きみのお祭り

死ぬまで盛り上がっていけ

「一言もの申し上げたい欲」のためにセンシティブな話題を燃やす人間が多すぎる

 

3年前の広告が燃える。最近ツイッターで火を見ない日はないんじゃないかと思われるほど毎日そこら中で火事が起こっている。常時スプリンクラーを全開にしてもきっと追いつかない。その多くはマイノリティやフェミニズムに関する炎上で、これらのムーブメントに食傷気味の人も多く見られる。

ツイッター上では、これまで声を上げられなかった不条理や理不尽に対する怒りの爆発が大流行している。今までおかしい、嫌だ、と思いながらも我慢してきたけど、でもぶっちゃけこれってやっぱりヘンだよね?という不条理に対して怒りを燃やす人が後を絶たない。実際、「人々が過剰にセンシティブになっているのではないか」という声も多く上がっている。しかし、専門知識を持つ一部の層を除き、「また炎上? もう疲れちゃったよ」「ちょっと過剰すぎない?」「みんながみんなに優しい世界ができるといいね」以上の議論が進んでいる様子は今のところほんどなく、これでは結局「つらかったのは分かるけどそんなに怒りすぎないで」「みんなで努力して良い世界に変えていこうよ」という小学校並みのオチしかつかない。

 

わたしは昔、殺人事件のニュースに強い興味を覚える子どもだった。幼稚園生の頃から、朝の登園前にニュースで殺人事件がやっていると画面に釘付けになっていた。いつどこで死んだのか、どんな凶器で殺されたのか、何歳か、性別は、名前は。しかしそれ以上に気になったのは「どうして殺したのか」だった。加害者はなぜ被害者を殺したくなったのか。幼稚園のばら組さんだった頃は難しい言葉や道理など一切わからなかったが「金が欲しかった」「人間関係のトラブルがあった」のように、殺す側には何かしらの理由があるのだということはなんとなくわかった。そしてそれはすべての場合において、加害する側の弱さが最悪の形へと変わって表れた結果であることも。

 

さて、燃えているツイッター。燃やしている側には、どんな理由があるのか。一連のさまざまな着火や炎上や延焼を見て、わたしが最も気になったのはそこだった。

はっきり言って、今ツイッター上でセンシティブな話題を燃やしている人のほとんどは、正義と大義名分を振りかざして「人に何かを言ってやりたい欲」を満たしたいようにしか見えない。加害は加害者の弱さそのものだ。加害する人は、同じように誰かに加害された経験を少なからず持つ。良い形の解決を本当に目指しているならば、他人の弱さを煽ったり晒したりする問題提起の仕方はすべきではないことくらいわかるはずだ。意図していなくとも「燃えそうな」書き方をする人は、心のどこかに「燃えたら良いな」という思いを持っているのだと思う。意地悪でそう言っているのではなく、人間誰しも、自分を加害したやつに仕返しをしたい気持ちを持っているのは当たり前のことだから。そして問題が道徳的な正義を背負える性質のものであるほど、「言ってやったぞ」という物申したい欲はなみなみに満たされていく。間の悪いことに、セックスとジェンダーを包括する「性」のトピックは、この性質と相性が抜群だ。

 

たとえばこれ。発端となったツイートはこの記事の本旨は関係ないため文脈は省略するけれど、ある誤った指摘をした人に対して、まったく関係のない外野が列をなして嬉々としてお説教を垂れている。誤った指摘をした当人の肩を持つ気は微塵もないが、「外野がそこまで寄ってたかって叩くようなことか?」という感想しか出てこない。

 

 

こんな現象は毎日何百何千と観測される。これだけでなく、「悪行をしたやつにこんな仕打ちをしてやってスカッとしたぜ」系のコンテンツは、古くからメディアに溢れかえっている。センシティブ炎上芸が流行るより、ずっとずっと前から。

正論で人を殴るのは気持ちがいい。大義名分を背負って野次を飛ばすなんて最高だ。わたしたちの多くは、程度の差こそあれ、「一言もの申し上げたい欲」「大義名分を掲げて何かを思う存分に殴りつけたい欲」を心のうちに秘めている。非常に、非常にダサいけれど。なぜそんなことがわかるかというと、わたし自身、そうやって他人のことを撲殺してきたからだ。圧倒的に正しくて強大な道徳を味方につけ、正義のために悪い奴らをやっつけたい。そうやって気持ちよくなりたい。でも一体、どうしてそんなことをする必要があるんだろう。

 センシティブ炎上芸は、いじめの構造と非常によく似ている。いじめっ子といじめられっ子は、客観的に見れば問答無用でいじめっ子が悪いのは間違いない。しかしいじめっ子たちの主観から見れば、彼らの行いは正当なのだ。自分のしていることを「(自分にとって)100%悪いことだ」と認識しながらそれをやる人間はいない。「(客観的に見たら)悪いことだよなあ」ということはわかりつつ、それでもそれをやることが自分にとって何らかの善であることしかやらないように人はできている。先生にいたずらの告げ口をしたから。弱っちいから。なんかムカつくから。だから、あいつをいじめる。彼らには彼らなりの正当な理由があり、彼らの正義に従って人をいじめる。その理由が客観的に見て不当であるかなんて、いじめる側には関係ない。これと全く同じ構造の炎上が、今まさにそこかしこで起こっている。

 

今後もやまないであろう炎上において意識すべきは、弱さと正義を盾にした炎上芸と本当に必要な問題提起を見誤らないことだ。その線引きはシンプルで「関係する全員にとってより良い形へと収束するような問題提起ができているかどうか」だと思う。傷つきました!嫌な思いをしてきました!許せない!という感情の発露は、ネガティブな感情を増幅させども、本質的に壁を壊す力にはなりえない。本当の解決とは、誰もの傷が癒え、同じ事態を二度と引き起こさない土壌を育てるところにある。綺麗事ではなく、本気でそう思う。加害された側が被害を受けた側に懲らしめられ一時は大人しくなったとしても、必ずいつか復讐が始まる。ならば、全員が傷を癒やすしか道はない。そのためには、まず問い方に慎重になるべきだと思う。どう世に問うか、どうあなたに問うか、どう自分に問うか。そこからすべては始まっている。