健康や、平穏な暮らしが刻々と奪われていくのか。なぜたった一人の少年が、恐ろしい呪いをスティーヴンの家族にかけることができたのか。そうしたことに関する説明はこの映画では一切なされない。スティーヴンは、数年前の自身の医療ミスがこの呪いの理由であることを自覚している。自分の過失で他人の家族を奪ったのだから、自分の家族を一人差し出さなければならない。「殺してしまったから誰かを殺さなくてはならない」というunreasonableを、否応なしに主人公も観客も呑み込まざるを得ない。生贄。生死という神の領域に人間である自分が立ち入ってしまったことへの償いなのか、それとも単純に人を死なせてしまったことに対する償いなのか。冷静になってみれば何もかもがunreasonableで、ふつうに話を聞けば「えっ、何それありえなくない?」と受け流してしまうような事態を、当たり前のように観客にすら呑み込ませる。この映画は、unreasonableの見せ方がものすごくうまかったのだと思う。

 

劇中、スティーヴンは気が触れているような行動を繰り返す。入院して食欲のない息子の口に無理やりドーナツを詰め込んで窒息寸前に追いやったり、少年を誘拐して自宅の地下に監禁しひどい暴行を繰り返したり、果てには「生贄」を決めるために家族全員を拘束し、自分も目隠しをして誰かを殺すまで発砲を続けた。

わたしたちは普段、 reasonableな世界のなかで、秩序、ルール、習慣、規則、法則に守られて暮らしているのだ。それらを守っているようでいて、実はこちらが守られている。しかし、ほんのすこしのunreasonableがその影をわたしたちの生活に落としたとき、わたしたちはあっという間にあちら側に飲み込まれていく。

もともとわたしたちは、混沌の中から生まれたのだった。地球上に人間という生命体が誕生したのは、水をいっぱいに張った25メートルのプールに、時計の部品をすべて分解して投げ入れてかき混ぜて、その部品のすべてが時計として完璧に組み上がり、秒針が0から1へと動くのと同じ確率だった、と何かで読んだことがある。つまり、わたしたちはもともとunreasonable側から生まれている。カオスに落ちるのまでに長い時間は必要ない。人が秩序や規則を作ったのは、その上にreasonableという城を築くことで、集団で暮らす知的な生命体として平穏な日常を手に入れるためだ。実はunreasonableのほうがはるかに「自然」であって、reasonableのほうが本来的には不自然なのかもしれない。一瞬でunreasonable側に落ちていく彼らを見て、そう感じた。

 

ゾクッとするのは、unreasonableは意識していないだけでいまも当たり前のようにわたしたちの生活に潜んでいる、というよりも、どの瞬間にもわたしたちはunreasonableと隣合わせであるという事実。そしてそれを忘れてしまっているということ。事件や事故が起こるたびに「なぜあの人が」という声を聞くし、わたしも家族を亡くしたときに、「なぜ」と何度も思った。reasonableな世界の端がめくれ、unreasonableが一瞬顔を覗かせとき、わたしたちは勝手にいろいろな理由をつけてそれらしく納得している。けれどいまだに、人をはじめとした生きものがなぜ死ぬのか、なぜ自分自身が生まれたのか、誰もわかっていない。そして「わかっていない」という事実を忘れている。

 

ほんとうは、毎日のどの瞬間もわたしたちはunreasonableに包まれている。『聖なる鹿殺し』はそれをまざまざと思い知らせてくれた。