きみのお祭り

死ぬまで盛り上がっていけ

関心を装った支配について

他人の注意をひきたがる人は、どうしてすぐにわかってしまうんだろうね。という話を夕食の席で夫としていた。いわゆる、構ってほしい人。我われ人間は、他人が自分に対して向ける「注意をひきたい」を容易にキャッチできてしまう。

なんでだろう。なんでか、わかる。わたしは構ってほしがる人を「支配する人」と言い換える。「ねえ~かまってよ~」というような冗談を交えた愛情表現をほどほどにしてくる人にはそこまで嫌な気はしない。が、「あなたにとても関心があるんです」「もっとあなたと関わりたいんです」という風を装って、こちらの意識をコントロールしようとしてくる他人の言動に対しては瞬時に本能が反応する。「あ、これ以上近づきたくない。近づいてほしくない」という気持ちが沸き起こる。

構ってほしい人は、「あなたの意識をわたしに向けさせること」が言動の端々にかいまみえている。本人はかいまみえていることに気がついていない。そういうことをする人が抱えているものは、さみしさだったり、同じ量の愛情を向けられることを期待した愛情だったりするのだが、そういう介入のされ方はとてもしんどい。

むずかしいのは、本人に「支配をしようとしている」という自覚がない分、拒絶をすると深く傷つけてしまいかねないこと。不要に傷つけたくはない。しかしあなたの業に巻き込まないでくれ、と心の底から思う。関わり方としては、「ものすごく距離をとった共生」が最適解になるが、そこに辿りつくまでになかなか神経や時間を使うので、端的にめんどうくさい。「あさましい」という嫌悪感に任せて関係を丸ごと切り捨てるのもひとつの手ではあるが、あまり進んで使いたい手ではない。それはなんだか、ちょっと浅はかな気もする。

関心表現に見せかけ支配をしたがる人が何を求めているのか、何が満たされていないのかはすこし気になるが、その気持ちを満たしたいという気持ちには到底なれない。むしろそういうことをされた分だけ、心はその人から離れていく。きっとそれを、する側の人もどこかではわかっているとは思うのだけど。でも、やめられないのだろうな。そういうかたちでしか、他人と関わってこられなかったのかもしれない。

 

(おまけ)

ほんとうに友達になりたいと思っているとか、こっそり尊敬しているとか、そういう人の態度は、むしろわかりづらいことの方が多かったりもする。互いに特に相手のことを気にする風もなく、つかず離れず、むしろ「やや離れ」くらいの距離感で細く長く付き合っていて、ずっとあとになってから「実は友だちになりたいと思っていた」と互いに思っていたことが発覚する、みたいな。そうなると、付き合いが長いにもかかわらず変に立ち入り過ぎなかった分だけ、一気に距離が縮まることもある。こういう瞬間は、すごくうれしい。積み重ねた時間の厚みが親しみへと変わっていくとき、わたしはその人のことをもっと好きになる。いつもそういう感じで友だちが少しずつ増えていく。時間がかかる分だけ(そしてその時間をわざわざ意識するわけでもないため)、増える友だちはなかなかに少ない。年にひとりかふたりくらい。でもやっぱり、それくらいがちょうどいい気もする。