汽水域

海水と淡水のあいだ

ルールの話

最近、仕事で手引きみたいなものをいくつか作るうちに、「ルールはどこを向くべきなのか」についてよく考えるようになった。「~してください」  「~しましょう」「~するようお願いいたします」という文字列を繰り返し打っていると、ふと「この言葉はいったい誰に響くんだ?」という気持ちになってくる。

ゲームのルールと集団のルールは違う。前者はそのゲームを成り立たせる構造そのものである一方で、後者はそうとは限らない。集団のルールは共同体の構造を規定するだけでなく、目指す秩序や理想的なあり方を示すために立てられる側面が大いにある。つまり、"had better/must(n't)"と"I'd like you to"が混在するのだ。これがなかなかむずかしく、文章にすると両方が「~してください」  「~しましょう」「~するようお願いいたします」になり、伝えたいことがぼやけるし、くどく、口うるさい文章になる。

集団のルールを不自由に感じる人、すなわち、その集団が目指す秩序とは相容れない価値観を持つ人に対して「これこれのルールを守りましょう」と言ったところで、言われた側は不自由さを感じるだけだし、「よーし、守るぞ!」という気持ちになるわけでもない。どちらかと言えば「めんどくせーな」である。一方で、自然体のままその場所の秩序を保てる人や、指示や強制をされなくとも望ましい振る舞いができる人には、そもそもルールが必要ない。
となると、一体ルールというのはどこを向けばよいのか、何を目指して明文化すればよいのか。「してほしくないこと」だけを羅列した手引きは、堅苦しくて息苦しい。「してほしいこと」だけを羅列した手引きは、押しつけがましく暑苦しい。両方を取り入れた手引きは、あいまいでくどい。非常に悩ましい。

求心力のあるルール。そこにあるだけで集団へのロイヤリティが自然と高まるような、各人のなかにある倫理を引き出せるような、そんなルールを明文化したい。それは、「してほしくない/してほしい」という文法とかけ離れたところにあるのかもしれない、と思い始めている。