きみのお祭り

死ぬまで盛り上がっていけ

高貴なコンビニサラダと、わたしの抱えるカルマについて


その日、昼食を食べそこねたわたしは、狂ったようにローソンの海藻ミックスサラダが食べたかった。16時。もう、狂おしいほどに。

 

昔から、お腹が減ると人はイライラするのが世の常とされていますが、加えてわたしは大変厄介なカルマを背負っている。お腹が減っているときに「これが食べたい」と思った以外のものをぜったいに口にしたくないのだ。もう、ぜったい。何が何でも。何が何でもそれが食べたい。それしか食べたくない。それを食べなくてはならない、という強迫観念に苛まれすらする。いや、決して冗談ではなく。

「それ」は空腹のたびにくるくる変わるけれども、蓋をあければなんてことはない、ファミマのアメリカンドッグとか、成城石井のエビ生春巻きとか、サーティーワンアイスクリームのロッキーロードとか、ミスドのオールドファッションとか、そんなもんだ。それがその日はローソンの海藻ミックスサラダだった。

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皆さんはコンビニサラダにどのような感情を抱いているだろうか。抱いていないと思う。わたしも特に感想はない。

 

彼らには士農工商よろしく身分がある。一番格下のサラダは、キャベツの千切りや玉ねぎなんかを混ぜたのがそのままスナック菓子のように袋に入っている。およそ130円程度。ポテチよろしく袋の口をあけ、中にドレッシングを注ぎ、よく揉んで、食べる。ディストピア飯の3歩手前のビジュアルだ。パンクな気分に効く。

 

真ん中の身分は、プラスチックの容器に入っている。皿に入れられているという時点で格下とは違うのだ。価格帯はだいたい150円から299円ほど。袋サラダに少し彩りが足されたようなシンプルなものから、なめこや山芋やオクラが乗って「ネバネバサラダ」と明確なコンセプトを持つものまで多種多様だ。ときどき有名シェフや有名企業とコラボをしたものもあるけれど、そういうものは値段の割に量が少ないので少しガッカリする。ブランドとは要はドレッシング代である。

 

一番高貴なサラダは、少しおしゃれな底の深い丸い容器に入っている。398円から498円。鶏胸肉やエビ、アボカド、10種類の雑穀などがバランスよく散りばめられており、「じぶんたちは料理として完成されているのだ」という矜持を感じさせる。真ん中の身分のサラダと違い、高貴なサラダはコンセプトにとどまらずストーリーを持つ。きっとこういう人がこういうシーンで買うんだろうなあというストーリー。鶏胸肉サラダを選ぶウーマンはジム通いが趣味で、20時のワークアウトを終えたあとに胸肉サラダを手に取るだろう。押し麦や雑穀のサラダを選ぶウーマンはミラーレスカメラで写真を撮るのが趣味で、雑誌出版社でのミーティングに押されて遅めになったお昼に雑穀サラダを手に取るのだろう。高貴なサラダを考える人々は、それを手に取らせたい人を完全に狙いにいっている。袋に印刷されたフォントや器のテクスチャを見てみろ。マジだから。それを手に取るウーマン、目に見えるから。

 

さて、わたしは海藻ミックスサラダが食べたかった。猛烈に。ローソンの、海藻ミックスサラダが。そのときはもうあれ以外のことがなにも考えられなかった。

ちなみに、高貴なサラダを食べたことはほとんどない。同じ額を払うなら断然サブウェイだ。死ぬほど飢えているときでも、5メートル先の高貴なサラダを売っているコンビニと2キロ先のサブウェイなら、迷わずサブウェイを目指す。コスパの悪さはディーゼル車に負けずとも劣らない。なぜ?と訊かれても、それはそうと決まっているからとしか言えない。高貴なサラダよりぜったいにサブウェイ。

 

その日は4時間ぶっ続けのミーティングだった。それも運の悪いことに12時から16時まで、4人のクライアントと1時間ずつ。大変厄介なカルマその2を背負っているので、12時より前にランチを食べられない。「ランチは12時以降15時前」と頭がセットされているせいで、そこ以外の時間に食べてもそれをランチと認識できず、結果「わたしは何を食べたんだろう……?」と考え続けてしまいイライラする。自分でも書いていてわけのわからない理屈だなと思うが、わかってほしい、この気持ち。ちなみにカルマはすべてで1500ほどある。

 

もちろん休憩など差し挟む余裕もなく、最後の1コマはもはや緊急用のエネルギーをフルに回していたような感じだった。荒廃した精神に天啓のように与えられた「いま食べるべきもの」は、海藻サラダの形をしていた。ローソンだ……。この海藻の配置は……ローソンだ………。
同じコンビニサラダといえど、セブンファミマローソンサンクスサークルKミニストップ、すべて種類は違う。海藻サラダももちろんコンビニの数だけあり、その日わたしの頭に浮かんだのはまごうとなくローソンの海藻ミックスサラダだった。

 

しかし運の悪いことに、打ち合わせ場所の周辺にローソンはなかった。爆速でグーグルマップを立ち上げる。乗り換えの駅から次の目的地周辺をくまなく調べる。あった。飯田橋駅南北線乗り換え改札。駅構内だからなどと言ってられない。考えつく限り最速で海藻ミックスサラダに辿り着くにはそこしかない。南北線に飛び込む。飯田橋駅で飛び降りる。早足にエスカレーターを登る。なんと改札の目の前。駅ナカローソン。尊い。海藻ミックスサラダ、ある。すごい。青じそドレッシングも買う。ファビュラス。イートインなど無い。店の前で改札口を行き交う人々には目もくれず、海藻ミックスサラダの袋を慎重にあけ、無心で食べる。傍目から見れば「なぜこんなところで立ってサラダを食べているんだ」と思われても仕方ないポジションで海藻ミックスサラダをむさぼる24歳。しかしここで正気を取り戻したら負けなのだ。「いったいなぜこんなところで…?」という視線を向けられている、なんて予想してはいけない。周りを見てはいけない。自分と海藻ミックスサラダしかこの世にはいない。羞恥心を知ったら負けである。あのときのわたしは、林檎をかじるまえのイヴだった。

 

さて、わたしは高貴なサラダをすこし斜に構えた目で見ている。いかにもおしゃれを装ったふうでありながら、ダイスカットされたかぼちゃがしなびて小さくなっているところとか、蒸された胸肉がシーザードレッシングの下で鳥の死体のごとくダラリとしているところなどが、どうも信用ならない。この野菜たちに栄養がちゃんと詰まっているのか、ちょっと不安になってしまう。東京の俗な繁華街で売っている激安のおしゃれ雑貨にちょっと似ているかもしれない。本物感のない本物。

 

わたしの頭の中では、コンビニサラダは料理ではなく、コンビニサラダというひとつのカテゴリーなのだ。味、悪くない。栄養価、謎。ビジュアル、壊滅的。しかしそれでいい。なぜならそれはコンビニサラダなのだから。野菜を食べているという満足感をそれなりに得て、いっときの空腹を満たすためのものでしかない。コンビニサラダと料理のどちらが高尚であるかなど、そもそも比較はできないのだ。それが、高貴なサラダは変に料理側に寄っているから、「料理と呼ぶにはニセモノすぎる」と感じてしまうのでしょう。適切なカテゴリーの中で技を磨いて質を高めていくほうが、別のベクトルを持つ質のものに勝ちにいくよりもずっと大切です。これは、サラダに限らない話。