きみのお祭り

死ぬまで盛り上がっていけ

190421diary_散らばる鳩の残骸を見て

鳩サブレーを数年ぶりに食べた。びっくりした。鳩サブレーってこんなにおいしいの?砂糖と小麦粉と卵だけで?うそお?

鳩サブレーめちゃくちゃおいしい。おいしいが、めちゃくちゃボロボロこぼれる。もう、こぼれる。せんべいどころの話じゃない。週5で飲み会する大学生の単位並みにこぼれ落ちる。むしろこんなこぼれるような食感だから鳩サブレーはおいしいのかもしれない。しかしシャレにならない。床、鳩まみれ。

食べながらふと思う。いつからか、「なるべくこぼさずに食べよう」という発想がなくなった。ぼりぼり食べる。ボロボロこぼれる。床に鳩の残骸が散らばる。でも気にせずぼりぼり食べる。そして食べ終わったら机の上の残骸もまとめて床に払って、ソッコーで掃除機をかける。

実家に住んでいた頃、母によく怒られていたことを思い出す。「もうちょっと丁寧にやりなさい」「ちょっと気をつければ汚さずに済むのに」 いまでこそ昔ほど言われなくなったけれど、それでもやはり、床にこぼれた鳩の残骸を見たら、母は眉をひそめるだろう。床の板目のあいだにくずが入ったら掃除できないでしょ、とか言いそう。たぶん、言う。わたしはたぶん、聞いていない。

ミスしないこと、を目指していた。ただでさえおっちょこちょいだし、注意が散漫になりやすいから(なぜなら、驚くべきことにわたしの頭のなかは常に10個くらいの考え事や思いつきが同時並行でいろいろな音をたててまわっている)、なるべく手元に気をつけて、ミスをしないように慎重になろうなろうと。

けれど最近ようやく気づいた。慣れないことや向いていないことはしないほうがいい。どんなに気をつけたって毎月請求書の額はめちゃくちゃに間違えまくるし、洗濯物の干し方は下手だし、鳩は床に散らばる。間違えないように、と考えるだけで神経がすり減ってまいってしまうので、じゃあリカバリーの神になるしかないじゃん、と思う。リカバリーの神。たとえば、サブレーまみれの床にすぐ掃除機をかけること。請求書の額の間違いを教えてもらったらその場で1分以内に訂正して送り直すこと。洗濯ばさみの位置を間違えてもそのまま干し続けないこと。

やってしまいがちマンに大切なのは、そのままにしておかずすぐになおす力なのかもしれない。「どうせやらかすけど、リカバリーの神だから大丈夫」くらいの気持ちでいるほうが健全だし、実際、リカバリーの術を身につけていくことはけっこう楽しい。できないことの穴がひとつずつ埋まっていく。そうやって生活していけばいい。へんなとこ完璧主義はまだ直せないので、リカバリーによって最終形をなるべく完璧に持っていこうとするのは緩められないんだけど。あと5年後とかには、またなにか変わってるのかなあ。

20歳の頃許せなかったけれど今は許せるようになったこと、すごくたくさんあるような気もするけど、どうなんだろう。今だからそう思うだけで、その当時は「これが許せない!」ってそこまで明確に思っていなかったような気がする。なんだろうね。気づかないうちに少しずつ許せることが増えて、振り返ると「あれはあの当時許せてなかったな」って思うもの、なのかな。生活は見えない変化の積み重ねだね。目に見える変化なんてほんの少ししかない気がする。鳩サブレー、明治時代は鳩三郎って呼ばれてたらしいよ。かわいいね。