きみのお祭り

死ぬまで盛り上がっていけ

東京で生きていくということ

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東京を生きていくために必要な技術はいくつかある。他人と肩が触れ合うかどうかの電車に乗ったらすぐにポジションを確保しミニマルな動作でリュックサックを背中から前に抱え直す技術。スーパーのタイムセールの時間が近くなったらそれとなく店員さんの動きを追う技術。エスカレーターの右側を同じテンポで上り続ける技術。向こうから歩いてくる明らかに挙動が不審な人をさりげなく避ける技術。大きな本屋で欲しい本の棚を見つける技術。エレベーターで知らない男の人と乗り合わせたら意識をそらしつつこっそり最低限の臨戦対戦に入る技術。狭い土地のなかの緻密に編まれた街は、生きていくためにたくさんの振る舞いをわたしに要求する。不便かと問われれば、たしかに窮屈さを感じる瞬間はある。けれどわたしは生まれたときから東京の中で東京と一緒に東京として育ってきた。彼が要求する振る舞いはわたしの振る舞いそのものとして無意識へと定着したので、不便はなくいつも自然である。そしてわたしは、田舎の電車がめったに来ないことと、田舎のバスが時間通りに来ることにひどく驚く人間になってしまった。

土地が要求する振る舞いは、多かれ少なかれその人の振る舞いを形作る。何を選ぶか、何を選ばないか、何をするか、何をしないか。東京では、選ぶことが軽やかだ。何を選んでも誰もわたしのことなど見ていない。誰もわたしの名前を知らない。誰もわたしの顔を知らない。わたしに名前は存在せず、わたしの顔は街の人の顔だ。だから、すべてが軽やかだ。何を選んだっていい。選んだものをすぐに捨てたっていい。捨てたものを拾ったっていい。直して使ったっていい。好きに選び好きに味見し好きに捨てて、物があふれる街々から必要なものだけをほんの一掴み握って、軽やかに通り過ぎてゆけばいい。人の目が多いぶん許されたり見逃されたりすることが多く、人の目が少ないぶん許されなかったり見咎められたりすることが多いというのは、なんだかすこしおかしくなってしまう。そういう意味で、東京の人間は生まれながらに逸脱が逸脱になりづらい。逸脱という言葉自体がほとんど意味を持たないことすらある。どこにでもここじゃないどこかがどこまでも存在する。軽やかだ。どこへでも逃げ出せる。誰にでもなれる。この狭い土地の緻密に編まれた街では、誰も名前を持たなくていい。逃げ出せばいい。選べばいい。誰もあなたのことなど知らない。だからあなたはどこまでも、あなたとして好きに生きていけばいい。