汽水域

海水と淡水のあいだ

ADHDを克服しようと思う

克服しようという気持ちで克服できるんかって話だけど、ひとまず本気で克服しようと思う。これまでいろいろな方法で「対処」を頑張ってきたけれど、ADHDでいること自体のストレスに対して、「対処」がそろそろ限界だと感じるようになってきたから。

一昨年、発達障害を診てくれる精神科でADHDASDの両方を診断されている。診断されたときは、「ああそうなのか(そういえば思い当たる節が300個くらいあるな)」と「だからなんやねん(発達障害があろうとなかろうと楽しく生きれればええねん)(発達障害だから何かができないじゃなくて、これができないからこうやって何とかするという努力を忘れないぞ)」という気持ちがあった。そのような障害があると知ったうえでこの2年ちょっと工夫をしながら自分と付き合ってきたわけだけど、最近わたしのなかで、自分の発達障害、特にADHDに対する心持が少し変わってきた。

 

ADHDを受け入れることはできるけど、ADHDによる失敗は精神をガリガリ削ってくる。やらかしたとき、心に余裕があれば「まーたやっちまったぜペロ」くらいで済むが、心に余裕がないときは「ほんとうに何なんだお前は絞め殺したろか」という気持ちになってしまう。

特につらいのが、注意欠陥と多動が同時に強く出ているとき。ちょっと常識を外れた忘れ物をするし、比喩抜きで10秒前にしたことを覚えていられない。スカートをはかずにスパッツだけで外出していることに気がついたとき、食洗器に洗剤を3回連続で入れたことに気がついたとき、心は冬の指先のごとくささくれる。高いんだぞ、食洗器用の洗剤。ジョイとはわけが違うんだわ。

注意欠陥と多動の状態にあるときは、ほんとうに「心ここにあらず」なので、もはや別人格に近い。何をしていたのか、何を思ってそんなことをしたのか、数秒後にはまったくわからないし、覚えていない。「どうしてこんなことになっているのか」と目を丸くしたこと山のごとし。リカバリーがこれまたすごく大変。

あと1分で家を出なきゃいけないときにスマホとイヤホンが両方なくて、必死で探して5分遅れで家を飛び出す。駅について気がつく。なんとカバンを玄関に忘れている。わたしはそういう人間なのである。

「障害と共存しよう」「できるところを伸ばそう」「失敗の予防ではなく素早いリカバリーを」と決めてやってきたが、もー無理。生来のせっかちと勢いあまって一周回る前進志向が染みついているので、どうしたって心が削れる。やっぱり人間の性根ってそんな簡単に変わるもんじゃない。受け入れることはできても我慢することはできない。じゃあ我慢しない方が体にいいんじゃないの。

 

ということで、ADHDを本気で克服しようと思う。具体的には「洗練した仕組みを作りそれを体に徹底して叩き込む」に尽きるが。

幸いなことに(?)、わたしが強く持っているASDの特性の一つ「日常のルーティンに強くこだわる」が注意欠陥によるケアレスミスに効きそうである。ケアレスミスを防ぐためのルールを習慣化し、そのルーティンが欠落すると気持ち悪いと感じられるまでに体に叩き込めれば、理論上ケアレスミスを限りなくゼロに近づけることができそう。

わたしのケアレスミスの多くは、「せっかち」に由来する注意欠陥と多動である。とにかく無駄な動きが嫌い。最短ルートで目的を達成したい。その思いが染みついているがゆえに、ミスって結果最短ではなくなるのだ。

「ノーミスは最短である」とデコにスミでも彫ろうかしら。

どうなるかはわからないが、ひとまずやるぞの決意表明。発達障害を知ってから「発達障害を持っている自分にやさしくしよう」と努めてきたが、ミスに強い苛立ちを感じる自分を包み隠す方が苦痛になってきた。わたしはそういう自分が嫌い。だから叩きなおす。それでいいんじゃない、と思えるようになってきた。

堂々と自分を嫌えることも大事だと思う。自分へのヘイトを揮発剤にできるなら。ようは根性である。何だよ結局精神論かよと言われてしまいそうだが、この克服は愛なくしてはなしえない持久戦である。だから、根性だ。根性とは魂の強度だ。やるぞ。わたしは、ADHDのせいでミスばかりする自分が、大嫌いです。自分をこれ以上嫌いになりたくないから、お前に中指を突き立て、ADHD克服してやるからな。