きみのお祭り

死ぬまで盛り上がっていけ

山と身体の相性について

山登りが好きだ。18歳のときに人生初の山登りで富士山の頂を踏んで以来、なんとなくずっと山に登っている。たまに人と一緒に登ることはあるが、ほとんどはソロ山行。山に登るのは、山に会いに行くためだから。下界で会いたい人に会いに行くのに「ほかの人も誘いましょうよ」というのは野暮である。「グループ登山にはグループ登山の良さがある」と山の人によく言われるけれど、そして実際何度かやってみたけれど、それは「山に会いに行く」ではなく「人と山に行く」であった。やっぱりはわたしは山に会いに行きたいのだ。ひとりで。

とはいえ、山と言えばどんな山でもいいわけではなく、相性の良い山と悪い山がある。景色が良いとか、花がたくさんあるとか、そういう山ばかりが良い山というわけではない。わたしにとって良い山とは、相性の良い山である。

具体的に説明するのはむずかしいが、相性の良い山は、取りつき始めてすぐに、身体と山が交わっている感覚が起こる。斜面を一歩一歩踏みしめるたびに、身体の奥底をどうどうと流れる生命のかたまりのようなものが脈打つ感覚がくる。そんなとき、わたしは「あ、相性の良い山だ」と感じる。全身でその山肌を掴み、味わい尽くす。呼吸を整えるために立ち止まったとき、頭上を樺の葉が無数きらめいているのを見ると、泣きたくなってくる。小さな草の根が岩肌を掴んでいるのがこのうえなくいとおしい。そして振り返れば、青く遠い遠いなんとも大きな山脈! 山に囲まれ、山を登り、気持ちよくて、何が何だかわからなくなってくる。この一連の恍惚が何とも言えず、山に登るのをやめられない。これが、わたしにとっての山登りなのだ。

一方、相性の悪い山もある。どんなに景色がきれいだろうと、百名山として名高かろうと、身体が喜ばない山。あるいは、一歩踏み入れると芯の方がキュッと縮こまるようなそら恐ろしさのある山。そういう山は、早々に登って下りてしまう。良い山に出会うためのトレーニングとして登るには登るが(天気予想とさんざんにらめっこをして都会からばかみたいな交通費をかけて行った執念も成仏させねばならない)、花や樹々の写真だけ撮って、食われないうちに逃げる。そう、相性の悪い山は「食ってくる」のだ。

良い山はそうやすやすと見つかるわけではない。5座登って1座あるかないか。けれどもその1座の恍惚が忘れられず、また山を探しにふらふらと出かけてしまうのだ。

山が好きだ。山に吹く風、山に降る雨、山に生きるもの、すべてが好きだ。相性のよしあしとは関係なく、山というものはほんとうにすごい。山が山を山している。その姿はひとつの宇宙のようでもある。いまは都会でいそがしく過ごしているが、そこそこの年齢になったら、好きな山に篭って暮らしたい。