きみのお祭り

死ぬまで盛り上がっていけ

自己肯定感をブチ上げない2021

自己肯定感ブチ上げ、がトレンドっぽい。

「自分(たち)は最高にクールでブリリアントでグレイト!」みたいなのが流行っている気がする。なぜかはわからないけれど。kemioさんとか叶姉妹のお二方とかの影響だろうか。

ノリノリでブチ上げの自己肯定は、楽しい。「うち(ら)ってサイコー」の心意気は事実、支えになることもある。やばすぎて一周まわってハイになったら馬鹿力が出て結果サイコー、みたいな経験も、すっごく気持ちいい。

けれどもわたしはどうしても、この心意気ににじむカラ元気感に、一歩引いてしまう。

これは、「ハレ」の心意気である。自己肯定感をブチ上げると世界がキラキラして見えてくるのは、たぶんそのせい。ある種のドラッグ的な。短期的には効くかもしれないが、長くやっていくのはむずかしい。

 

「最高にクールでブリリアントでグレイト」。それは、理不尽や不条理を跳ね返す魔法の鎧。しかし外圧はいつだって、思わぬところから思わぬかたちでこちらを叩き潰しにくる。頑張っても頑張っても、その努力を嘲笑うかのように、理不尽は積み重ねた労力や時間を一瞬で粉々にする。

ブチ上げの対抗魔術の先にあるのは、パワーゲームだ。外圧vs.自己肯定。ブチ上げるには体力気力も相当必要である。体力気力のこもっていないブチ上げは、ただただむなしい。力を伴わない自己肯定は、一歩間違えると自分をより一層深い虚無に突き落とす。「わたしの思ってたことはぜんぶ嘘だったのかもしれない」という魔が心に影を落としたときの、あの温度のなさ。

「最高にクールでブリリアントでグレイト」をやり続ける限り、パワーゲームからはおりられない。叩き潰されることへの対抗と勝利が「より強くある」でしかないことは、塩水を飲んでのどの渇きを潤すのと似ている。

 

だからわたしは、自己肯定感をブチ上げたくない。こだわらずに、うまくだいたいを忘れたり、かわしたり、風や水のようにしていたい。

 

浄土真宗の祖である親鸞の教えを記した歎異抄のなかに、こんな話がある。

浄土真宗はひたすら「南無阿弥陀仏」を唱える宗教である。もし、他の宗派の信者に「念仏など無意味だ。浄土真宗の教えなど浅はかで卑しい(もっと高尚な教えを勉強をしろ)」と軽蔑されたら、こう答えよと親鸞聖人は言う。

 

「わたくしたちのような、仏道修行の能力に乏しく、読み書きもままならず、煩悩にとらわれ迷いから抜け出せない人間でも、阿弥陀仏を信じさえすれば救われるから、念仏を唱えるのです。仏の道の修行に秀でた方々には卑しいと思われたとしても、どうしようもないこの身には、これが最上の救いです。もし念仏よりもすぐれた方法があろうとも、わたくしたちには到底ついていけないと思われます。すべての生きとし生けるものが生死の輪廻を抜け出すことが仏の悲願。どうぞ妨げられないでくださいませ」

歎異抄 十二章 訳は自身による)

 

うまいなあ、と思う。自己卑下をしているようでいて、そうではない。どうしようもない。だからこそ阿弥陀仏が救ってくださるのだ。どうしようもない。だからこそ阿弥陀仏を信じるのだ。という信心の真髄が垣間見える話だ。

いや、言いたかったのはそこではなく、自身が仏道修行に及ぶほどの力のない身であることを受け入れているからこそ、抵抗も言い訳も必要とせず、ただ、「こうしたい(こうされたくない)」ということだけを見据えている。その説得力、しなやかさたるや。

 

というわけで、わたしもそんなふうにいきたい。耐え忍ぶでもなく、パワーゲームに参加するでもなく、ただ正しく見つめ、どうしたいかだけを考えていたい。

 

自己肯定感をブチ上げるのは楽しい。けれどいつか、「最高にクールでブリリアントでグレイト」だと思えなくなった日、わたしは生きることを見失ってしまう。 だからこれは、一年のうちほんの一瞬だけ使う奥の手として隠し持っておくことにする。

ハレではなくケで生きながらえるような、そんな心意気を胸に、2021年を開幕したい。