きみのお祭り

死ぬまで盛り上がっていけ

きみを手放したから、もうどこへでも行ける

 出ます出ます詐欺をおよそ1年続け、ほんとうのほんとうに出ます。実家を。1月に。これはマジです。2018年最後につく嘘にしないよう、12月の1ヶ月間をかけて、家中にある所持品の量を半分にしました。


実は15歳か16歳くらいまで、かなり重度のぬいぐるみ依存だった。集めるタイプのではなく、ひとつのぬいぐるみにとことん依存するタイプのほう。

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これはポーちゃん。6歳の頃に動物園で買ってもらって以来、中学を卒業するくらいまで、彼はわたしのすべてだった。いとおしくて仕方なかった。手触り、フォルム、やわらかさがまるでじぶんの心臓のようで、比喩抜きで片時も手放せず、学校にもこっそり連れていき、なんとかかんとか肌身離さずそばに置いておいた。

ポーちゃんと過ごしていた10年間は、家族のことを心配したり、人とうまくコミュニケーションがとれないことで癇癪を起こしたり、常に心のどこかが不安だった気がする。その頃は明確に不安を感じてはいなかったけれど、いま思い返せば、いつもぜったいにそばにいてくれて安心感を与えてくれる、じぶんの激しい感情や行動を否定せずに見守ってくれる存在を心の底から求めていた。それがわたしにとってはポーちゃんだった。ときどきどこかへ置き忘れて見つからなくなると、過呼吸を起こしかねない勢いでパニックになり、泣き叫んで狂ったように探し回った。ポーちゃんがいれば何も怖くなかったし、ポーちゃんがいなくなってしまうことが何より怖かった。ポーちゃんのことはぜんぶから守ってあげたかったし、最上級の愛情表現で包みたかった。だからこんなにもボロボロになってしまって。なってしまって。

 

家を出よう、と決めてから、徹底的にモノを捨てた。断捨離の本を読み、ほんとうのほんとうに断捨離をやった。喜んで使えるもの、気分を上げてくれるもの、付き合いたいもの、じぶんをレベルアップさせてくれるものだけを残し、それ以外はすべて捨てた。いまのわたしが居場所を与えられないものはみんな手放した。手紙も写真もプリクラも服も本も贈りものもたくさん捨てた。これからのことだけを考えるために、もう戻ってこない時間のなかに生きないために、捨てて捨ててとにかく捨てて、廃棄物の量はおそらく80キロを超えたと思う。

 

今日は年内最後の可燃ゴミの日だった。

 

集めるタイプの依存症ではないと言いつつ、家にはそれなりにぬいぐるみが溢れている。そのうちの95%は処分した。ひとつひとつを手に取り、御礼を言ってゴミ袋に詰めて口を縛る。捨てて捨てて、手元に残ったのは、ボロボロになったポーちゃんと、カヤネズミと、ペンギン。カヤネズミとペンギンには、居場所があった。カヤネズミはペーパーウェイトに、ペンギンは本棚に。けれどポーちゃんの居場所は、どうしても思いつくことができなかった。

 

今朝、目が覚めて真っ先に、机の上に置いておいたポーちゃんを手にとった。まだ口を縛っていないゴミ袋が一つ。捨てよう、という決意は特に必要なかった。いくんだね、という気持ちで、あの頃と同じように両手で彼を包んだ。

 

わたしは手が小さい。小学生女児とほとんど同じくらいの大きさしかない。だからポーちゃんの包み心地も、あの頃と全く変わっていなかった。やわらかい綿の心臓。わたしの心臓。毛足はかたまり、灰色が濃くなり、フェルトの足は半分ちぎれ、黒目のビーズは表面が薄く欠けて。いとおしさが寄せては返す。あの頃の不安な気持ちはもうほとんど思い出せなかったけれど、彼を包んだときの「これ」という感覚は鮮明に手のなかでよみがえり、何度も何度もありがとうを言った。

棚にポーちゃんを置いてみる。どう見ても、彼は居心地が悪そうだった。10年前にこの家に越してきたとき、彼はおもちゃ箱のなかにいた。おもちゃ箱を処分するとき、ポーちゃんは鏡台に置かれ、そのまま少しずつ「いてもいなくても変わらないもの」になっていった。いまのわたしの生活のなかに、彼の居場所はもうない。忘れられたまま置いていかれるのは、かなしくてさみしい。人は死ねる。犬も死ねる。花は枯れられる。けれどぬいぐるみは終われない。愛していたから、わたしが終わらせなくてはならない、と思った。

ほんとうにありがとう。と口に出して、ポーちゃんをビニール袋に入れた。犬を火葬へとおくったときとまったく同じ気持ちになった。ほんとうに好きだった。たくさん助けてくれてありがとう。だから、さようなら。口を縛った。手放した途端、比喩ではなく、ほんとうにどこへでも行ける気がした。なんでも捨てられる気がした。2018年最後の、可燃ゴミ収集の日。

 

朝目が覚めて、いくんだね、と思ったとき、わたしはいったい誰と別れたんだろう。じぶんの手で終わりにしたのだから、「さようなら」のほうが正しいのに、どうして「いくんだね」と思ったんだろう。あのとき、透明な誰かと確かに別れた。互いの名前や素性、行き先も知らないままに。

 

年が変わろうと変わるまいと、日々が途切れることはない。毎日が地続きであるように、12月31日と1月1日ももちろん地続きで、そのさきもすべてがずっと地続きだ。1ヶ月後や1年後、3年後、100年後のじぶんは、ぜんぶがいまとつながっている。蛹が蝶に羽化するのは、突然の出来事ではない。硬い殻が割れた瞬間よりもずっと前、この世に生まれ落ちた瞬間から、彼のなかの蝶は始まっている。

2018年12月30日、ポーちゃんを手放し、見えない誰かと別れたのは、殻の割れる最初の音、あるいはかすかなヒビのようなものだったのかもしれない。とても大切な朝だったような気がする。でもきっと、これも忘れていく。それでいいと思う。ありがとう。さようなら。