汽水域

海水と淡水のあいだ

山田くんは怖かったけれど、怒っている彼はうつくしかった

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席替えがあるたびに、わたしは神さまに祈った。どうか、どうか山田くんの隣になりませんようにと。

山田くんは3年2組の問題児と目されていた。授業中はとにかく騒ぐ。大声でマシンガンのように喋り続ける。消しゴムをちぎって投げる。コンパスで前の席の子の背中をつつく。休み時間はすぐに男子同士で取っ組み合いを始めるので、いつも先生に怒られる。最初はふざけっこでやっているつもりが、山田くんはいつの間にかマジになって、3回に1回は本気の喧嘩になる。彼は3年生にしては体が大きく、本気の喧嘩でもあまり負けなかったが、ときどき相手に髪の毛を引っ張られて床に顔を擦り付けられるような負け方をして、そんなときはボロボロと大粒の涙をこぼす。ふしぎなことに、普段あれほど大声でしゃべる山田くんは、泣くときは決して声をあげず、ただ真顔で涙をボロボロこぼすのだ。

山田くんは給食中もとにかくうるさい。口にものをいっぱい頬張ったまま大声を出すので、噛んだごはんが口からしょっちゅう飛び出した。牛乳を飲んで盛大にゲップをするし、ひどいときにはゲップをした勢いがあまってその場で嘔吐した。給食の時間は机を5人一班で向かい合わせにするため、向かいの席の子はいつも被害にあってしまう。その頃、3年2組はハタノ先生の決めたルールで男女が隣同士になるように席が決まっていたので、山田くんの食べカス被害を受けるのはいつも女子だった。大抵の子は半泣きになり、中には本気で嫌がって給食の時間中に大泣きしてしまう子もいた。けれど山田くんは何度怒られても、食べながら大声でしゃべるのも、ゲップをするのもやめなかった。女子はみんな山田くんが大嫌いで、席替えのたびに彼の隣の席のくじを引かないよう本気で祈っていた。一部の勉強がよくできる男子も山田くんのことを鼻で笑って敬遠していたが、クラスの男子たちのあいだではそれほど嫌われていなかったように思う。大半の3年生男子は鼻水を垂らしてちんちんとうんこの話が大好きで取っ組み合いをするので、山田くんとそれほど大差なかった。違いといえば、大半の男子が先生に怒られるとたいてい調子に乗らなくなるのに対して、山田くんは何度怒られてもずっと問題行動を起こし続け、女子から徹底的に嫌われていることだった。学年一おっかないイワサキ先生が本気のげんこつで山田くんを殴っても、山田くんはずっと消しゴムをちぎり、取っ組み合いを起こし、給食の食べカスを撒き散らし続けた。

ハタノ先生は山田くんを怒るたびに「どうしてあなたはいつもそういうことをするの!」と問い詰めていたが、そのたびに山田くんは「はいはいすみませんでしたー!!!」と繰り返すばかりで、とにかく話を聞かないし、話が通じない。そういう態度が余計に先生を逆撫でするとわかっていてやっていて、それはイワサキ先生に怒られようとも変わらなかった。

いま思えば、山田くんがそういう態度をとっていたのは、山田くんだけの問題ではなかったように思う。彼はほとんど毎日同じ服を着ていて、一週間服装が変わらないのが当たり前だった。歯を磨かないからいつも口がくさくて、爪の間やほっぺは汚れとホコリで真っ黒だった。そうした不潔さも山田くんが忌まれる大きな原因の一つだったが、当時は一部のバカ男子以外の誰もが山田くんを避け、誰も彼と正面から関わろうとしなかった。先生は山田くんと向き合おうとするのではなく、山田くんを収めようとした。女子は山田くんを徹底的に排除した。

わたしもご多分に漏れず、山田くんが心底怖かった。最初は、なぜこの人は何回言われても同じことをするのだろうと思っていたが、そのうち、山田くんは言葉が通じない宇宙人なのかもしれない、と本気で考えるようになった。無論食べカスを撒き散らされることや突然大声を出されることも非常に嫌だったが、それ以上に、「言葉が通じない」ということの底知れぬ恐怖を感じていた。宇宙人。何を言っても届かない。わかってもらえない。だから、なるべく関わらないように。山田くんがそばに来るたびに空恐ろしい気持ちでいっぱいになり、いつもさりげなくその場から逃げた。

けれども、わたしが唯一山田くんを怖いと感じない瞬間があった。それは、山田くんが癇癪を起こしているときだった。山田くんは怒ると手がつけられないほど暴れる。本気で怒っているとき、彼はとにかく暴れに暴れまくった。大声を出していることもあれば、涙を流して黙って暴れることもある。そのときだけ、わたしは、山田くんにふしぎな共感をおぼえた。山田くんは怒っているのだ、ということが、彼の全身から痛いほど伝わってきて、わかる、山田くんが怒っているの、すごくわかる、と思った。がんばれ、とすら思った。もっと、もっと怒れよ山田くん。そうだよ、きみはもっとそうやって、怒っていいよ。なぜだかわからないけれど、山田くんが怒ってるのは、嫌いじゃなかった。変な言い方かもしれないが、それほどに彼の癇癪はまっすぐで、正直で、さわやかだった。いつものようにふざけて暴れる姿とは全く違っている。だから山田くんが怒っているとき、わたしはこっそり応援していた。どうしてそれほどまでに山田くんの怒りがわたしを捉えたのかはわからなかったけれど、人が本気で怒る瞬間をずっと見ていたい、と思えたのは、後にも先にも山田くんしかいなかった。山田くんが怒っている理由はそのときどきでさまざまだったけれど、山田くんが怒っている姿そのものは、すごく、気持ちが良かった。

山田くんは4年生になってから転校した。その頃はクラスも離れてしまったので、どこに行ったのか、なぜ転校したのかなどは何も分からなかった。これでもう山田くんに怯える生活はなくなる。5年生のクラス替えで山田くんと同じクラスにならないかどうかを気にしなくて済む、と胸をなでおろした。けれども、ほんとうにたまにだけれど、いまでもわたしは、また山田くんが本気で怒って本気で泣いている姿を見たい、と思ってしまう。誰にも相手にされなかった彼が、唯一外部との接触をしようと本気で試みている瞬間が、その怒りにあった。救われない話だ。けれども、だからうつくしかった。彼がその後どうなったのかは知らない。願わくば救われていてほしいと思う。救われて、怒らずともうつくしくなっていてほしいと思う。