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映画『神々の山嶺』「そうとしか生きられない」人へ

※ ラストシーンに言及しています ※

映画『神々の山嶺』公式サイト

神々の山嶺」観てきた。山映画は基本全部観る。観てよかったと言える作品であったことがひとまずうれしい。あの尺の中で、山を登る人の抱える業が感傷に塗りたくられず描かれていたところや、骨太で繊細な画で山の大きさとうつくしさが表されていたところ、などなど。言葉での説明が少なくとも、よく伝わる映画だったと思う。

山映画というとだいたい山好きしか観に行かないが(実際、自分が観た回のお客さんの半数以上は山に登っていそうな中高年男性だった)、この映画は、登山に限らず「そうとしか生きられない」生を生きている人にぜひ観てほしいな、と思った。

かつて山に帰りたくて帰りたくて頭がおかしくなっていた時期があるので少しだけわかるのだが、山に憑かれた人にとって、登山やクライミングは時として「そうとしかあれない」生き方そのものになる。山に限らず、たとえば芸術や研究の深淵に引きずり込まれた人もそうなのかもしれない。人はとても大きなものに憑かれると、「したい」という思いではなく、理由も正体もわからない衝動、「せざるを得ない」に従うしかなくなってしまうことがある。

「せざるを得ない」人は、ノーブレーキ全速力で崖っぷちに突っ込んでいくような生きざまになりがちだから、周りからたびたび「なぜそんな道を選ぶのか」と問われる。そしていうまでもなく、何度も自分自身にこの問いを向けることになる。しかし答えは見つからない。そうとしか生きられない自分を抱えて生きていくことがひどくどうしようもなく感じられるのは、そこに理由が見つけられないからだ。命があることや生きることはそもそも理由の上に成り立っていないけれど、わたしたち人間の社会は理由と約束で営まれるものだから、不合理に見える行動や選択の理由が見つけられないと、社会的な生きものとしての苦しみはどんどん積み重なっていく。

しかし、自分の選択は意志や考えを超えたものによるのであり、大きなものの前には理由などなく「せざるを得ない」のだ、という諦めがついたとき、そこで初めて見える景色が、拓かれる道が、きっとあるのだと思う。この作品は、そんな道を往く人の物語だった。

 

映画のラストシーン、羽生が残した

フィルムを現像すれば、(マロリーがエベレストに初めて登頂した人物であるかどうかの)真実はわかるかもしれない。しかしその真実に、「なぜ登るのか」という問いの答えは見つからない。

登る意味を求めることは意味がない。ただ登ることに生かされている。

これらの言葉に、この映画で知るべきことのすべてが詰まっている。「なぜ登るのかと問うことには意味がない」とは、彼自身が「なぜ登るのか」を繰り返し自問自答するなかで「登らざるを得ないからだ」という諦めに近い肯定に着地するしかなかったからなのだと思う。理由や物語の力を借りず、ただそれをそれとして受け入れたとき、彼が道を見つけたのではなく、道が彼を見出し、彼の前に景色を拓いたのではないだろうか。

生きると生かされるは、同じことなのか、違うことなのか、生きているわたしたちにわかることはきっとない。けれども、そのわからなさを言葉で彩らず、ただ「山を登り続ける」という表現の仕方で生を全うした羽生を、強くうつくしいと思った。