きみのお祭り

死ぬまで盛り上がっていけ

たった一人に届きますように

仕事というものにあらかた慣れて初めて気がついたが、わたしはとにかく、大勢の人に向けて何かを呼びかけたり、はたらきかけたりすることが苦手だ。一社目で入った大きなメーカーでは商品企画職をしていたが(実際はすぐに辞めたので企画職の卵どころか受精卵レベルのこともしていなかったが)、「わたしはいったい誰に何をしているのだろう」という悩みが寝ても覚めてもついてまわった。そののち、学生時代から何となく続いている「文章を書く」ことが少しのお金になるようになって、それで大勢に向けて、その人たちが欲しいと思うようなことを書いたりもしてみたが、これもやはり「いったい誰に何を……」という思いがぬぐえず、楽しめる仕事とは到底言えなかった。

わたしには、「ある」と感じられる宛先が必要なのだ。家族を想い祈る。友人を想い祈る。時間や場所を遠く隔てた、名前も知らない、けれどもそこに確実に「ある」とわかるその人を想い祈る。あるいは、人間ではないもっと大きなものや、その大きなものが姿を変えて顕れた小さなものを想い祈る。そうした行為―そこにあるもの、近かろうと遠かろうと、そこにいるとわかる誰かや何かのために時間を燃やすことの繰り返しが、自分にとってすべき、たったひとつのことであるように思われる。そうしているとき、わたしはわたしという有限の枠を飛び超えて、透明であるような気がしてくる。

祈りといってもたいそうなことではない。ただそれを心に描くこと。ただそれに触れること。ただそれを祝福すること。ただそれをかなしむこと。ただそれにゆだねること。そうした行為の積み重ねである。わたしのすべきことは、それしかないのだ。

たった一人に届きますように。目に見えるかたちで贈りもののように届かなくてよいが、この祈りが何らかを通じて、どうか、いつかその人の、その何かのさいわいへと通じますように。そのような思いで、ただ今日も今日とて、繰り返している。