きみのお祭り

死ぬまで盛り上がっていけ

虚無にはセブンイレブンコーヒー、地頭はぜんぶファック

 

今日は昼過ぎから体調とメンタルが完全に終わっていた。悪い。悪すぎる。ひとえにこの連日の雨と寒さ、吹きつけるビルの谷間からの風。悪天候は健康を大きく損なう。頭がどんどん重くなり、何かを考えようとしてもまともに言葉が出てこない。だんだん自分がどこに立っているかわからなくなり、呼吸が自然と浅くなっていくのがわかる。

 

しかし体の不調より、心の不調のほうが何倍もしんどい。悪天候は体と心の両方をダメにする。脱力感。湧き上がって一面覆い尽くす憂鬱。ひどい離人感。自分の見ている世界が現実のものではないような、カメラ越しに時間が進んでいく感覚。かぶせるようにして「またこれか」という無念さ。一度メンタルを壊すと、回復しても少しのことで立ち上がれなくなるほどのダメージを負いやすくなる。体調を万全に整えても、ダメなときはダメ。「なんで?」と言いたくなるくらい、脆い。脱力感、憂鬱、離人感、無念さで気持ちはめちゃくちゃにされ、もう、虚無。めちゃくちゃに虚無。嫌な時間。嫌だけど、仕方ない、けど、本当に本当に、嫌。

 

コーヒーだ。一刻も早くセブンイレブンのコーヒーを飲む必要がある。仕事をしながら、わたしの頭はそのことでいっぱいだった。経験則上、悪天候で具合が悪くなったときはカフェインの強いコーヒーが効く。知る限り最もお手軽に強カフェインを摂取できるのはセブンイレブンのホットコーヒー。近くのカフェに寄ることも一瞬考えたが、もはや寒いとか雨が顔に当たるとか、そういう一切の刺激を受けたくなかった。

 

取材を終えて駅近くのセブンイレブンに飛び込み、コーヒーを買う。100円。すばらしい時代。寒いなか、火傷しそうに熱いコーヒーを飲むのは最高に気持ちよくて楽しい。家までの道を歩くうちに、諸々のひどい症状や感覚がすーっと楽になった。セブンイレブンのコーヒーは本当に一発で効く。スゴイ。

 

頭がクリアになって、やっとまともにものが考えられるようになった。虚無にさらわれてしまうのは、わたしの心が弱いからではない。単純に、脳内の化学物質が足りなくなるからだ。一度精神を病んでしまうと作られる化学物質の量が狂いやすくなる、みたいなことを病院の先生から聞いた。この虚無は100円のコーヒーを一発キメれば去っていく、なんのことはない神経作用の不具合。正しい表現であるかはわからないが、脳内の化学物質がときおり少なくなってしまう、それだけのことなのだ。化学物質の過多なんぞによってわたしのアイデンティティや性格や能力や心のあり方はまったく規定されない。何かが弱いとか劣っているとか、そういうことじゃない。ただそれだけ。それだけのこと。何も心配する必要はない。



地頭、という言葉が大嫌い。正確に言うと、地頭という言葉が使われる文脈の99%が嫌い。仕事上どうしても使う場面で何気なく発してしまうこともあるが、発した直後は心の中のレイチェルが「ファック」と呟く。レイチェルはずっと前からわたしの心に住んでいるアメリカ人のオカマで、不誠実なおこないをすると、わたしにファックとつぶやいてくれる。そう、ファックだ。地頭なんてファックなのだ。大抵の場合「地頭が良ければ成功する」「地頭が良い人は社会に出てからも強い」「地頭は生まれながらの才能であり、これが弱い人にはできないこともある」みたいな、ゴミのような文脈でこの言葉は使われる。めちゃくちゃにファックだ。

あと、「センス」という言葉も時と場合によってはあまり好きじゃない。「服のセンスがすごく素敵」とかはよく言うが、何かを成す上で、生まれ持ったセンスが成功のカギを握る、という文脈での「センス」は、なるべく使いたくない。

 

だって、それ言ったら終わりじゃん。「生まれながらに授かったもの=地」という意味なのでしょうけど、結局地頭が良い人がシャカイにおいて「強い」のだとしたら、努力する意味って何? そもそも、地頭って一体、何? 一を聞いて十を察せる理解力とか、論理的思考力とか、多くの人はそれらの力を「地頭」と呼ぶ。けれど、そんなものは人が持つ力のほんのわずかなひとつに過ぎない。人にはこれら以外にもたくさんの能力が備わっているし、「地頭」と呼ばれる能力群は、ある程度の訓練により真ん中以上になれることがほとんどだ。その訓練を10代のうちに受けられるかどうか、あるいは、それらの能力値がもともと高いということを早くから知れるかどうかは、教育環境や家庭環境の質に左右されるところも大きい。つまり、一定の年齢において発露されているように見える「地頭の良さ」なるものは、環境や努力の仕方など、もろもろ後天的な要素に依る部分が大いにあるのだ。

 

これら能力群が生まれつき高いことが、その人の人間としての価値の高さに結びつくわけない。ましてや、地頭の良さが人生における成功の鍵を握っているなんて絶対に嘘。物理法則と同様に確かですとでも言わんばかりの顔で「地頭の良さが人生の成功に大きく関わる説」を説く人がときどきいるが、そういう人はみんなばか。レイチェルに言わせればマザーファッカー。人はそのものが価値なのに、ほんの限られた能力が価値の高さを云々などと言う時点でお話にならない。

 

すべての人がさまざまな側面とさまざまな凹凸を持つ。当たり前です。雑に定義された虚像を特権めいたもののようにありがたがって、なにかの理由や言い訳にするその不誠実さが嫌いだ。地頭は一部の選ばれた人だけが生まれつき与えられた成功へのチケットであるという論法も大嫌いだ。この言葉は、どうも勝ち負けのイメージをはらんでいる気がする。頭脳勝負のうまさ、とでも言おうか。実にくだらない。頭脳勝負がうまければ、高い学歴を得たり栄誉ある地位を得たりするのかもしれませんが、そんなことよりもわたしには大切なものがたくさんある。人と痛みを分け合えるかとか、一緒に喜んだり楽しんだりできるかとか、日々の何気ない瞬間に愛情や感謝を伝えられるかとか、時間をかけた話し合いによって問題を解決しようとできるかとか。

 

苦手なことがあって当たり前だし、どんなに努力したってもともと得意な人にはどうしても遠く及ばないことだってたくさんある。でもあなたには、理解力や論理的思考力なんかよりもずっと秀でたところやうつくしいものがたくさんある。もう一度言う。地頭なんてぜんぶファック。憂鬱になったり虚無に襲われたりしたら、セブンイレブンの熱いコーヒーを一発キメよう。体質に合えばきっとすぐ楽になれる、はず。頭が悪いわけじゃない。心が弱いわけじゃない。大丈夫。