きみのお祭り

死ぬまで盛り上がっていけ

そろそろトラウマを手放さなくてはならない

 

トラウマと位置づけてしまっている記憶は、なかなか手ごわい。
その記憶はいまこの瞬間のじぶんを傷つけているわけではないのに、ときどき生々しく「そのとき」を再現しては全身をヒリヒリさせる。目を瞑って眉間にしわを寄せて、しばし耐える。過ぎ去る。はーっとため息が出る。アーと誰に宛てるでもない声が出ることもある。

 

ほんとうに、ふしぎだ。トラウマはいまこの瞬間のじぶんを何も傷つけやしないのに、いつまでもその経験がいまのじぶんを不幸にする。思い出したくなどないのに、ときどきうっかりその再生ボタンを押してしまう。
経験の意味づけはじぶんしかできないし、わたしたちは主観的に意味づけられた世界にしか生きられない。「幸せでありたい」という普遍的な願いを誰もが持っていて当たり前だと皆思いこんでいるのに、ときどき、ほんとうに幸せでありたいのかわからないような行動をとってしまう。トラウマを「作る」ことは、その代表的な行為のひとつだ。

 

幸せであるために、不幸や苦痛の記憶との向き合い方には二通りある。ひとつは、それらを完全に抑圧しダストシュートへ放り込んでしまうこと。いわゆる「忘れる」というやつ。しかし賢明な皆さんはお分かりかと思うが、これは何の解決にもならないし、向き合うというよりは逃げである。逃げるのもいい。目の前の現実に手一杯なときは、忘れて逃げるしかないということもある。けれど、逃げ続けていると死ぬまで追われるので厄介だ。なにより「これは逃げだ」と自覚しながら生きることほど、息苦しく後ろめたいことはない。

 

もうひとつは、その経験に不幸や苦痛という意味づけをしないこと。それは「あのときはああいうことがあって、そのときのじぶんはこう感じていた、こう思った、つらかった、苦しかった」と認めたうえで「でも、いまのじぶんはそれに苦しめられているわけではない」と、過去といまを切り離してしまうこと。これは至極当たり前なのだけど、心に一時的にものすごい負荷をかけたときの状況や人はいま目の前には存在していないわけで、少なくとも「過去」は苦しかったとしても、「いま」は苦しくない。過去の経験がいまのじぶんに影響を与えていたとしても、それがいまのじぶんを苦しめるかどうかは、実はじぶんで決めることができる。苦しみたいのなら、苦しめばいい。苦しみたくないのなら、手放せばいい。それだけだ。

しかしこう書くと「手放せるものならとっくに手放している」「お前は本当の地獄を知らないからそんな悠長なことが言えるのだ」というお叱りが飛んできそう。ええ、確かに。わたしが経験したことなぞ、本当の地獄と比べたら大したことはないかもしれない。けれども、それなりにつらかったことはあったし、いまも手放せないまま苦しいと感じることがいくつもある。

 

なぜ、焼けた石を飲み込んでしまったかのように、苦しい記憶をいつまでも手放せないのか。考えて、考えて、考えてみたけれど、やはり最終的には、じぶんがそれを手放すことを望んでいないからなのだろうな、と思う。

 

苦しい記憶は、アイデンティティとつよく結びつくことがある。あの辛酸を嘗めた経験がいまのじぶんを形作っている。あの苦痛を乗り越えられたのだから、ちょっとやそっとじゃ折れやしない。そういう矜持を、わたしは実はたくさん持っている。けれど反面、そのときの感覚は鮮やかな写真のようにしっかりと全身に刻み込まれ、すこし弱気になるとすぐにこちらを脅かしてくる。

これがおそらく、わたしのトラウマの正体。苦しさを手放して幸せになるよりも、つらさをガソリンにどこまでも走り続けることを選んだ。けれどほんとうのところ、何かが違うとじぶんがいちばんよくわかっている。こんなことをしていても、ほしいものは手に入らない。どころか、幸せであるためには何が必要であるのか、実はまじめに考えたこともあまりない。ただただ強くあることが不幸を追い払い前進させてくれるはずだという一握の希望だけに突き動かされてきた。では、進んだ先には何があるのか?光り輝く未来か、それとも、殿上人の極楽か。わからない。知らない。走り続けることで何が幸せであるかを考えることから逃げてきた。

 

幸せでありたいのであれば、まずは、手放さなくてはならない。じぶんの記憶に「苦しい」という意味づけをやめ、「苦しかったが、いまは苦しくない」ということをわかる必要がある。そのうえで、じぶんが手に入れたい幸せとはどのようなかたちをしているのか、それを手に入れるためには何が必要であるかも考える。不必要なものは順次手放していく。これしかない。これしかない、ということに気づくのにも、ずいぶん時間がかかってしまった。

 

たぶん、わたしは幸せになりたい。「いまを乗り越える」だけでなく、いまを乗り越えてどうしたいのかを考えなければ、一生ゴールのないマラソンを走るハメになる。どこへ向かって走っているのか、そもそも走る必要があるのか、だんだんわからなくなってきた。何からやれるか、どうやれるか、わからないけれど、まずは一旦足を止めて、トラウマをトラウマから解放することから始めようと思う。

 

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夏の空 カモメ